『消えた同居人』 第4話「一膳の箸」
『消えた同居人』
**第4話「一膳の箸」**
雨は、夜明け前にあがっていた。
最後の一行を書き終えたとき、窓の外は薄く白み始めていた。
ペンを置く。指先が震えている。胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
「……できた」
声に出すと、実感が遅れてやってきた。半年もの間、一行も書けなかった俺が、ついに一編の物語を書き上げたのだ。
「おめでとう、蓮」
振り返ると、葵が立っていた。
朝の光の中で、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべている。けれど、その輪郭は、どこか淡く見えた。
「お前なら絶対に書けるって、信じてたよ」
「全部、お前のおかげだ。お前がいなきゃ、俺は……」
「バカ言うな。書いたのは蓮だろ」
葵は、そっと首を振った。
「さあ、編集部に持っていけ。顔、洗って、ちゃんと飯も食ってな」
支度を整え、原稿をバッグに詰め込む。興奮で、手がもつれた。
玄関で靴を履いていると、葵が弁当の包みを差し出してきた。
「ほら、弁当。今日は豚の生姜焼きだ。昼に食えよ」
「いつも悪いな」
「行ってらっしゃい」
葵は、いつも通り、俺が靴を履き終えるまで玄関で見送ってくれた。
ドアを開け、外へ一歩踏み出す。振り返ると、葵は玄関の内側に立ったまま、ゆっくりと手を振っていた。
「行ってくる」
ドアが閉まる。その向こうで、小さな声が聞こえた気がした。
――ありがとう。
編集部は、いつもの慌ただしさに満ちていた。
応接室で待つこと数分、担当編集者が現れた。俺は原稿の束を、両手で差し出した。
「お待たせしました。……読んでください」
編集者は無言で受け取り、その場で読み始めた。
ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。俺は膝の上で拳を握りしめ、ただ待った。
十数分後、編集者はゆっくりと顔を上げた。その目は、潤んでいた。
「素晴らしいですよ、蓮さん! 以前の迷いが嘘のように吹き飛んでいる。最高の一作です!」
「……本当ですか」
「ええ。デビュー作を超えるかもしれない。この主人公の孤独と再生は、胸に迫るものがあります」
熱のこもった講評を聞きながら、俺は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
早く帰って、葵に伝えたい。あいつが一番喜ぶ顔が、目に浮かぶようだった。
「ありがとうございます。実は、同居している葵という奴がずっと支えてくれて……彼のおかげなんです」
感謝のつもりで、そう口にした。
編集者は、ぽかんとした顔で首を傾げた。
「葵……さん? どなたですか、それ。ご友人ですか?」
「え?」
「ご友人ですか? 初めてお聞きするお名前ですが」
一瞬、冗談かと思った。
「ええ、半年ほど前から僕の部屋に居候している青年ですよ。ほら、前にも電話で『同居人が飯を作ってくれた』って話したでしょう?」
「……蓮さん、お疲れなんじゃありませんか?」
編集者の声が、心配そうに曇った。
「あなたはずっと、一人暮らしじゃないですか」
その言葉が、耳の奥で遠く響いた。
「冗談はやめてください。本当にいるんです。今日だって、彼が作ってくれた弁当を――」
俺は慌ててバッグを開け、弁当の包みを取り出した。結び目をほどき、二段重ねの蓋を開ける。
生姜焼きの香りが、ふわりと立ちのぼった。
その中に、箸が一膳だけ、入っていた。
いつもそうだった、と、頭のどこかで誰かが囁いた。弁当の包みには、いつも、俺の分の箸しか入っていなかった。食卓にも、俺の分の皿しか並んでいなかった。
「な……」
言葉が出てこない。編集者が、慌てて立ち上がった。
「蓮さん、顔色が悪い。少し休みましょう」
「すみません。失礼します」
俺は原稿の礼もそこそこに、編集部を飛び出した。
通りでタクシーを拾い、行き先を告げる。声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。
車窓を流れる景色が、ひどく遠い。
半年間の記憶が、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。歯ブラシ、マグカップ、玄関から出ない足、食べない食事。
そのすべてが、一本の線で、静かにつながり始めていた。
(第4話 終わり)
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