『理想の隣人」 第3話「境界線」
## 第3話「境界線」
違和感は、気のせいでは済まなくなっていた。
それでも私は、すぐには動けなかった。神谷かみやは、何も悪いことをしていない。差し入れをくれて、心配してくれているだけだ。そう言われてしまえば、言い返せない。
けれど、あの夜、その考えは完全に崩れた。
講義を終えて帰宅したのは、夕方の五時過ぎだった。階段を上がり、廊下の角を曲がったところで、私は足を止めた。
私の部屋のドアの前に、人影があった。
神谷だった。
背を向けたまま、ドアの上部に手を伸ばしている。その手には、小さな黒い機械が握られていた。手のひらに収まるほどの、精密そうな部品だった。
心臓が、どくんと鳴った。
「……何をしているんですか」
声が震えた。
神谷はゆっくりと振り返った。驚いた様子は、少しもなかった。むしろ、待っていたかのように、薄く微笑んだ。
「ああ、葵さん。おかえりなさい」
「そ、それ、何ですか」
「ご心配なく。最近、この周辺は治安が悪化しています。あなたの安全確保のため、ドア付近に小型の監視カメラを設置するところでした」
あまりにも当然のように言うので、一瞬、私のほうがおかしいのかと思った。
けれど、すぐに我に返った。
「結構です! やめてください!」
「しかし、危険が」
「頼んでません! 私の部屋です!」
叫ぶように言って、私は神谷を押しのけ、鍵を開けて部屋に飛び込んだ。ドアを閉め、鍵をかけ、チェーンをかける。
ドアに背中を預けたまま、私はずるずると床に座り込んだ。手が震えて、止まらなかった。
ドアの向こうで、神谷の足音がした。
去っていく足音ではなかった。ドアのすぐ前で、立ち止まっている。
やがて、穏やかな声が聞こえた。
「葵さん。怒らせてしまいましたね。申し訳ありません」
私は答えなかった。息を殺して、じっと耳を澄ませた。
「でも、これは葵さんのためなんです。いつか、分かってもらえると思います」
しばらくして、足音はゆっくりと遠ざかっていった。
その夜、私は電気をつけたまま、ベッドの上で膝を抱えていた。
警察に相談しようか。大家さんに言うべきだろうか。けれど、何と説明すればいい。「親切な隣人が、監視カメラを付けようとした」。証拠は何もない。カメラはもう持ち去られている。
スマホを握りしめたまま、時計の針だけが進んでいった。
午前二時を過ぎた頃だった。
コン、コン。
壁が、叩かれた。
隣室との境の壁。ちょうど、私のベッドの頭のあたりだ。
優しく、規則正しく、まるで眠っている子どもをあやすような音だった。
「葵さん、聞こえていますか」
壁越しに、低い囁き声が染み込んできた。
「私は常に、あなたを見守っています」
全身から血の気が引いた。
布団を頭からかぶり、両手で耳をふさいだ。それでも声は、骨を伝うように、はっきりと聞こえてくる。
「大丈夫ですよ。怖がらなくていい。私がそばにいますから」
「やめて……」
声にならない声が、喉からこぼれた。
「おやすみなさい、葵さん。いい夢を」
コン、と最後に一度だけ叩く音がして、声は途絶えた。
朝になるまで、私は一睡もできなかった。
夜が明けると、私は決めた。
もう限界だ。ここにはいられない。実家に帰ろう。しばらく大学を休んででも、この部屋から離れよう。
リュックを引っ張り出し、着替えと財布、スマホの充電器を詰め込む。手が震えて、ファスナーがうまく閉まらなかった。
ふと、窓の外が目に入った。
雲ひとつない、青い空。
見慣れた景色のはずなのに、そのときの私は、なぜかそれを長い間見つめていた。
理由は分からない。ただ、胸の奥に、ざらりとした何かが引っかかった。
けれど、今はそれどころではなかった。
リュックを背負い、玄関へ向かう。
チェーンを外し、鍵を開ける。ドアノブに手をかけた。
これで終わりにする。そう、思っていた。
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