屋敷より先に温室を見ます
「屋敷より先に温室を見ます」
春の第1月27日、午前7時。
麦穂亭の食堂で、アウレリアは豆の煮込みを食べ終えると同時に宣言した。
「予想どおりですね」
向かいのルカは驚きもしない。
「反対ですか」
「朝食を終えてからなら、契約違反ではありません。標本箱の点検も済みました」
二十四鉢に転倒も破損もなく、土の湿り気は許容範囲。醸造庫の温度と湿度も、昨夜の記録から大きく変わっていない。携帯魔力計は三種類の校正石を測り、表示のずれが2.1%のままであることを確かめた。
マルタが空の器を片づけながら、二人を見比べる。
「公爵家の人なら、まず屋敷で椅子の埃を気にするものだと思ってました」
「椅子は逃げません。苔の状態は変わります」
「温室も半年は逃げてませんよ」
「だからこそ、これ以上待たせる理由がありません」
理屈が通じたとは思えない顔で、マルタは肩をすくめた。
旅に同行した女性従者と護衛は、屋敷と農場の鍵、公爵印付きの管理命令書を確認した。原記録箱、写し、工具、校正石、書籍、衣類をすべて麦穂亭へ降ろし、アウレリアとルカが一覧と照合する。それから御者二人、女性従者一人、護衛二人が、二台の馬車で王都へ戻っていった。
村へ残るのは、アウレリアとルカだけである。
宿を出ると、朝の広場には七人ほどの村人がいた。井戸で水を汲む者。薪を背負う者。麦穂亭の前を掃く少女。
誰も挨拶をしない。
正確には、アウレリアが顔を向けると、全員が作業へ戻った。
「嫌われていますね」
「まだ、わかりません。関わりを避けられていることは観察できますが、理由は聞いていません」
「昨日から、その言い方が上手になりましたね」
「あなたは褒めるときも失礼です」
広場の端で箒を持っていた少女だけが、隠しきれない好奇心をこちらへ向けている。栗色の髪を左右で結び、十歳ほどに見えた。
目が合うと、少女は麦穂亭の中へ駆け込んだ。
* * *
貸与された屋敷は村の北側にあったが、アウレリアは傾いた雨戸を横目に通り過ぎた。
旧温室は、その裏手の緩い丘を下った先にあった。
細長い石造りの基礎へ、木と鉄の骨組みを渡した古い建物だ。南側の硝子はほとんど残っていない。北側は曇った硝子と蔦に覆われ、屋根の中央が内側へ沈んでいる。
入口の前には、腰ほどの高さまで枯れ草が積もっていた。
アウレリアは革手袋をはめ、扉へ手をかけた。
「待ってください」
ルカが外套の後ろをつかむ。
「何をするのです」
「それはこちらの台詞です。屋根が落ちています」
「中央部だけです。壁際なら――」
「危険な作業は拒否できる契約でしたね」
「あなたに入れとは命じていません」
「雇用主が屋根の下敷きになった場合、助手の仕事が増えます」
反論しにくい理由だった。
二人は内部へ入らず、建物の周囲を一周した。
南東の柱は腐食が進み、屋根を支える横木には割れがある。北側の基礎石は比較的安定しているが、排水溝が土と落ち葉で埋まっていた。
ルカが簡単な見取り図を描き、アウレリアが破損箇所へ番号を振る。
「修理できますか」
「僕に聞かないでください。測定器は直せても、建物は専門外です」
「村に木工職人が一人いると報告書にあります」
「仕事を受けてくれるかは別です」
その点は、実際に話さなければわからない。
北西の角へ回ったところで、アウレリアは足を止めた。
割れた雨樋から、細い水が基礎石へ落ちている。日光は温室の壁に遮られ、石の隙間だけが湿っていた。
そこに、銀緑色の小さな葉が重なっている。
「フェルナー。動かないで」
「僕は踏んでいません」
「声も小さく」
「声で逃げる苔ではありませんよ」
わかっている。しかし焦る気持ちを抑えきれない
アウレリアは地面へ膝をつき、拡大鏡を取り出した。
丸みのある葉の縁。葉脈に沿って走る、ごく薄い銀色。学院で一年間見続けた形と一致する。
「月眠り苔です」
ルカが隣へしゃがむ。
「一群目が見つかりましたね」
「候補です。同じ場所に連続して生えているものを、数だけ分けてはいけません。この一帯で一群として扱います」
「それに、旧温室で育てていた苔が外へ広がった可能性もあります。過去の栽培記録と周辺分布を調べるまで、独立群には数えません」
