『完璧なアリバイ』第1話 裏切りの帳簿
**『完璧なアリバイ』第1話 裏切りの帳簿**
十月三日、午後十一時。誰もいなくなったオフィスで、佐伯は経理データの画面を睨んでいた。
三年前、佐伯は久保田とふたりでこのITベンチャーを立ち上げた。技術の佐伯、営業と資金繰りの久保田。役割分担はうまくいき、社員は四十人を超えるまでになった。
その久保田が、会社の金に手をつけている。
偶然見つけたのは、ほんの小さな違和感だった。架空の外注費、実体のないコンサル料。流れた先は、久保田が個人で管理する口座だった。総額は、すでに一億円に迫っている。
さらに別のフォルダには、役員会に提出する予定の資料が保存されていた。タイトルは「不正会計に関する調査報告」。そこに並ぶ数字はすべて、佐伯の承認印とともに処理されたことになっていた。
「……俺に、全部かぶせる気か」
声が震えた。久保田は用意周到に、佐伯を横領犯に仕立て上げようとしている。役員会で糾弾され、会社を追われ、下手をすれば刑事告発。そのあとで久保田は、佐伯の持ち株を安く買い叩くつもりなのだろう。
翌日、佐伯は何食わぬ顔で久保田に声をかけた。
「最近、顔色が悪いぞ。ちゃんと寝てるのか?」
「ああ、ちょっと疲れが溜まっていてね」
久保田は薄く笑い、乾いた咳をひとつした。確かに痩せた。だが佐伯には、その笑みがひどく余裕ありげに見えた。裏切り者の、勝ち誇った笑みに。
その夜、佐伯は決意した。
話し合いも、告発も無駄だ。証拠は久保田の手の中にあり、役員の信頼は久保田にある。奴が動くより先に、奴を消すしかない。
ただし、捕まっては意味がない。
佐伯は技術者らしく、冷静に計画を組み立てていった。必要なのは、犯行時刻に別の場所にいたと証明できる、揺るぎないアリバイだ。
そのために使えるのは、高校時代からの友人、村井だった。
五日、佐伯は村井に電話をかけた。
「久しぶりだな。今度の金曜、飲まないか。十月十日だ」
「お、いいね! ちょうど空いてるよ。ああ、そういえば先週、品川の居酒屋のクーポンが郵便で届いたんだ。『うおたみ』って店。差出人不明で気味が悪いけど、半額らしい。そこにしないか?」
「へえ、誰かの間違いじゃないのか? ……まあ、いいよ。そこにしよう」
受話器を置いたあと、佐伯はふっと口元を緩めた。
品川なら、久保田のマンションまで原付で十分ほどだ。しかも「うおたみ」は、個室のような奥の席があるらしい。偶然にしては出来すぎている。
(運が向いてきたな)
そのときの佐伯は、疑うことすら思いつかなかった。人は、自分に都合のいい偶然を、疑わないものだ。
それから佐伯は、準備を進めた。
まず、久保田のマンションの合鍵。三年前、引っ越しの手伝いで預かったまま、返していなかったものがある。久保田はそれを忘れているはずだ。
次に、足。タクシーも電車も、記録が残る。選んだのは、中古の原付だった。現金で買い、ナンバーは偽名の登録のまま、マンションの駐輪場の隅に置く。
最後に、凶器。ロープは、ホームセンターで買った、何の変哲もない荷造り用のものだ。
そして十月九日の夜。決行の前日。
佐伯はベッドに入っても、眠れなかった。天井を見つめながら、頭の中で何度も手順をなぞる。
十九時四十五分、入店。二十時過ぎ、トイレに立つふりをして裏口へ。原付で久保田のマンションへ向かい、二十時二十分に到着。犯行は三分で終わらせる。店に戻るのは二十時五十分。席を外すのは三十分。
その間の「穴」は、村井にこう思わせればいい。佐伯は腹を下して、長くトイレにこもっていたのだ、と。
(大丈夫だ。完璧だ)
何度そう言い聞かせても、胸の奥に小さな棘が残っていた。
それは、あの日、久保田が見せた笑みだった。
勝ち誇った笑みにしては、どこか違う。あれはまるで、これから起こることをすべて知っている者の――。
佐伯は頭を振り、その考えを追い払った。
そして、運命の十月十日がやってくる。
(第1話・了)




