『消えた同居人』 第2話「玄関の向こう側」
『消えた同居人』
**第2話「玄関の向こう側」**
翌朝、目を覚ますと、枕元の目覚まし時計は七時を指していた。
台所からは、包丁がまな板を叩く軽やかな音が聞こえてくる。味噌の香りが、半開きのふすまの向こうから漂ってきた。
「おはよう、蓮。今日は早いな」
「……ああ、おはよう。締切が近いからな」
寝ぼけ眼をこすりながら机に目をやる。昨夜の俺が書き散らした原稿用紙が、くしゃくしゃに丸められて足元に転がっていた。結局、一行目から先には進めなかったのだ。
そろそろ編集部に顔を出さなければならない。担当編集者からは、先週から何度も電話が来ている。
朝食を済ませた頃、狙いすましたようにスマートフォンが鳴った。
「蓮さん、おはようございます。原稿の進み具合はいかがですか?」
編集者の声は穏やかだが、探りを入れているのが分かった。
「ええ、まあ……なんとか形になりそうです。同居人にもずいぶん励まされてまして」
「ああ、そうですか」
編集者は、さらりと相槌を打った。
「それはよかった。では、来週の頭には一度、拝見できますかね」
「はい。必ず」
通話を切ってから、ふと思う。この編集者は、いつも俺の話に静かに耳を傾けてくれる。同居人の話をしても、余計な詮索はしてこない。ありがたいことだ。
その様子を、葵は食器を拭きながら横目で見ていた。
「担当さん、急かしてきたのか?」
「いや、来週頭に見せることになった。……なあ葵、俺、間に合うかな」
「間に合わせるんだよ。お前なら書ける」
迷いのない声だった。この男は、いつも俺よりも俺のことを信じている。
昼過ぎ、俺は気分転換に散歩へ出ることにした。
玄関で靴を履いていると、葵がいつものように見送りに来る。
「行ってらっしゃい。夕飯までには帰れよ」
「ああ。そうだ、お前も来ないか? たまには外の空気を吸った方がいい。半年もこの部屋に籠もりっぱなしだろ」
何気なく誘ってみた。
葵は、ほんの一瞬だけ、困ったように目を伏せた。
「……いや、俺はいいよ。蓮が帰ってくるまでに、掃除しておきたいし」
そうだった。思えば、この半年、葵が玄関の外へ出たところを見たことがない。買い物はいつも俺が頼まれて行き、食材は俺の買ってきたものを、彼が上手に使い回している。
記憶がない人間だから、外が怖いのかもしれない。そう思って、無理に誘うのはやめにした。
「分かった。じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ドアを閉める間際、葵はいつものように、玄関の内側で手を振っていた。
近所の川沿いを、ゆっくりと歩いた。
夕暮れの風が心地よく、川面には鴨が浮かんでいる。何も考えずに歩いているうちに、不思議と頭の中が静かになっていった。
主人公が、自分自身を見失う話。
どうしてこんな題材を選んだのだろう、と自分でも思う。だが、他に書けそうなものがなかった。見失うほどの「自分」が、今の俺にはあるのだろうか。
商店街で、夕飯用の豆腐と長ねぎを買った。
レジで会計をしていると、顔なじみの店主が笑いかけてきた。
「蓮さん、今日もお一人で買い物かい?」
「ええ。いつも通りですよ」
その言葉に、ふと引っかかるものがあった。「今日も」「お一人で」。深い意味などないはずなのに、胸の奥が小さくざわついた。
――気のせいだ。疲れているだけだろう。
アパートに戻ると、部屋には夕飯の支度の匂いが満ちていた。
「おかえり、蓮」
エプロン姿の葵が、いつもの笑顔で迎えてくれる。
その笑顔を見た途端、胸のざわめきは嘘のように消えてしまった。
その夜、風呂から上がると、机の上のアイデアノートが開いたままになっていた。
確か、閉じて置いたはずだ。首をかしげながらページをのぞき込む。走り書きのような文字が、数行ぶん増えていた。
俺の筆跡だ。夜中にでも、無意識に書き足したのだろうか。
まあ、いい。何かが動き出しているのなら、それでいい。
俺はノートを閉じ、明日こそ書けると信じて、早めに布団へ入った。
(第2話 終わり)
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