『理想の隣人』 第4話「錠」
## 第4話「錠」
――ガチャ。
ノブは回った。けれどドアは、数センチ開いたところで、ガチンと鈍い音を立てて止まった。
「え……?」
もう一度、引いた。ドアは動かない。何かが、外側から押さえつけているような手応えだった。
おかしい。内側の鍵は開けた。チェーンも外したはずだ。
私は隙間に顔を寄せ、外を覗いた。
ドアの外側、ちょうど私の胸の高さに、見覚えのないものが取り付けられていた。重厚な金属製の錠。銀色の表面に、冷たい蛍光灯の光が鈍く反射している。
「嘘……なんで……」
喉がひりついた。
閉じ込められたのだ。神谷かみやが、私を外へ出さないために、昨夜のうちに外側から錠をかけたのだ。
「誰か! 誰かいませんか!」
ドアを叩き、声の限りに叫んだ。拳が痛くなっても、叩き続けた。けれど、廊下からは何の反応もなかった。隣の部屋からも、階下からも、物音ひとつ返ってこない。
そもそも私は、このアパートで、神谷以外の住人の姿を見たことがあっただろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋が凍った。
「……いや、今は、それどころじゃない」
私は首を振り、窓へ走った。
ここは二階だ。窓から助けを呼べばいい。通りを歩く人が、きっと気づいてくれる。
カーテンを勢いよく開けた。窓ガラスに手を伸ばす。叩いて、音を立てて、誰かに知らせるのだ。
けれど、私の手は、ガラスの直前で、ぴたりと止まった。
――晴れ。
窓の向こうには、見慣れた青空と、向かいの街並みが広がっていた。
だが、何かがおかしかった。
私は呼吸を止めて、景色を見つめた。
雲の形。向かいの建物の三階、左から二番目の窓の明かり。電線の影。遠くのビルの輪郭。
昨日も、こうだった。一週間前も。そして三ヶ月前、引っ越してきた日も。
同じ雲の形をした、澄み渡る晴天。
風で木の葉が揺れることもない。鳥が横切ることもない。通りを歩く人も、走る車も、一度も見たことがない。
夕暮れの空にも、深夜の空にも、窓の景色は、いつだって同じ「晴れ」だったはずなのに。
私は、その矛盾に、今まで気づかなかった。
「なにかが……変だ……」
めまいがした。足元がぐらりと揺れて、私は窓枠にすがりついた。
落ち着け。落ち着いて、考えるんだ。
まず、自分のことを思い出そう。
私は葵。大学生。大学の名前は――。
頭の奥に、鋭い痛みが走った。
「う……っ」
思い出せない。いや、思い出そうとしているのに、記憶の表面が、ざらざらとした砂のように崩れていく。
大学の名前は? 講義で隣に座る友人の顔は? バイト先の先輩は、何という名前だった? 実家は、どこにある?
浮かび上がるのは、ぼやけた輪郭ばかりだった。どれも、誰かに貼り付けられた写真のように、薄っぺらい。
思い出そうとすればするほど、後頭部の痛みが強くなり、記憶はモザイクのように途切れていった。
「私は……誰……?」
床に膝をついた。両手で頭を抱える。
一つだけ、はっきりしていることがあった。
この三ヶ月の記憶には、神谷が差し入れを持ってきた場面しか、鮮明なものがない。
煮物の味。蒸し鶏の香り。野菜スープの湯気。
それ以外は、まるで舞台の背景のように、ただ「そこにあった」だけだ。
――私は本当に、「大学生の葵」なのだろうか。
その問いが、頭の中で形になった瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
廊下から、静かな足音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
急ぐ様子もなく、一定の歩幅で近づいてくる。聞き慣れた、神谷の足音だった。
足音は、ドアのすぐ外で止まった。
私は息を詰めて、ドアを見つめた。逃げ場はない。
ガチャリ、と外側の錠が外れる音がした。
ドアが、ゆっくりと開いていく。
そこに立っていたのは、神谷だった。
けれど、これまでの彼とは、何かが決定的に違っていた。
シャツではなく、白いジャケットを羽織っている。穏やかな笑みは消え、感情のない目が、私を静かに見下ろしていた。
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