↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第一章_婚約破棄ではなく卒論提出

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/45

追放先まで馬車で四日

「休息時間まで契約書に入れるのですか」


 春の第1月22日、王立エルデ学院の研究室。


 ルカは差し出された三枚の書類を読み、二枚目の途中で顔を上げた。


「必要ですわ。雇用期間は明日から翌年の春の第1月22日まで。職務は観測、測定、記録の管理および研究補助。使用人ではありません。給与は別紙に定めた額を毎月支払い、旅費と食費はこちらが負担します。住居は個室を用意します」


「そこまでは聞きました」


「研究成果へ名前を載せる順番は、身分ではなく貢献内容で決めます。危険な作業と、根拠なく結果を書き換える指示は拒否できます」


「それもありがたいです。気になっているのは、六時間以上の連続休息を一日に一度、というところです」


「不足ですか?」


「あなたが守れるのか心配しています」


 アウレリアは黙った。


 卒論提出前の自分なら、観測中は例外だと言っただろう。だが、判断を誤らないために休むことも、研究の手順に含めなければならない。


「通常勤務は一日八時間以内。連続観測で延長した場合は、翌日の勤務を短縮する。六時間以上の連続休息は、雇用主にも適用すると追記します」


「ぜひ」


 ルカは妙に満足そうに署名した。


 学院助手としての契約が終了する、22日の午後だった。


 同文の契約書を二通作り、双方が署名して一通ずつ保管する。アウレリアは自分の一通を、屋敷と農場の鍵、公爵印付きの管理命令書、信託を使うための証書とともに鍵付き書類箱へ収めた。


「これで正式に採用です。よろしくお願いします、フェルナー」


「よろしくお願いします、ローゼンベルク嬢」


 握手を交わしてから、二人は部屋の中央を見た。


 予備育成室から運び出した十八鉢と、L4由来の補完用六鉢。合わせて二十四鉢が、通気穴のある木箱へ収められている。鉢と鉢の間には藁と布を詰め、車輪の振動でぶつからないよう固定した。乾燥を避けるため箱の内側には湿らせた布を張り、朝夕に鉢番号、土の湿り気、葉色、箱内の温度と湿度、破損の有無を移送記録へ記す。給水する場合は一定量とし、量と時刻を鉢ごとに残す手順も決めた。


 原記録は防水布で包んだ鍵付き箱。鍵はアウレリアが持つ。照合用の写しは別の鞄。片方の浸水や荷崩れで双方を失わないよう、原記録はアウレリアが乗る馬車へ、写しは標本と器具を運ぶ荷馬車へ分ける。学院には卒論付属資料の認証済みの写しが残っている。


 ルカの個人所有である携帯魔力計と工具、学院から借りた三種類の校正用魔石も、貸出証と一緒に工具箱へ入った。出発前と毎朝に三つの魔石を測り、表示のずれが2.1%から変わっていないことを確かめる。観察帳には表示値と、1.021で割った補正値を併記する。


「本が多すぎませんか」


 ルカが、床に積まれた革鞄を見て言った。


「土壌学、魔法生態学、薬草栽培、建築、それから領地法です。どれを減らせと?」


「衣服を入れる場所は残っていますか」


「衣服は現地でも同じものが着られます。本は代用できません」


「四日後を観察します」



 * * *


 23日の朝、二台の馬車が王都の北門を出た。御者二人のほか、公爵家から旅の間だけ女性従者一人と護衛二人が付いている。三人は現地への引き渡しを終えた翌朝、馬車とともに王都へ戻る予定だった。


