『完璧なアリバイ』第4話 暴かれる罠
**『完璧なアリバイ』第4話 暴かれる罠**
「末期がん……? 余命、半年……?」
佐伯は、うわごとのように繰り返した。
嘘だ、と思った。あの男は元気だった。いや、確かに少し痩せてはいた。顔色も悪かった。乾いた咳もしていた。だが、それでも久保田は毎日会社に来て、涼しい顔で帳簿をいじり、自分を追い出す算段を立てていたではないか。
(あいつは、死にかけていたのか……?)
脳裏に、昨夜の光景がノイズ混じりに蘇る。
ロープで首を絞め上げた瞬間、久保田はもがきもしなかった。それどころか、意識を失う直前、ぐったりとした顔をわずかに歪め――ニヤリと笑ったのだ。
あのときは、苦しさゆえの痙攣だと思い込もうとした。だが違う。あいつは確かに、笑っていた。
「佐伯さん」
宮下の声が、静かに響いた。
「顔色が優れませんね。水でも持ってこさせましょうか」
「いえ……大丈夫です。ただ、驚いて。久保田が病気だったなんて、まったく知らなかったものですから」
「そうでしょうね。久保田さんは、周囲の誰にも病状を明かしていなかったようです。会社の役員にも、ご家族にも、もちろんあなたにも」
宮下は薬瓶に視線を落とした。
「ひとつ、私の推測をお話ししてもよろしいですか」
「……どうぞ」
「久保田さんは、自分がじきに死ぬと知っていた。そうなれば、彼が保有する会社の株は相続人のものになる。あるいは、あなたと協議のうえで、あなたの手に渡る。それを、彼は阻みたかったのではないでしょうか」
「な、何を言って……」
「会社の金を横領していたことも、すでにこちらの調べで分かっています。久保田さんは、その罪をあなたに着せるつもりでいた。ただ、病気で時間が足りなくなった。そこで、別の方法を考えた」
「別の、方法……?」
「あなたを道連れにする方法です」
取調室の空気が、凍りついた。
佐伯は反射的に笑い飛ばそうとした。だが、唇が思うように動かない。
「馬鹿な。そんなことが、できるわけがない。俺には、アリバイがあるんだ。友人も一緒にいたし、居酒屋の注文履歴だって――」
「ええ。それも確認しましたよ」
宮下は、手元のファイルから一枚の紙を取り出した。
「久保田さんのスマートフォンから、弁護士宛てのタイマー送信メールが見つかりました。昨夜、二十時ちょうどに送信されたものです」
紙に印刷された文面を、宮下がゆっくり読み上げる。
「『今夜私が殺されたら、犯人は佐伯だ。彼が使うアリバイ工作の証拠は、自室のデスクに残してある』」
「…………」
「あなたが居酒屋にいらっしゃった時間ですね。この時点で、久保田さんは、自分が殺されることも、あなたがアリバイを作ろうとすることも、すべて知っていたことになります」
「ば、馬鹿な! そんなの、ただの言いがかりだ! あいつが勝手に書いた妄想じゃないか!」
佐伯は思わず机を叩いた。若い刑事が身を乗り出しかけたが、宮下が手で制した。
「妄想かどうかは、これから説明します。まず、昨夜の居酒屋についてです」
宮下の目が、じっと佐伯を捉えた。
「あなたがご友人を誘った日の一週間ほど前、ご友人のご自宅に、匿名で居酒屋の割引クーポンが郵送されていました。差出人は不明。ですが、郵送した人物は特定できています」
佐伯の指先が、冷たくなった。
「……まさか」
「久保田さんです。あなたが誘いやすいよう、舞台を整えておいたんです」
クーポン。電話口で村井が口にした、気味の悪い偶然。運が向いてきたと、ほくそ笑んだ自分を思い出す。
(あれは、偶然じゃなかった……?)
「さらに、久保田さんは居酒屋の店員を金で買収していました。あなたが案内された個室の席。裏口の鍵が開いていたこと。昨夜二十時二十分から五十分まで、あなたの席が空いていたこと。そして、二十時三十五分に日本酒を注文したのは、ご友人おひとりだったこと。そのすべてについて、店員は証言する手筈になっていました」
襖の隙間から、じっとこちらを見ていた店員の顔が、鮮やかに蘇った。
あの会釈は、気のせいではなかった。
「ご友人は、あなたがトイレにいたと思っておられる。誠実な方で、嘘をつくような人ではありません。ですが、店員の証言と注文記録を重ねれば、あなたが三十分間、店にいなかったことは明らかです」
佐伯は言葉を失った。
鉄壁だと思っていたアリバイが、足元から崩れ落ちていく。レシートも、日本酒の記録も、友人の証言も――すべて、彼の手の中にあったものではなかった。
宮下は、そこで言葉を切った。眠そうな目は、もう眠そうではなかった。
「そして佐伯さん。もうひとつ、お見せしたいものがあります」
宮下が、若い刑事に目配せをした。若い刑事は無言で立ち上がり、机の上にノートパソコンを置いた。
画面が、ゆっくりと点灯する。
(第4話・了)




