『消えた同居人』 *第5話(最終話)「もう一人の、俺」
『消えた同居人』
**第5話(最終話)「もう一人の、俺」**
「葵! 葵!!」
アパートのドアを乱暴に開け、部屋へ駆け込む。
静まり返った部屋に、俺の声だけが空しく響いた。返事はない。
「葵……どこに行ったんだよ……」
リビングを見渡す。テーブルの上に、葵が使っていたはずのマグカップがない。洗面所へ走ると、歯ブラシ立てには、俺の歯ブラシが一本あるだけだった。
いつも着ていた服も、畳まれていた布団も、最初から存在しなかったかのように、きれいに消えていた。
「嘘だろ……なんで……」
へたり込みそうになった俺の視界に、デスクの上のノートが入った。
今回の短編を書くために使っていた、アイデアノートだ。
何度も、開くのをためらってきたノートだった。吸い寄せられるように、俺は表紙に手をかけた。
そこには、俺自身の筆跡で、文字がびっしりと綴られていた。
『――解離性障害による、もう一人の自己の生成』
『スランプの孤独と恐怖に耐えかねた主人公は、理想の理解者である「葵」という架空の人間を作り出す』
『葵は主人公の記憶の底にある「母の味」を知り、主人公が欲しかった「肯定の言葉」を投げかける』
ページをめくる手が震える。
『――物語が完成し、主人公が再び自分の足で立ち上がれたとき、役目を終えた「葵」は静かに消えていく』
「……あ……」
涙が、ぽろぽろとノートの上にこぼれ落ちた。
思い出した。
これは、俺が書こうとしていた短編の構想だった。そして同時に、この半年間の、俺自身の記録だった。
半年前の雨の日、路地裏で倒れていた青年など、いなかったのだ。スランプの絶望の中、部屋の隅で膝を抱えて泣いていたのは、俺自身だった。
狂ってしまいそうなほどの孤独から、自分を守るために。
「お前の文章は温かい」「自分を信じろ」。
誰よりも自分自身に言ってほしかった言葉を、かけてやるために。
俺の心が作り出したイマジナリーフレンド。それが、葵だった。
ふらふらと、キッチンへ歩み寄る。
コンロの上には、朝使った小鍋が置かれていた。流しの横には、甘口の合わせ味噌のパッケージ。
生姜焼きも、味噌汁も、ほうじ茶も、全部、俺が自分の手で作っていたのだ。
誰もいない部屋で、自分で自分を養い、自分で自分を励ましながら、あの原稿を書き上げたのだ。
編集者の言葉が、胸によみがえる。
――あなたはずっと、一人暮らしじゃないですか。
あの人は、何も間違っていなかった。電話で「同居人」の話をするたび、黙って聞いてくれていた。名前を聞き返さなかったのは、きっと、俺を傷つけまいとしてくれた優しさだったのだ。
ふと、窓から、心地よい風が吹き込んできた。
カーテンが、ゆっくりと揺れる。
その部屋の隅に、エプロン姿で満足そうに微笑む葵の姿が、一瞬だけ見えた気がした。
『もう大丈夫だな、蓮』
そんな声が聞こえた気がして、俺は濡れた目を袖でごしごしと拭った。
「……ああ」
声が震えた。それでも、はっきりと言葉にした。
「ありがとう、葵」
風がやみ、カーテンが静かに垂れ下がる。
もう、誰の姿もなかった。
空っぽになった部屋で、俺は力強く頷いた。
寂しくない、と言えば嘘になる。けれど、不思議と心は凪いでいた。葵は消えたのではない。俺の中に、帰っていったのだ。
台所に立ち、残っていた生姜焼きを温め直す。味噌汁をよそい、白米を盛る。
ひとり分の食卓。けれど、もう、冷たくはなかった。
「いただきます」
甘口の合わせ味噌の味が、舌にじんわりと広がった。
食事を終えると、俺は机に向かった。引き出しから、真新しい原稿用紙を取り出す。
もう、一人でも書いていける。
彼が残してくれた温もりを胸に、俺は新しい原稿用紙を、デスクの上に広げた。
(終わり)
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