『完璧なアリバイ』第2話 決行の夜
**『完璧なアリバイ』第2話 決行の夜**
十月十日、金曜日。午後七時四十五分。
品川駅から少し歩いた雑居ビルの二階に、居酒屋「うおたみ」はあった。暖簾をくぐると、威勢のいい声が飛んでくる。
「いらっしゃいませ! お連れ様、先にお見えですよ。奥の個室へどうぞ」
店員は迷いなく佐伯を案内した。予約の名前を告げた覚えはない。村井が伝えておいたのだろう、と佐伯は思った。
通されたのは、店の最も奥にある小さな個室だった。襖で仕切られ、廊下へ出るには、人目につかない裏手の通路を通ることもできる。
「おう、佐伯! 久しぶり!」
村井が手を挙げる。高校時代と変わらない、人のいい笑顔だった。
「悪いな、急に誘って」
「いやいや、こっちこそ嬉しいよ。ほら、まずは乾杯だ」
生ビールのジョッキが重なる。刺身、焼き鳥、だし巻き卵。村井は上機嫌で、昔話を止めどなく喋った。体育祭の騒ぎ、文化祭の失敗、卒業旅行。佐伯は笑いながら相槌を打ち、頃合いを見計らって切り出した。
「そうだ。あとで日本酒を頼みたいんだ。二十時半ごろに、お前の名前で注文しておいてくれないか。ちょっと用事の電話が入りそうでさ。俺は席を外すかもしれない」
「ああ、いいよ。仕事か? 社長は大変だな」
「まあな。腹の調子も悪くて、長引くかもしれない」
佐伯はわざとらしく腹をさすってみせた。村井は「おいおい、無理するなよ」と笑う。
これで準備は整った。あとは動くだけだ。
午後八時十分。
「悪い、ちょっとトイレ」
佐伯は席を立ち、襖を開けた。廊下を折れて、トイレの前を素通りする。裏口のドアは、鍵がかかっていなかった。
(不用心な店だな)
そう思っただけで、深くは考えなかった。
非常階段を下りると、ビルの裏手に原付が停めてある。ヘルメットを被り、エンジンをかける。夜の品川を、佐伯は風を切って走り抜けた。
十分後。久保田のマンションの駐輪場に原付を滑り込ませる。エレベーターは使わない。階段を四階まで駆け上がり、廊下の奥の部屋の前で息を整えた。
合鍵を差し込む。回る。
あっけないほど簡単に、ドアは開いた。
玄関に靴が一足きちんと揃えてあった。リビングから、ほのかに明かりが漏れている。テレビの音はしない。静かだった。
佐伯は足音を殺して廊下を進み、リビングを覗き込んだ。
久保田は、ソファに深く座っていた。こちらに背を向け、ゆったりと身を沈めている。テーブルには湯気の立つ紅茶のカップが置かれていた。
(くつろいでるな。……好都合だ)
ポケットからロープを取り出す。両手に巻きつけ、ぐっと引いた。掌に食い込む感触が、やけに現実的だった。
一歩。また一歩。
久保田は振り向かない。物音に気づいていないのか。それとも――。
迷いを振り切り、佐伯は背後から飛びかかった。
ロープが首に食い込む。久保田の体が一度だけ大きく跳ねた。佐伯は全体重をかけて引き絞る。
「裏切り者が……! 俺を、はめようとしやがって……!」
食いしばった歯の隙間から、呻きが漏れる。
だが、おかしかった。
久保田は抵抗しなかった。ロープに爪を立てることも、足をばたつかせることもしない。ただ、されるがままに首を預けている。
その顔が、ゆっくりとこちらに傾いた。
血の気の引いた唇の端が、持ち上がる。
笑った。
確かに、久保田は笑っていた。
佐伯の背筋を冷たいものが這い上がる。思わず力を緩めかけ、しかし次の瞬間、もう後戻りはできないと悟って、残りの力のすべてを込めた。
やがて、体から力が抜けた。
三分。計画どおりの時間だった。
佐伯はロープを外し、震える手で久保田の脈を確かめる。何も触れなかった。
「……終わった」
呟いた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
指紋を残さないよう手袋ごしに現場を整え、部屋を出る。原付に跨り、夜の街へ戻った。
午後八時五十分。
裏口から店に滑り込み、トイレで手を洗う。鏡の中の自分は、驚くほど平然とした顔をしていた。
個室に戻ると、村井が日本酒の徳利を傾けていた。
「おう、長かったな。大丈夫か?」
「ああ、ようやく収まったよ。悪いな、待たせて」
「日本酒、頼んどいたぞ。冷えてるうちに飲め」
佐伯は猪口を受け取り、一息に呷った。喉を通る酒が、焼けるように熱い。
そのとき、襖の隙間から視線を感じた。
通路に立つ店員が、こちらをじっと見ていた。目が合うと、店員は何事もなかったように、小さく会釈して去っていく。
(……気のせいだ)
佐伯は空になった猪口を見つめた。
完璧なはずだった。それなのに、あの久保田の笑みが、まぶたの裏から離れなかった。
(第2話・了)




