『完璧な依頼人』第3話 合い鍵
それから三週間、俺は火曜と金曜のたびに、麻衣と会った。
場所はいつも、あのカフェの窓際の席だった。彼女は毎回、四時十分になると時計を気にし、四時二十分には席を立つ。その律儀さが、かえって痛々しかった。
「相沢さんと話していると、不思議と息ができるんです」
三度目の金曜、麻衣はそう言って、小さく笑った。
「家にいると、いつも見張られているみたいで。呼吸の回数まで、数えられている気がして」
「……それは、おかしいことですよ。麻衣さんが悪いわけじゃない」
「そう言ってくれる人、初めてです」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
俺は視線を逸らし、コーヒーカップを握り直した。仕事で何度も使ってきた「寄り添う演技」のはずなのに、言葉が演技の外へ滑り落ちていく。それが分かっていて、止められなかった。
その一方で、俺は本業も怠らなかった。
吉野の素性は、依頼を受けた日のうちに洗っていた。中堅の貿易会社の役員。都内の高層マンションの最上階に住み、表向きの評判は悪くない。ただ、その会社には、帳簿に載らない金の流れがある、という噂が複数の筋から聞こえてきた。
吉野本人には、直接近づけなかった。ラウンジで会って以来、吉野は一度も姿を見せない。連絡はメールだけで、それも日増しに数が増えていた。
『妻は今日、何を話しましたか。どんな表情でしたか』
『できるだけ早く、二人で夜に会う約束を取りつけてほしいの。写真が必要なのよ』
最後のメールを読んだとき、わずかな引っかかりを覚えた。
「ほしいの」「必要なのよ」。四十代の男が使う言葉遣いにしては、やわらかすぎる。
(焦って、文章が乱れているのか。それとも、妻の口調がうつったのか)
長年連れ添った夫婦なら、そういうこともあるだろう。俺は、それ以上考えなかった。考える必要がない、と思おうとした。
四度目の火曜日、麻衣は思い詰めた顔で現れた。
「相沢さん。お願いがあるんです」
彼女はバッグから、鍵を一つ取り出した。テーブルの上に置かれたそれは、小さな銀色の合い鍵だった。
「夫の書斎の金庫に、証拠があるんです。私を殴ったときの声を、あの人は録音して、保管しているんです。『お前が悪いと分かるように』って。それと、会社の裏金の書類も」
「麻衣さん、それは危険すぎる」
「分かっています。でも、警察に持ち込めるものが、ほかにないんです」
彼女は声をひそめ、金庫の暗証番号を口にした。夫の初恋の相手の誕生日だと、悔しそうに付け加えて。
「玄関のポストの裏に、予備の鍵を貼ってあります。それを使えば入れます。夫は来週の水曜、一泊の出張で、夜までマンションを空けるんです」
あまりにも、具体的だった。
合い鍵の隠し場所、夫の出張日程、金庫の番号。会って間もない男に、普通は渡すはずのない情報ばかりだ。
「……俺を、そこまで信用していいんですか」
「信用じゃなくて、お願いなんです」
麻衣は、まっすぐに俺を見た。
「あなたしか、いないから」
その言葉に、疑念は押し流された。
あれほど慎重だったはずの自分が、一人の女の涙と震える指に、判断力を奪われている。それを自覚しながら、俺は合い鍵を手に取っていた。
「分かりました。必ず、証拠を持ち出します。その足で、警察に」
「……ありがとう、相沢さん」
彼女は、ほっとしたように息をついた。
決行前夜。
俺は事務所の机に、ICレコーダーと手袋、小型ライトを並べた。吉野には、いつもどおり偽の報告を送る。
『明日の夜、麻衣さんと二人で会う約束をしました』
送信するとすぐに、返信が届いた。
『よくやってくれました。期待しています』
その文面を、俺はなぜか、すぐに消した。
理由は分からない。ただ、画面の向こうで、誰かが微笑んでいる気がしたのだ。
(つづく)




