『理想の隣人」 第2話「見守り」
## 第2話「見守り」
神谷の差し入れは、それから毎日のように続いた。
月曜は野菜スープ。火曜は鮭の味噌焼き。水曜は、豆腐とひき肉の炒め物。どれも栄養のバランスが考えられていて、味付けは私の好みに不思議なほどぴたりと合っていた。
おかげで、私の生活は目に見えて整っていった。肌荒れが減り、朝も起きやすくなった。バイト先の先輩にも「最近、顔色いいね」と言われた。
「神谷さんのおかげです。本当に助かってます」
廊下でタッパーを受け取りながらそう言うと、神谷は嬉しそうに目を細めた。
「それが何よりです。葵さんが元気でいてくれると、私も安心ですから」
その「安心」という言葉が、ほんの少しだけ、耳に引っかかった。
違和感を覚えたのは、翌週の木曜のことだった。
バイトが長引き、帰宅したのは午前一時を過ぎていた。ドアの鍵を開けようとした瞬間、隣のドアがすっと開いた。
「おかえりなさい、葵さん」
神谷が、部屋着ではなくシャツ姿で立っていた。こんな時間だというのに、眠そうな様子は少しもない。
「あ……神谷さん。まだ起きてたんですか」
「ええ。たまたま、目が覚めまして。ところで、昨夜の帰宅は午前一時を過ぎていましたね。夜間の外出は危険です。控えることをお勧めします」
昨夜は、というより今夜のことだ。そう言いかけて、私は口をつぐんだ。それよりも、気になることがあった。
「……私が何時に帰ってきたか、分かるんですか」
「足音が聞こえるんですよ。壁が薄いですから」
神谷は穏やかに微笑んだ。
「気を悪くしないでください。ただ、心配なんです」
「あ、いえ……すみません。気をつけます」
なぜか謝ってしまった。部屋に入り、ドアに背中を預けて、私は小さく息を吐いた。
足音。確かに、この壁は薄い。そう自分に言い聞かせた。
けれど、その日を境に、神谷の「ご心配」は日に日に具体的になっていった。
「ベランダの洗濯物ですが、下着類は室内に干してください。防犯上、望ましくありません」
土曜の朝、ごみ捨てに出た私に、神谷はそう言った。
私は驚いて、思わず聞き返した。
「見えるんですか、うちのベランダが」
「共用の通路から、ちょうど目に入ってしまうんですよ。見るつもりはなくても」
それは本当だろうか。201号室の位置からは、私の部屋のベランダは見えないはずだった。けれど、あらためて確かめるのも、失礼な気がした。
「……はい。分かりました」
私は曖昧にうなずいて、その場を離れた。
日曜の夜、レポートに追われていると、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、やはり神谷だった。手には、いつものタッパー。
「顔色が優れませんね。これを食べて、今夜は早めに休んでください」
その言葉に、私はぞくりとした。
今日、私は一歩も外に出ていない。一日中、部屋でレポートを書いていた。誰とも会っていないのに、なぜ顔色が悪いと分かるのか。
「……ありがとうございます」
それでも、私は受け取ってしまった。断る言葉が、どうしても出てこなかったのだ。
タッパーの蓋を開けると、温かい野菜スープが入っていた。湯気の向こうで、澄んだスープが揺れている。
一口飲んだ。やさしい味だった。
食べながら、私は考えた。
神谷さんは、悪い人じゃない。ただ、少し世話焼きなだけだ。一人暮らしの学生を、放っておけない性格なのだろう。
そう思おうとした。
ふと、窓の外に目をやる。
夜の闇の中に、街の灯りが並んでいた。向かいの建物の窓にも、明かりがともっている。
その中の、ある窓の明かりが、目に留まった。三階の、左から二番目の窓。
以前から、あの窓は、ずっと同じ明るさで光り続けている気がした。
私が帰る時間も、深夜も、早朝も。
消えたところを、一度も見たことがない。
「……気のせい、だよね」
口に出してみると、自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
壁の向こうで、コン、と小さな音がした。
偶然かもしれない。けれど私には、それが「聞いているよ」という合図に思えてならなかった。
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