『消えた同居人』 第1話「味噌汁の湯気」
『消えた同居人』
**第1話「味噌汁の湯気」**
原稿用紙の升目は、もう三日も一文字も埋まっていなかった。
デビュー作が思いのほか評判になったせいで、次の作品を待つ声は日ごとに大きくなっている。なのに、書こうとすると頭の中が真っ白になる。ペンを握る手に汗がにじみ、気づけば窓の外が暗くなっている。そんな日々が、もう半年以上続いていた。
「飯、できたぞ。冷めないうちに食べろよ」
台所から届いた声に、俺――蓮は、肩をすくめて顔を上げた。
香ばしい出汁の匂いが、部屋の中へ流れ込んでくる。テーブルに並んでいたのは、豚の生姜焼きと具だくさんの味噌汁、そしてつやつやの白米だった。
「サンキュ、葵」
エプロンを外しながら満足そうに笑うのは、同居人の葵だ。
テーブルには、俺の分の皿と箸だけが並んでいる。
「葵は?」
「俺はさっき、つまみ食いで腹いっぱいだよ」
そう言って、葵は向かいの椅子に腰かけ、頬杖をついて俺が食べるのを眺めていた。
味噌汁をひと口すする。思わず、ため息がもれた。
「……すごく美味いな。なんだか昔、お袋が作ってくれた味に似てる」
「そうか? 蓮がいつも『昔飲んだ味噌汁は甘口の合わせ味噌だった』って言ってたから、適当に真似してみたんだよ」
葵は照れくさそうに頭をかいた。
彼はいつもそうだった。俺がふともらした幼い頃の思い出や好きなものを、完璧に覚えていて、料理や暮らしの随所に反映してくれる。祖母の家で食べた卵焼きの甘さも、子どもの頃に好きだったラムネの味も、彼はなぜか知っていた。
葵と出会ったのは、半年前の雨の日のことだ。
スランプで眠れない夜が続き、ふらりと外へ出た帰り道だった。アパートの近くの路地裏で、ずぶ濡れの青年がうずくまっていた。声をかけても、自分の名前すら思い出せないという。
警察や病院を勧めても、彼は力なく首を振るばかりだった。放っておけなくて、とりあえず一晩だけ、と部屋に上げた。
その一晩が、気づけば半年になっている。
名前がないと不便だから、と、俺が「葵」と呼ぶことにした。雨上がりの朝、ベランダの朝顔が青く咲いていたからだ。
葵は手先が器用で、料理も掃除も洗濯も完璧だった。散らかり放題だった部屋は見違えるほど片づき、冷蔵庫にはいつも作り置きが詰まっている。
何より救われたのは、俺の原稿の話を、いつも真剣に聞いてくれることだった。
「なあ葵、次の短編の構想、やっぱりまとまらないんだ」
箸を置いて、俺は正直に打ち明けた。
「主人公が自分自身を見失う話にしようと思ってる。でも、肝心の中身が何も浮かばなくてさ。デビュー作の頃は、どうやって書いてたのかも思い出せない」
「焦るなよ、蓮」
葵は穏やかに言った。
「お前の書く文章は温かい。読んでるとさ、不思議と肩の力が抜けるんだ。自分を信じろ。俺は一番のファンなんだからさ」
まっすぐな言葉が、胸の奥にじんわりと染みていく。
誰かにそう言ってもらいたかったのだ、と気づいた。編集者でも、読者でもない。ただ隣にいて、俺の言葉を信じてくれる誰かに。
「……ありがとな」
「礼なんかいいから、さっさと食えよ。味噌汁、冷めるぞ」
笑ってごまかす葵に急かされて、俺は残りの飯をかき込んだ。
食後、葵は鼻歌まじりに皿を洗い始めた。水の音を聞きながら、俺は机に戻り、白い原稿用紙と向き合う。
――そういえば。
ふと、頭をよぎった。半年も一緒に暮らしているのに、葵が自分の分の飯を食べているところを、俺は一度も見た覚えがない。
だが、その疑問は、台所から聞こえる陽気な鼻歌にかき消されていった。
深く考えるのはやめた。今は、書くことだけを考えたい。
俺はペンを握り直し、原稿用紙の一行目に、ゆっくりと文字を置いた。
(第1話 終わり)
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