群落は基礎石三つ分、腕を広げたほどの範囲に続いていた。学院の鉢より葉が小さく、色も淡い。それでも、枯れてはいない。
低い魔力の土地で自然に残れるなら、鉢の中だけの現象ではない可能性がある。だが、その確認のために村を勝手な試験場へ変えてはならない。
携帯魔力計を近づける前に、校正時刻と天候を記す。苔の直上と、基礎石から一歩、三歩、五歩の地点を、地表から同じ高さで三回ずつ測った。表示値と補正値を分け、三回のばらつきも残す。
表示値と補正値は、どちらも王都近郊より明らかに低い。
苔の直上は、三回ともわずかに高い値が出た。
「放出している証拠になりますか」
「なりません。苔が元から魔力の高い場所を選んだ可能性、内部に蓄積した魔力を計器が拾った可能性、測定誤差があります。地下水、石材、日照、湿度も調べる必要があります」
「採取は?」
「しません。範囲を記録し、境界から離して目印を置きます。今の段階で損なう理由がありません」
アウレリアは細い木札へ、候補群落M1、発見日、発見者二名と記した。苔から半歩離れた場所へ差し込み、四方向から見取り図を描く。
そのとき、背後で枯れ枝が折れた。
振り向くと、二人の男が立っていた。
一人は六十代と思われる、日に焼けた老農夫。短く整えた灰色の顎髭へ親指を当て、二人と木札を疑うように見比べている。もう一人は二十代半ばで、木屑のついた袖のまま肩に木材を担いでいる。
「そこで何をしてる」
老農夫の声は低かった。
「植物群落の記録です。採取も薬剤散布もしていません」
アウレリアが答えると、男は木札を睨んだ。
「また印をつけるのか」
「また?」
「前にも王都から学者が来た。畑に札を立てて、土を持っていった。あとは何も言わずに帰った」
若い職人が老農夫の肩を押さえる。
「ゲルトさん」
「黙ってろ、テオ。今度は悪女だか何だか知らんが、村を実験台にされちゃたまらん」
温室の悪女。
噂は、馬車より先に到着していたらしい。
「あなた方の許可なく、畑へ立ち入りません。採取もしません」
「公爵様の娘なら、許可なんぞいらんだろう」
「必要です。土地を管理する権限と、あなたの作物を勝手に扱う権限は同じではありません」
ゲルトは目を細めた。
信じた顔ではない。
「言うだけなら、誰にでもできる」
口頭審査で、自分も同じことを言われた。
計画だけなら、誰にでも書ける。
「そのとおりです」
アウレリアは立ち上がり、記録帳を閉じた。
「ですから、今日ここでは採りません。温室にも入りません。明日、作業内容と対価と、記録の公開方法を書面にして広場へ掲示します」
「金で釣る気か」
「働いていただくなら、賃金を払います。無償の協力を当然とは考えません」
ゲルトは返事をせず、背を向けた。
テオも木材を担ぎ直す。去る前に一度だけ、沈んだ温室の屋根を見上げた。
「あれを直すなら、北東の柱から触らない方がいい。見た目より腐ってる」
それだけ言って、ゲルトを追っていく。
温室の外観記録を終えた後、二人は屋敷へ戻った。
二階建ての石造りで、屋根の一部が落ち、雨戸は斜めに傾いている。玄関の扉は湿気を吸って膨らみ、鍵を開けても二人で押さなければ隙間ができなかった。
中から、埃と黴の匂いが流れ出す。入口から見える天井には大きな染みがあり、床板の一部も変色していた。
「内部確認は、建物を見られる方と一緒に行います」
「今夜も麦穂亭ですね」
「安全が確認できるまでは」
アウレリアは扉を施錠し、入口へ封印紐を渡した。署名と日付を入れた立入禁止札も下げ、専門家の確認まで入れない状態にする。建物の持ち主は公爵家でも、崩れた床は身分を見分けてくれない。
協力の約束ではない。
けれど、完全な拒絶でもなかった。
屋敷を離れ、温室脇へ戻ると、アウレリアは木札の位置をもう一度確かめた。
一群目の候補は見つかった。
同時に、数値では測れない不足も見つかった。
村人からの信用は、ほぼゼロだった。
こちらは、校正石で補正することもできない。
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