『消えた同居人』 第3話「二人分の湯呑み」
『消えた同居人』
**第3話「二人分の湯呑み」**
翌朝から、筆が動き出した。
不思議なものだ。昨日まで一行も進まなかった原稿用紙に、言葉が次々と流れ込んでくる。主人公が自分を見失っていく過程が、まるで自分のことのように、手に取るように分かった。
「蓮、そろそろ休め。もう二時だぞ」
背後から、葵の声がした。
振り返ると、湯気の立つ湯呑みを盆にのせて、彼が立っている。
「悪い、もう少しだけ。今、いいところなんだ」
「しょうがないな。ほら、これ飲んでからにしろ」
差し出された湯呑みを受け取る。熱いほうじ茶だった。ほろ苦い香りが、疲れた頭にしみていく。
「葵の分は?」
「俺はいいって。猫舌なんだ」
そう言って笑う葵の顔を、俺はぼんやりと見つめた。
この数日、葵は前にも増して、俺のそばにいる気がする。書いている間は黙って背中を見守り、行き詰まると、ちょうどいい言葉をかけてくれる。
「主人公が一番怖いのはさ、きっと自分が消えることじゃないんだ」
ある夜、葵がぽつりと言った。
「自分で自分を支えられなくなることだと思う。だから、誰かに『大丈夫だ』って言ってもらいたいんだよ」
俺は手を止めた。
「……それ、使わせてもらっていいか」
「好きにしろよ。そもそもお前の頭の中にあった言葉だろ」
葵は、いたずらっぽく笑った。
その意味を、このときの俺は深く考えなかった。
一週間が過ぎた。原稿は、全体の三分の二ほどまで進んでいた。
ある朝、洗面所で顔を洗っていると、ふと違和感を覚えた。
歯ブラシ立てに、歯ブラシが一本しか立っていない。
鏡の前でしばらく考え込む。葵は、毎朝ここで歯を磨いていたはずだ。昨日までは確か、青い柄の歯ブラシが、俺の隣に並んでいた。
「なあ葵、お前の歯ブラシ、どこにやった?」
台所へ向かって声をかけると、葵は味噌をといていた手を止め、こちらを振り向いた。
「ああ、古くなったから捨てたんだ。今度買い物に行ったら、新しいのを頼むよ」
「そうか。分かった」
それだけのやりとりだった。それなのに、胸の奥に小石が落ちたような感覚が残った。
それから、小さな違和感が少しずつ積み重なっていった。
食器棚から、葵が使っていたはずのマグカップがなくなっていた。洗濯物を干そうとして、ベランダに並ぶ服が自分のものばかりだと気づいた。夜、布団を敷こうとして、葵の分の布団の置き場所が、すぐには思い出せなかった。
そのたびに俺は、葵に尋ねた。葵は、そのたびに、もっともらしい理由で答えてくれた。
「割れたから片づけたんだ」「洗濯したばかりで、まだ乾いてない」「押し入れにしまってあるよ」
どれも筋が通っていて、疑う理由はなかった。
疑いたくなかった、というほうが正しいのかもしれない。
原稿が完成に近づくにつれ、葵の姿は少しずつ、薄くなっていく気がした。
体が、ではない。声の響きが、ふとした仕草が、輪郭を失っていくような感覚だった。
ある晩、俺は思いきって尋ねてみた。
「なあ、葵。お前、最近ちょっと元気ないか」
「そんなことないよ。どうしてだ?」
「……なんとなく。急にいなくなったりしないよな」
口にしてから、自分でも驚いた。どうしてそんなことを聞いたのか、分からなかった。
葵は、少しだけ黙った。
それから、穏やかに笑った。
「何言ってんだ。お前の原稿が仕上がるまでは、ちゃんと見届けるさ。俺は一番のファンなんだからな」
その言葉に、俺は救われたような、置いていかれたような、奇妙な気持ちになった。
机の上のアイデアノートには、また新しい文字が増えていた。
読み返そうとしたが、なぜか指が動かなかった。見てはいけないものを見てしまう気がして、そっとページを閉じた。
残りの原稿は、あと数枚。
窓の外では、季節外れの雨が降り始めていた。半年前、葵と出会った日と同じような、静かな雨だった。
(第3話 終わり)
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