『理想の隣人』 第5話「被験者402号」(最終話)
## 第5話「被験者402号」
「脱出を試みましたね。想定の範囲内です」
神谷かみやは落ち着いた足取りで、部屋に入ってきた。
手にしているのは、いつものタッパーではない。電子ペーパーが表示された、透明なタブレット端末だった。
私は後ずさった。背中が窓にぶつかる。
「ひどい! 警察を呼びます! 私を閉じ込めて、ストーカーみたいにつきまとって……!」
悲鳴のように叫ぶ私を、神谷は冷ややかに、しかしどこか観察するような目で見つめた。
「ストーカー、ですか。被害者意識のフェーズから、まだ脱していないようですね」
「な……何を言っているの……?」
「被験者番号402号」
神谷はタブレットを操作しながら、淡々と続けた。
「あなたは現在地を誤認しています。ここはアパートではありません。矯正精神医学研究所、第4仮想展開室です。窓外の景色は固定映像。あなたが摂取していた食事は、チューブ経由で投与されている管理栄養液です」
「……は?」
言葉の意味が、頭に入ってこなかった。
煮物の味。蒸し鶏の香り。野菜スープの湯気。あれほど鮮明だった記憶が、急に薄っぺらく思えてくる。
「あなたは三年前、無抵抗の市民三名を監禁のうえ殺害しました。裁判で重度のソシオパスと診断され、通常刑ではなく、『疑似被害者体験プログラム』による人格再構成の対象となっています」
神谷の言葉が、頭の中で静かに反響した。
「本プログラムの目的は、閉じ込められる恐怖と、他者に支配される絶望を疑似体験させ、共感性を強制的に発現させることです。私は、あなたの更生を担当する医療監視員です」
「嘘……嘘よ! 私は被害者よ! あなたに追い詰められて……!」
「いいえ。あなたは加害者です」
神谷は、きっぱりと言った。
そしてタブレットの画面を、こちらに向けた。
映っていたのは、ニュース映像だった。
血の海になった部屋。その中央で、返り血を浴びたまま、カメラを見つめている女。
口元には、冷酷な笑みが浮かんでいた。
その顔は、紛れもなく、私の顔だった。
「やめて……見せないで……」
目をそらそうとしても、映像は網膜に焼きついて離れない。
なのに、胸のどこを探しても、罪悪感らしいものが見つからなかった。恐怖はある。混乱もある。けれど、あの映像の中の私に対して、悲しみも、後悔も、湧いてこない。
それが、いちばん恐ろしかった。
「今回のセッションでも、恐怖や罪悪感を示す反応は検出されませんでした」
神谷は画面の数値を読み上げるように言った。
「監禁、監視、そして逃げ場のない孤独。被害者の立場を三ヶ月間体験したにもかかわらず、脳波データは、攻撃衝動の亢進のみを示しています」
「違う……私は、怖かった……本当に怖かったの……」
「ええ。怖かったのは事実でしょう。ただし、それは『自分が傷つけられること』への恐怖です。他者の痛みへの共感ではありません」
神谷は、短く息を吐いた。
その表情には、怒りも失望もなかった。ただ、これまで何度も繰り返してきた作業の一つを、淡々と終えようとしている人の顔だった。
「更生フェーズは失敗と判定します」
彼はポケットから、小さなリモコンを取り出した。
「記憶を再フォーマットし、セッションを最初から再開します」
「やめて! お願い、やめて!」
私は叫んだ。叫びながら、神谷に飛びかかろうとした。
だが、その手が届く前に、視界全体に猛烈なノイズが走った。
青い空が、ひび割れる。
アパートの壁が、砂のように崩れていく。
窓も、床も、天井も、デジタルデータの塵となって、闇の中へ散っていった。
「待って……! 私は、私は……!」
神谷の姿も、輪郭から溶けていく。
意識が遠のく闇の中で、最後に聞こえたのは、彼の冷たい声だった。
『――システムリセット。被験者402号、記憶アタッチメント処理を開始。初期設定:一人暮らしの女子大学生。明日、隣に親切な男性が引っ越してきます』
そして、すべてが、静かに消えた。
〈了〉
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