↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真実はラストに潜む―ミステリー短編集  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/25

『完璧な依頼人』第1話 ラウンジの男

『完璧な依頼人』第1話 ラウンジの男


「――ターゲットは、私の妻です。


品川のホテルの最上階。ラウンジの窓際の席で、向かいに座るスーツ姿の男は、吉野と名乗った。四十代半ばだろうか。仕立てのいいスーツとは裏腹に、頬がこけ、目の下には濃い隈が浮いている。


「妻は浮気をしています。ですが、私はまだ彼女を愛している。泥沼になる前に相手の男と別れさせ、離婚の話し合いを有利に進めたいのです」


吉野は組んだ指を、何度も組み直した。


「別れさせ屋の中では、あなたが一番優秀だと聞きました。相沢さん」


俺は、プロの顔で静かに頷いた。

別れさせ屋。それが俺の仕事だ。不倫相手に接近して関係を破綻させ、ときにはターゲットを罠にかけて、離婚の証拠を揃える。表には出せない稼業だが、この十年で、失敗した案件は一つもない。


「お任せください。ただ、最初に確認させてください。奥様の浮気を、あなたはどうやって知ったんですか」

「……メールです。妻のスマホを、偶然見てしまって」

「相手の男の素性は?」

「それが、よく分からないんです。名前も、勤め先も」


吉野は視線を落とし、コーヒーカップに手を伸ばしかけて、やめた。注文してから十分、一度も口をつけていない。


「調査費用は、前金で三百万円。現金で用意してきました」


テーブルの下から差し出された封筒は、驚くほど厚かった。


俺は封筒を受け取りながら、さりげなく吉野の左手を見た。薬指に、指輪の跡はない。妻を愛していると語る男の手にしては、少し妙だ。

(外しているだけか。浮気を疑って、夫婦仲が冷え切っているなら珍しくもない)

そう片づけて、俺は封筒を鞄にしまった。


「奥様の写真と、行動パターンの分かるものはありますか」

「はい。こちらに」


吉野は一枚の写真を差し出した。

映っていたのは、白いワンピース姿の若い女性だった。二十代半ばだろう。長い髪を肩に垂らし、少し困ったように笑っている。儚げで、控えめで、風が吹けば消えてしまいそうな人だった。


「麻衣です。毎週火曜と金曜は、駅前のカルチャーセンターに通っています。それ以外の外出は、ほとんどしません」


「ずいぶん、行動を把握されているんですね」


「……妻のことですから」


吉野はそう言って、唇の端だけで笑った。

ラウンジを出て、エレベーターを待つあいだ、俺は写真をもう一度見た。

この女が、夫を裏切っている。

にわかには信じがたかった。だが、そう感じることこそ、この仕事では危険な思い込みだ。依頼人の話を疑い、標的の素顔を暴く。俺はずっと、そうやって生きてきた。


「まあ、いつもどおりやるだけだ」


独り言が、静かな廊下に吸い込まれていった。


三日後の火曜日。俺は駅前のカルチャーセンターの向かいにあるカフェで、ノートパソコンを開くふりをしながら、入口を見張っていた。


午後二時五分。

白いブラウスにグレーのカーディガンを羽織った女が、小走りで階段を上がっていく。写真で見た顔だった。吉野麻衣だ。

遅刻しそうなのだろう。何度も腕時計を見ている。その仕草が、どこか必死に見えた。

一時間半後、彼女は同じ階段を下りてきた。


そして、地上に降り立った瞬間、ふらりと身体を揺らした。

手すりをつかむ。細い指が白くなっている。

俺は考えるより先に、席を立っていた。


もちろん、計画の一部だ。偶然を装って近づくのは、この仕事の基本中の基本。そのはずだった。

だが、彼女に駆け寄る足が、演技ではなく本当に急いでいたことに、俺は気づいていなかった。


「大丈夫ですか」


声をかけると、麻衣は怯えたように肩を震わせ、それから、ゆっくりと顔を上げた。

写真よりもずっと青白い顔だった。


「……すみません。少し、立ち眩みがして」


その袖口から、カーディガンの下の手首が覗いた。

薄紫色の、細い痣が、一周するように残っていた。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。