『完璧な依頼人』第2話 儚い被害者
『完璧な依頼人』第2話 儚い被害者
「本当に、すみません。見ず知らずの方に、こんなご迷惑を」
カルチャーセンターの向かいのカフェ。窓際の席で、麻衣は両手でグラスを包み込み、何度も頭を下げた。俺が差し出した水を一口飲むと、青白かった頬に、ようやくわずかな赤みが戻ってくる。
「気にしないでください。たまたま通りかかっただけですから」
嘘だった。三日前から、俺はこの女を見張っている。
だが、目の前で小さくなっている彼女は、写真で見た印象どおり、いや、それ以上に頼りなく見えた。夫を裏切って別の男と会うような人間には、どうしても見えない。
(顔で判断するな。それが一番の素人だ)
俺は自分に言い聞かせ、名刺代わりの偽名を名乗った。広告代理店勤務の相沢。この三日で用意した、無難な肩書きだ。
「相沢さん……ですか。私、麻衣といいます」
彼女は一度、時計に目をやった。そして、はっとしたように顔をこわばらせた。
「いけない。もう四時十分……」
「何か、ご予定が?」
「いえ、その……四時半までには、家にいないといけなくて」
声が、わずかに震えていた。
「ご主人が、お帰りになるんですか」
「夫は夜まで帰りません。でも、家の固定電話に、確認の電話がかかってくるんです。出られなかったら……」
麻衣は、そこで言葉を切った。
俺は急かさず、黙ってコーヒーを口に運んだ。聞き出すときは、待つ。これも、この仕事で身につけた鉄則だ。
やがて、彼女は細い声で言った。
「夫は……すごく、厳格な人なんです」
テーブルの上で、彼女の指が小刻みに震えている。
「外出の時間を少しでも過ぎると、何時間も問い詰められます。誰と会ったのか、何を話したのか、一言一句。スマホの履歴も、毎晩チェックされて。消したら、消したことを責められるんです」
「それは……」
「最初は、愛されているからだと思っていました。心配性なだけなんだって。でも、だんだん息が詰まってきて」
彼女は、袖を無意識に引き下ろした。さきほど見えた痣を、隠すように。
「実は一度、誰かに相談したことがあるんです。ある窓口で、親身に話を聞いてくれる男の人がいて。それが、夫に知られてしまって……」
「……責められたんですね」
麻衣は答えなかった。ただ、唇を強く噛んだ。
その沈黙が、答えのすべてだった。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
吉野は言っていた。妻は浮気をしている、と。メールで偶然見てしまった、と。
その「浮気相手」とは、このことなのか。相談に乗っただけの男を、浮気相手に仕立て上げているのか。
もしそうなら、吉野の依頼は、別れさせ屋の仕事ですらない。
「麻衣さん」
気づけば、俺は仕事用の声ではなく、素の声で呼びかけていた。
「もし、よければ。また、お話を聞かせてもらえませんか。俺でよければ、ですが」
彼女は驚いたように目を見開き、それから、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……いいんですか。私なんかに」
「次の火曜日。同じ時間に、ここで」
「はい。……ありがとうございます、相沢さん」
彼女が小走りに去っていく背中を、俺はガラス越しに見送った。
その夜、事務所に戻ると、パソコンに吉野からのメールが届いていた。
『調査の進捗はいかがですか。妻は、何か話しましたか。何も隠さず、すべて報告してください。急いでいます』
読み終えて、俺はしばらく画面を睨んだ。
不安に駆られた夫の文面だと、普通なら思うだろう。だが、今の俺には、監視と支配の延長にしか見えなかった。
俺は、返信を打った。
『接触に成功しました。引き続き調査します』
送信ボタンを押してから、机の引き出しを開ける。
奥から取り出したのは、小型のICレコーダーと、使い慣れた隠しカメラだった。
「依頼人の言うことを、鵜呑みにするな」
そう呟いて、ふと気づいた。
それはいつもの職業的な警戒ではなかった。
あの震える指先を、守りたいと思ってしまった。それが、プロとして最初の間違いだったと知るのは、もう少し先のことだ。
(つづく)




