↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真実はラストに潜む―ミステリー短編集  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/25

『理想の隣人』 第1話「差し入れ」


# 『理想の隣人』

## 第1話「差し入れ」


 大学とバイトを往復するだけの毎日に、私――葵あおいは、すっかり慣れきっていた。


 このアパートに越してきて、三ヶ月になる。築年数はそこそこ古いが、駅から近く、家賃も手頃だった。一人暮らしには十分だと思っていた。ただ、思っていたより、一人の夜は長い。


 夕食はコンビニ弁当かカップ麺。バイト先のまかないが出る日は、それが唯一まともな食事だった。鏡を見るたび、顔色が悪くなっていく気がしていた。


 隣の201号室は、私が越してきたときから空き部屋だった。壁の向こうから物音がしないというのは、それだけで少し心細いものだ。


 その201号室に、日曜の夕方、引っ越しのトラックが停まった。


 廊下で荷物を運ぶ音を聞きながら、私は課題のレポートに向かっていた。集中できないまま二時間ほどが過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。


 ドアを開けると、三十代半ばほどの男が立っていた。


 白いシャツの袖をきちんと折り、髪は短く整えられている。清潔感という言葉が、そのまま人の形になったような人だった。


「初めまして。隣に越してきた神谷かみやです。ご挨拶が遅くなってすみません」


 低く落ち着いた声だった。神谷は軽く頭を下げ、両手で紙袋を差し出した。


「引っ越しそばのかわりと言っては何ですが。一人暮らしだと、どうしても食事が偏りがちですから。よろしければ、お使いください」


 袋の中には、タッパーが二つ入っていた。一つは根菜の煮物、もう一つは鶏肉の蒸したもの。どちらも彩りよく、丁寧に盛り付けられている。


「えっ、いいんですか。こんなに」


「作りすぎてしまいまして。迷惑でなければ、ですが」


 神谷は穏やかに笑った。その笑顔には、嫌味も下心も感じられなかった。


「あ、ありがとうございます。私、葵といいます。大学生で」


「葵さん。いいお名前ですね。これからよろしくお願いします」


 神谷はもう一度頭を下げ、201号室へ戻っていった。足音は静かで、ドアの閉まる音さえほとんど聞こえなかった。


 その夜、私は久しぶりに、温かい食事をとった。


 煮物は出汁がよく染みていて、少し甘めの味付けだった。蒸し鶏は柔らかく、噛むたびに生姜の香りがした。


「……おいしい」


 思わず声が出た。誰もいない部屋に、自分の声だけが響く。


 食べ終えてから、ふと気づいた。私は神谷さんに、好き嫌いを話していない。それなのに、どちらも私の好みにぴたりと合っていた。


 偶然だろう、と私は思った。煮物も蒸し鶏も、誰が食べてもおいしい定番の料理だ。


 洗ったタッパーを返しに行くと、神谷はすぐにドアを開けた。まるで、私が来るのを待っていたかのように。


「わざわざ、ありがとうございます。いかがでしたか」


「すごくおいしかったです。久しぶりにちゃんとしたご飯を食べました」


「それは良かった。実は、あなたのような学生さんが、体を壊しやすいのを知っているものですから」


 神谷はタッパーを受け取り、少しだけ目を細めた。


「また作りすぎたら、声をかけてもいいですか」


「はい、ぜひ!」


 私は迷わず答えていた。


 部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。薄いオレンジ色の空に、ちぎれたような雲が一つだけ浮かんでいる。


 大学の課題は山積みで、バイトのシフトも詰まっている。それでも、その夜の私の気持ちは、不思議なほど軽かった。


 親切な隣人ができた。ただそれだけのことが、こんなにも心強いなんて。


 壁の向こうで、かすかに物音がした。神谷が片付けをしているのだろう。


 私は電気を消し、いつになく穏やかな気持ちで目を閉じた。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 あの窓の向こうの景色が、明日も、明後日も、まったく同じ形をしているということを。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。