『完璧な依頼人』第1話 ラウンジの男
『完璧な依頼人』第1話 ラウンジの男
「――ターゲットは、私の妻です。
品川のホテルの最上階。ラウンジの窓際の席で、向かいに座るスーツ姿の男は、吉野と名乗った。四十代半ばだろうか。仕立てのいいスーツとは裏腹に、頬がこけ、目の下には濃い隈が浮いている。
「妻は浮気をしています。ですが、私はまだ彼女を愛している。泥沼になる前に相手の男と別れさせ、離婚の話し合いを有利に進めたいのです」
吉野は組んだ指を、何度も組み直した。
「別れさせ屋の中では、あなたが一番優秀だと聞きました。相沢さん」
俺は、プロの顔で静かに頷いた。
別れさせ屋。それが俺の仕事だ。不倫相手に接近して関係を破綻させ、ときにはターゲットを罠にかけて、離婚の証拠を揃える。表には出せない稼業だが、この十年で、失敗した案件は一つもない。
「お任せください。ただ、最初に確認させてください。奥様の浮気を、あなたはどうやって知ったんですか」
「……メールです。妻のスマホを、偶然見てしまって」
「相手の男の素性は?」
「それが、よく分からないんです。名前も、勤め先も」
吉野は視線を落とし、コーヒーカップに手を伸ばしかけて、やめた。注文してから十分、一度も口をつけていない。
「調査費用は、前金で三百万円。現金で用意してきました」
テーブルの下から差し出された封筒は、驚くほど厚かった。
俺は封筒を受け取りながら、さりげなく吉野の左手を見た。薬指に、指輪の跡はない。妻を愛していると語る男の手にしては、少し妙だ。
(外しているだけか。浮気を疑って、夫婦仲が冷え切っているなら珍しくもない)
そう片づけて、俺は封筒を鞄にしまった。
「奥様の写真と、行動パターンの分かるものはありますか」
「はい。こちらに」
吉野は一枚の写真を差し出した。
映っていたのは、白いワンピース姿の若い女性だった。二十代半ばだろう。長い髪を肩に垂らし、少し困ったように笑っている。儚げで、控えめで、風が吹けば消えてしまいそうな人だった。
「麻衣です。毎週火曜と金曜は、駅前のカルチャーセンターに通っています。それ以外の外出は、ほとんどしません」
「ずいぶん、行動を把握されているんですね」
「……妻のことですから」
吉野はそう言って、唇の端だけで笑った。
ラウンジを出て、エレベーターを待つあいだ、俺は写真をもう一度見た。
この女が、夫を裏切っている。
にわかには信じがたかった。だが、そう感じることこそ、この仕事では危険な思い込みだ。依頼人の話を疑い、標的の素顔を暴く。俺はずっと、そうやって生きてきた。
「まあ、いつもどおりやるだけだ」
独り言が、静かな廊下に吸い込まれていった。
三日後の火曜日。俺は駅前のカルチャーセンターの向かいにあるカフェで、ノートパソコンを開くふりをしながら、入口を見張っていた。
午後二時五分。
白いブラウスにグレーのカーディガンを羽織った女が、小走りで階段を上がっていく。写真で見た顔だった。吉野麻衣だ。
遅刻しそうなのだろう。何度も腕時計を見ている。その仕草が、どこか必死に見えた。
一時間半後、彼女は同じ階段を下りてきた。
そして、地上に降り立った瞬間、ふらりと身体を揺らした。
手すりをつかむ。細い指が白くなっている。
俺は考えるより先に、席を立っていた。
もちろん、計画の一部だ。偶然を装って近づくのは、この仕事の基本中の基本。そのはずだった。
だが、彼女に駆け寄る足が、演技ではなく本当に急いでいたことに、俺は気づいていなかった。
「大丈夫ですか」
声をかけると、麻衣は怯えたように肩を震わせ、それから、ゆっくりと顔を上げた。
写真よりもずっと青白い顔だった。
「……すみません。少し、立ち眩みがして」
その袖口から、カーディガンの下の手首が覗いた。
薄紫色の、細い痣が、一周するように残っていた。
(つづく)




