『理想の隣人』 第1話「差し入れ」
# 『理想の隣人』
## 第1話「差し入れ」
大学とバイトを往復するだけの毎日に、私――葵あおいは、すっかり慣れきっていた。
このアパートに越してきて、三ヶ月になる。築年数はそこそこ古いが、駅から近く、家賃も手頃だった。一人暮らしには十分だと思っていた。ただ、思っていたより、一人の夜は長い。
夕食はコンビニ弁当かカップ麺。バイト先のまかないが出る日は、それが唯一まともな食事だった。鏡を見るたび、顔色が悪くなっていく気がしていた。
隣の201号室は、私が越してきたときから空き部屋だった。壁の向こうから物音がしないというのは、それだけで少し心細いものだ。
その201号室に、日曜の夕方、引っ越しのトラックが停まった。
廊下で荷物を運ぶ音を聞きながら、私は課題のレポートに向かっていた。集中できないまま二時間ほどが過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、三十代半ばほどの男が立っていた。
白いシャツの袖をきちんと折り、髪は短く整えられている。清潔感という言葉が、そのまま人の形になったような人だった。
「初めまして。隣に越してきた神谷かみやです。ご挨拶が遅くなってすみません」
低く落ち着いた声だった。神谷は軽く頭を下げ、両手で紙袋を差し出した。
「引っ越しそばのかわりと言っては何ですが。一人暮らしだと、どうしても食事が偏りがちですから。よろしければ、お使いください」
袋の中には、タッパーが二つ入っていた。一つは根菜の煮物、もう一つは鶏肉の蒸したもの。どちらも彩りよく、丁寧に盛り付けられている。
「えっ、いいんですか。こんなに」
「作りすぎてしまいまして。迷惑でなければ、ですが」
神谷は穏やかに笑った。その笑顔には、嫌味も下心も感じられなかった。
「あ、ありがとうございます。私、葵といいます。大学生で」
「葵さん。いいお名前ですね。これからよろしくお願いします」
神谷はもう一度頭を下げ、201号室へ戻っていった。足音は静かで、ドアの閉まる音さえほとんど聞こえなかった。
その夜、私は久しぶりに、温かい食事をとった。
煮物は出汁がよく染みていて、少し甘めの味付けだった。蒸し鶏は柔らかく、噛むたびに生姜の香りがした。
「……おいしい」
思わず声が出た。誰もいない部屋に、自分の声だけが響く。
食べ終えてから、ふと気づいた。私は神谷さんに、好き嫌いを話していない。それなのに、どちらも私の好みにぴたりと合っていた。
偶然だろう、と私は思った。煮物も蒸し鶏も、誰が食べてもおいしい定番の料理だ。
洗ったタッパーを返しに行くと、神谷はすぐにドアを開けた。まるで、私が来るのを待っていたかのように。
「わざわざ、ありがとうございます。いかがでしたか」
「すごくおいしかったです。久しぶりにちゃんとしたご飯を食べました」
「それは良かった。実は、あなたのような学生さんが、体を壊しやすいのを知っているものですから」
神谷はタッパーを受け取り、少しだけ目を細めた。
「また作りすぎたら、声をかけてもいいですか」
「はい、ぜひ!」
私は迷わず答えていた。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。薄いオレンジ色の空に、ちぎれたような雲が一つだけ浮かんでいる。
大学の課題は山積みで、バイトのシフトも詰まっている。それでも、その夜の私の気持ちは、不思議なほど軽かった。
親切な隣人ができた。ただそれだけのことが、こんなにも心強いなんて。
壁の向こうで、かすかに物音がした。神谷が片付けをしているのだろう。
私は電気を消し、いつになく穏やかな気持ちで目を閉じた。
この時の私は、まだ知らなかった。
あの窓の向こうの景色が、明日も、明後日も、まったく同じ形をしているということを。
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