 見送りに来たニーナは、布包みをアウレリアへ押しつけた。


「道中のお昼です。厨房の方に教えていただいて、わたしも少し作りました」


「どれがフローレス嬢の作ったものですか」


「形でわかると思います」


 開ける前から不安になる説明だった。


 ニーナは笑い、それから真剣な顔になった。


「追加実験が始まったら、条件を教えてください。今度は使った時刻も、続けた時間も、対象の広さも、自分で書きます」


「祝福を使う実験を行うとは限りません」


「はい。それでも必要なときに呼んでください」


 以前なら、その申し出を遅すぎると退けていた。


 今のニーナに渡せる信用は、まだ小さい。けれど、小さいことと、存在しないことは違う。


「記録用紙を先に送ります」


 アウレリアが答えると、ニーナは何度もうなずいた。


 馬車が動き始める。


 学院の尖塔も、公爵邸の屋根も、やがて春霞の向こうへ隠れた。


 王都近郊の畑は青々としていた。芽吹いた麦が風に波打ち、畦には白や黄色の野花が隙間なく咲いている。


 最初の休憩で、アウレリアは携帯魔力計を持って街道脇へ降りた。


「路肩、畑の縁、林の手前。三地点を測ります」


「休憩は20分です」


「10分で終えます」


「土質も管理歴も違います。比較できますか」


「厳密な比較はできません。道中の予備観察です。天候、時刻、位置、植生を記録し、村での測定値とは分けます」


「なら、僕が時刻を読みます」


 二人で測れば7分で終わった。


 午後にも測ろうとしたところ、御者が馬へ水を飲ませていた。


「5分だけ出発を遅らせてください」


 アウレリアが言うと、ルカが馬の鼻先を示した。


「馬は測定器ではありません。決めた間隔で動かせませんよ」


「5分です」


「今日の宿へ着くのが遅れれば、馬も御者も休息が減ります」


 契約書の文面が脳裏をよぎった。


 雇用主にも適用する。


 馬と御者は契約の対象外だが、だから休ませなくてよいという話にはならない。


「撤回します。次の定時休憩を測定時刻とします」


「改善が早いですね」


「同じ失敗を繰り返すほど暇ではありません」


「そこは素直に成長したと言ってもいいところです」


 言い方が気に入らなかったので、返事はしなかった。


 昼の布包みを開くと、形の整った肉入りパンの中に、一つだけ妙に角張ったものがあった。


 切ってみれば、中身は肉ではなく、刻んだ薬草と蜂蜜だった。


「薬草の選択は悪くありません。糖分も補給できます」


「味の感想は?」


「研究対象外です」


 ルカは笑いながら、自分の肉入りパンを半分差し出した。


 * * *


 二日目、街道の両側から果樹園が減った。


 三日目には、麦の背丈が目に見えて低くなった。空き地の雑草も、王都近郊ほど密ではない。


 休憩地で測った周辺魔力量は、北東へ進むほど低い値を示した。ただし、街道沿いの簡易測定にすぎない。標高も土質も前日の雨量も違う。これだけで一つの原因へ結びつけることはできなかった。


「傾向はありますね」


 ルカが観察帳へ数値を書き込む。


「あります。証明ではありません」


「あなたが先に言うようになりましたね」


「何度も質問されましたから」


 三泊目の宿の食堂で翌日の荷物を整理していたアウレリアは、替えの上着を鞄の底から引き出そうとして、魔法生態学便覧を二冊、床へ落とした。


 向かいの席で観察帳を整理していたルカが拾う。


「本は代用できませんでしたか」


「できませんでした」


「衣服の場所は?」


「不足しました」


「仮説が支持されましたね」


「標本数1で結論を出さないでください」


「では、帰路でも観察します」


 その帰路がいつになるのか、アウレリアにはわからなかった。


 一年後。条件を満たした後。あるいは、村の土を回復させられなかったとき。


 王都を離れるにつれて、追放という言葉は冒険よりも重くなっていた。


 * * *


 26日の夕方、街道は細い坂道へ変わった。


 先に見えたのは、屋根の欠けた小屋だった。


 続いて、板戸を閉ざした家が二軒、三軒。畑には土がむき出しの区画が多く、芽の出ている場所も色が薄い。


 村の中央を流れる水路は浅く、その先の水車は羽根を傾けたまま止まっていた。


 丘の麓には、硝子の半分を失った細長い建物が見える。


 旧温室だろう。


 領地報告書には、温室半壊、水車故障、空き家多数とあった。


 文字は正確だった。


 だが、暮らす人の気配が薄い村の静けさまでは、紙面に記録されていなかった。


「報告書より、ひどいですね」


 ルカが小声で言った。


「ええ」


 否定できなかった。


 二台の馬車が広場へ入ると、宿屋らしい建物の扉が開いた。麦の穂を描いた看板が、片方の鎖だけで風に揺れている。


 腕まくりをした赤褐色の髪の女性が出てきて、馬車と荷箱とアウレリアを順に見た。


「ローゼンベルク公爵家のお嬢様ですか」


「アウレリア・ローゼンベルクです。農場の調査と管理のため、本日から一年滞在します。こちらは研究助手のルカ・フェルナー」


「助手」


 女性の視線が、ルカの質素な外套から、アウレリアの旅用ドレスへ戻る。


「従者ではありません」


「先に訂正するあたり、面倒があったんですね」


 ルカが言う。


「必要な区別です」


 女性は二人を見比べてから、声を立てて笑った。


「私はマルタ。宿屋『麦穂亭』の女将です。村の屋敷は半年も空いていて、今夜から寝られる状態じゃありません。まずはうちへどうぞ」


 赤褐色の髪を布でまとめた女将は、粉のついた前掛けへ手を拭い、腰の鍵束を鳴らした。宿と村の事情を、どちらも預かっている人の音だった。


「屋敷の確認を先に行います」


「日が落ちますよ」


「旧温室も外から状態だけ――」


「六時間の連続休息」


 ルカが契約書の一節を口にした。


 四日間の移動で、馬も御者も疲れている。標本も暗闇で動かすより、施錠できる場所へ一時保管し、明朝確認した方が安全だった。


「……今夜は麦穂亭へ泊まります。標本箱を置ける、風通しがよく施錠できる部屋はありますか」


「使っていない醸造庫なら、高窓も鍵もあります。夕食は豆の煮込み。お湯は桶一杯。注文は明日の朝から聞きます」


「十分です」


 マルタの立ち会いで木箱を醸造庫へ運び、二人で箱数、封、温度と湿度を記録した。扉を施錠し、鍵はアウレリアが預かる。


 そのとき、閉じた窓の隙間から、小さな顔がのぞいた。


 さらに水車小屋の前、井戸の横、畑へ続く道にも人影がある。


 誰も近づいてはこない。


 歓迎されていないのか、警戒されているのか。それもまだ、見ただけでは区別できない。


 アウレリアは夕闇の中に沈む旧温室を見た。


 直せる可能性があります。


 父へそう答えたとき、自分が想像していたのは壊れた建物だった。


 けれど、ここで確かめなければならないのは、建物だけではない。


 土と、植物と、八十三人の暮らし。


 研究室の鉢より、ずっと多くの条件が絡み合っている。


 成功すれば八十三人を一度に救える、とは考えなかった。まず何が壊れ、何がまだ使え、どの選択にどんな危険があるのかを、住民自身が選べる形で返す。それが、この土地で研究を始める最初の目的だった。


「明朝、屋敷と温室を確認します」


「朝食の後にしてくださいね」


 マルタの言葉へ、ルカがうなずく。


 アウレリアも、少し遅れてうなずいた。


 追放先は、観察を始める前から、予定どおりには動いてくれなかった。


お読みいただき、ありがとうございます。




続きが気になりましたら、ブックマークでアウレリアたちの歩みを見守っていただけるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。