『記憶のログ』 第5話 ありがとう、愛してる(最終回)
**第5話 ありがとう、愛してる**
カメラ越しの映像が、ゆっくりと焦点を結んだ。
現実世界の、病室だった。
白いカーテン。生命維持装置の静かな光。サーバーラックの低い駆動音。
ベッドの傍らに、ひとりの女性が座っている。ノートパソコンを膝に乗せ、泣きじゃくりながらキーボードを叩いていた。
少し痩せていた。目元を真っ赤に腫らしていた。髪には、俺の知らない白いものが混じっている。
それでも、見間違えるはずがなかった。
「……真央」
名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ねた。
ゆっくりと顔を上げる。涙で濡れた瞳が、カメラのレンズをまっすぐに見つめた。
「拓也……」
スピーカーから聞こえるのは、もうAIの合成音声ではなかった。マイク越しの、真央の生身の声だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「真央」
「あなたの意識データが、もう限界なの。重い処理をさせたり、仮想空間の外に出ようとしたりすると、データが壊れてしまうから……だから、ずっと嘘をついていたの。閉じ込めるようなことをして、ごめんなさい」
彼女は、両手で顔を覆った。
「あなたがいなくなるのが、怖かった。諦められなかった。こんな形で繋ぎ止めて、あなたを苦しめているって、わかっていたのに……」
その時、視界が揺れた。
書斎の壁が、天井が、床が、細かな光の粒子になって剥がれはじめる。本棚の背表紙が、ひとつ、またひとつと砂のように崩れていく。
システムが、終わろうとしている。
俺の「意識データの寿命」が、尽きようとしていた。
けれど、不思議と怖くなかった。
胸の中にあったのは、恐怖でも、怒りでも、未練でもなかった。
一年。
彼女は、一年間、ひとりで戦ってきたのだ。
夜ごと「妻のAI」を演じ、泣き声を殺し、俺に気づかれないよう、声のフィルタを調整し続けた。眠る時間を削って、俺の意識を守り続けた。
誰にも言えないまま。誰にも頼れないまま。
愛した人を失う痛みを、たったひとりで、背負いながら。
俺は、消えゆく手を伸ばした。
画面の中の、泣いている真央に、そっと触れるように。
「謝らないでくれ、真央」
「拓也……」
「ありがとう」
真央が、目を見開いた。
「ずっと傍にいてくれたんだね。毎晩、あの声で話しかけてくれて。心配してくれて」
「でも、私は、あなたを……」
「俺は幸せだったよ」
嘘ではなかった。
本棚に触るなと叫んだあの声も。外に出るなと懇願したあの声も。
全部、俺を守りたい一心から出た、愛の声だった。
「もう、十分だよ。よく頑張ってくれたね」
その言葉を聞いた瞬間、真央の顔が、くしゃりと崩れた。
「う……あ……ああああっ!」
子供のように声を上げて、彼女は泣いた。
ずっと堪えてきたものが、一気に溢れ出したのだろう。肩を震わせ、嗚咽を漏らし、それでも画面から目を逸らさなかった。
俺は、微笑んだ。
光の粒子が、腕を、胸を、ゆっくりと包んでいく。
「真央。聞いてくれ」
「うん……うん……」
「俺がいなくなっても、君はちゃんと食べて、ちゃんと眠るんだよ。野菜も、ちゃんと食べること」
真央が、泣きながら、少しだけ笑った。
「……ふふ。拓也が、それを言うの」
「いつも言われてたからね」
世界が、真っ白に染まっていく。
もう、書斎の形は残っていなかった。声だけが、光の中に浮かんでいる。
「愛してるよ、真央」
「私も……私も愛してる、拓也……!」
最後に聞こえたのは、愛する人の温かい泣き声と、システムが静かに停止する、小さな電子音だった。
[SESSION TERMINATED:意識データのセッションを終了しました]
[送信済みメッセージ:「今までありがとう。ずっと愛しているよ」]
病室で、真央はノートパソコンの画面を見つめていた。
サーバーの駆動音が、ふっと途切れる。
部屋が、驚くほど静かになった。
一年ぶりに訪れた、本当の静寂だった。
彼女はしばらくのあいだ、動けなかった。やがて、震える指で、画面に残された最後のメッセージをなぞった。
今までありがとう。ずっと愛しているよ。
「……うん」
かすれた声が、誰もいない病室に落ちた。
「ちゃんと、聞こえたよ」
それから彼女は、ベッドの上に残された夫の手を、そっと両手で包んだ。
冷たかった。けれど、もう、震えてはいなかった。
*
数日後。
真央は、一年ぶりに家の窓を開けた。
冷たく澄んだ秋の空気が、書斎に流れ込んでくる。夫が毎晩座っていた椅子には、うっすらと埃がたまっていた。
彼女は、まず本棚を動かした。
背丈ほどもある古い本棚を、ひとりで、少しずつ。腕が震え、息が上がる。それでも手を止めなかった。
「ほら、拓也。ちゃんと動かせたよ」
誰にともなくつぶやいて、真央は小さく笑った。
その日の夕方、彼女は駅前の公園まで、ゆっくり歩いた。
あの日、彼が行きたがっていた散歩道だった。
夕焼けが、空を淡い橙色に染めている。足もとで、乾いた枯れ葉が小さく鳴った。
帰り道、スーパーで野菜をたくさん買った。
重たい袋を両手に提げて、真央は空を見上げる。
「野菜も、ちゃんと食べるからね」
風が、頬を撫でていった。
どこかで、懐かしい声が笑った気がした。
真央は目を閉じ、それから、前を向いて歩きだした。
(第5話・終わり/完)




