↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真実はラストに潜む―ミステリー短編集  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/25

『記憶のログ』 第5話 ありがとう、愛してる(最終回)

**第5話 ありがとう、愛してる**


 カメラ越しの映像が、ゆっくりと焦点を結んだ。


 現実世界の、病室だった。


 白いカーテン。生命維持装置の静かな光。サーバーラックの低い駆動音。


 ベッドの傍らに、ひとりの女性が座っている。ノートパソコンを膝に乗せ、泣きじゃくりながらキーボードを叩いていた。


 少し痩せていた。目元を真っ赤に腫らしていた。髪には、俺の知らない白いものが混じっている。


 それでも、見間違えるはずがなかった。


「……真央」


 名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ねた。


 ゆっくりと顔を上げる。涙で濡れた瞳が、カメラのレンズをまっすぐに見つめた。


「拓也……」


 スピーカーから聞こえるのは、もうAIの合成音声ではなかった。マイク越しの、真央の生身の声だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


「真央」


「あなたの意識データが、もう限界なの。重い処理をさせたり、仮想空間の外に出ようとしたりすると、データが壊れてしまうから……だから、ずっと嘘をついていたの。閉じ込めるようなことをして、ごめんなさい」


 彼女は、両手で顔を覆った。


「あなたがいなくなるのが、怖かった。諦められなかった。こんな形で繋ぎ止めて、あなたを苦しめているって、わかっていたのに……」


 その時、視界が揺れた。


 書斎の壁が、天井が、床が、細かな光の粒子になって剥がれはじめる。本棚の背表紙が、ひとつ、またひとつと砂のように崩れていく。


 システムが、終わろうとしている。


 俺の「意識データの寿命」が、尽きようとしていた。


 けれど、不思議と怖くなかった。


 胸の中にあったのは、恐怖でも、怒りでも、未練でもなかった。


 一年。


 彼女は、一年間、ひとりで戦ってきたのだ。


 夜ごと「妻のAI」を演じ、泣き声を殺し、俺に気づかれないよう、声のフィルタを調整し続けた。眠る時間を削って、俺の意識を守り続けた。


 誰にも言えないまま。誰にも頼れないまま。


 愛した人を失う痛みを、たったひとりで、背負いながら。


 俺は、消えゆく手を伸ばした。


 画面の中の、泣いている真央に、そっと触れるように。


「謝らないでくれ、真央」


「拓也……」


「ありがとう」


 真央が、目を見開いた。


「ずっと傍にいてくれたんだね。毎晩、あの声で話しかけてくれて。心配してくれて」


「でも、私は、あなたを……」


「俺は幸せだったよ」


 嘘ではなかった。


 本棚に触るなと叫んだあの声も。外に出るなと懇願したあの声も。


 全部、俺を守りたい一心から出た、愛の声だった。


「もう、十分だよ。よく頑張ってくれたね」


 その言葉を聞いた瞬間、真央の顔が、くしゃりと崩れた。


「う……あ……ああああっ!」


 子供のように声を上げて、彼女は泣いた。


 ずっと堪えてきたものが、一気に溢れ出したのだろう。肩を震わせ、嗚咽を漏らし、それでも画面から目を逸らさなかった。


 俺は、微笑んだ。


 光の粒子が、腕を、胸を、ゆっくりと包んでいく。


「真央。聞いてくれ」


「うん……うん……」


「俺がいなくなっても、君はちゃんと食べて、ちゃんと眠るんだよ。野菜も、ちゃんと食べること」


 真央が、泣きながら、少しだけ笑った。


「……ふふ。拓也が、それを言うの」


「いつも言われてたからね」


 世界が、真っ白に染まっていく。


 もう、書斎の形は残っていなかった。声だけが、光の中に浮かんでいる。


「愛してるよ、真央」


「私も……私も愛してる、拓也……!」


 最後に聞こえたのは、愛する人の温かい泣き声と、システムが静かに停止する、小さな電子音だった。



[SESSION TERMINATED:意識データのセッションを終了しました]

[送信済みメッセージ:「今までありがとう。ずっと愛しているよ」]


 病室で、真央はノートパソコンの画面を見つめていた。


 サーバーの駆動音が、ふっと途切れる。


 部屋が、驚くほど静かになった。


 一年ぶりに訪れた、本当の静寂だった。


 彼女はしばらくのあいだ、動けなかった。やがて、震える指で、画面に残された最後のメッセージをなぞった。


 今までありがとう。ずっと愛しているよ。


「……うん」


 かすれた声が、誰もいない病室に落ちた。


「ちゃんと、聞こえたよ」


 それから彼女は、ベッドの上に残された夫の手を、そっと両手で包んだ。


 冷たかった。けれど、もう、震えてはいなかった。


  *


 数日後。


 真央は、一年ぶりに家の窓を開けた。


 冷たく澄んだ秋の空気が、書斎に流れ込んでくる。夫が毎晩座っていた椅子には、うっすらと埃がたまっていた。


 彼女は、まず本棚を動かした。


 背丈ほどもある古い本棚を、ひとりで、少しずつ。腕が震え、息が上がる。それでも手を止めなかった。


「ほら、拓也。ちゃんと動かせたよ」


 誰にともなくつぶやいて、真央は小さく笑った。


 その日の夕方、彼女は駅前の公園まで、ゆっくり歩いた。


 あの日、彼が行きたがっていた散歩道だった。


 夕焼けが、空を淡い橙色に染めている。足もとで、乾いた枯れ葉が小さく鳴った。


 帰り道、スーパーで野菜をたくさん買った。


 重たい袋を両手に提げて、真央は空を見上げる。


「野菜も、ちゃんと食べるからね」


 風が、頬を撫でていった。


 どこかで、懐かしい声が笑った気がした。


 真央は目を閉じ、それから、前を向いて歩きだした。


(第5話・終わり/完)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。