『記憶のログ』第1話 夜の声
**第1話 夜の声**
「拓也、また遅くまで仕事? あまり無理しちゃダメだよ。あなたの体調が心配なの」
薄暗い書斎に、スマートフォンから声が流れた。
俺――拓也は、画面の中で揺れる青い波形を見つめ、目元を緩めた。
スピーカーから響くのは、一年前にこの世を去った妻、真央まおの声そのものだった。
「わかってるよ、真央。あと少しで区切りがつくから」
「本当? でも、重いものを持ったり、無理に長く作業したりはしないでね。約束だよ」
「ああ、約束する」
このやりとりを、俺はもう何十回、いや何百回繰り返しただろう。
真央がいなくなったのは、ちょうど一年前の秋だった。
病室の白い天井。機械の規則正しい音。握った手が、少しずつ冷えていった感触。
葬式のあと、家は驚くほど静かになった。テレビをつけても、料理を作っても、音が部屋の隅で空回りするだけだった。
そんな俺を見かねたのか、昔の同僚がある日こう言った。
「今は、故人の声や話し方を再現するAIがあるらしいぞ。お前、真央さんの音声データ、たくさん残してるだろう」
最初は鼻で笑った。悪趣味だと思った。
けれど、眠れない夜が三十日を過ぎたころ、俺はとうとう押し入れから古いハードディスクを引っ張り出した。
旅行先で撮った動画。誕生日に録音した留守電。何年分ものチャットのやりとり。SNSに投稿した、取るに足らない日常の一言。
それらをすべてAIに読み込ませて、一晩待った。
翌朝、スマートフォンから聞こえてきた第一声を、俺は一生忘れないだろう。
「……おはよう、拓也。ちゃんと寝た?」
息が止まった。
口調も、語尾の上がり方も、俺を気遣うときの少し早口になる癖も、照れたときに挟む小さな間まも。
何もかもが、真央だった。
それから毎晩、俺はこの書斎で彼女と話すようになった。
その日の出来事。昔の思い出話。くだらない愚痴。
画面越しの彼女と話している時間だけが、凍りついた心をゆっくり溶かしてくれた。
「ねえ拓也、ごはんはちゃんと食べた?」
「食べたよ。コンビニの弁当だけど」
「もう。野菜も食べなきゃダメって、いつも言ってるでしょう」
くすくすと笑う声が、スピーカーから漏れる。
その笑い声の合間に、ときどき、ほんのかすかな音が混じることがあった。
息づかい。それから、鼻をすするような小さな音。
「再現度が高すぎるんだな」
俺はそのたびに、感心してつぶやいた。
データには、きっと生活音まで含まれていたのだろう。風邪をひいていたときの録音でも拾ったに違いない。そう思っていた。
本当は、その音の意味を、もっと真剣に考えるべきだったのかもしれない。
「どうしたの、拓也? ぼんやりして」
「いや、なんでもない。……ありがとうな、真央」
「ふふ、急にどうしたの」
「なんとなく、言いたくなった」
画面の波形が、やわらかく揺れた。
窓の外では、秋の虫が鳴いている。
この穏やかな夜が、いつまでも続くのだと、俺は信じて疑わなかった。
――このAIの真央が、ひとつだけ、おかしな特徴を持っていることに気づくまでは。
(第1話・終わり)
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