条件付き合格と辺境行き
「あなたの論文は、月眠り苔が魔力を放出すると証明していない」
口頭審査の冒頭、ガスパルは穏やかな声でそう告げた。
春の第1月20日、午前10時。
王立エルデ学院魔法植物学科、第二審査室。
長机の向こうには、三人の審査員が座っている。
中央にいる主査は、魔法生態学を専門とするヘルマン・クラウス教授。右には主任教授のガスパル・ヴァルモン。そして左には、昨夜遠方調査から戻ったばかりのベアトリス・ブルーム教授がいた。
ベアトリスは白髪交じりの髪を無造作にまとめ、学院の正装の下へ、泥の落ちきっていない野外靴を履いている。
アウレリアの指導教員だが、助け舟を出してくれるとは限らない。
むしろ、誤った断定をすれば真っ先に切り込んでくる人物だった。
「はい。証明しておりません」
アウレリアは答えた。
ガスパルがわずかに目を細める。
「では、論文の目的を達成できなかったと認めるのだね」
「低魔力土壌へ魔力を放出するという仮説については、可能性を示すに留まりました。一方、高魔力土壌区では、苔の保有魔力量が増加し、周辺魔力量が低下する傾向を一年間観測しています。蓄積に関する仮説は支持されたと考えます」
クラウス主査が眼鏡を押し上げた。
「低魔力土壌区だけが消えた。その時点で、都合のよいデータだけを残したと疑われる可能性は考えたかね」
「考えました。そのため、消失前までの生記録、ルカ・フェルナー助手が保管していた写し、封鎖後の申請時刻、証拠保全記録を付属資料へ収めました。原本と写しの差異はありません」
「L4を六鉢へ分けた実験は?」
「独立した六標本ではありません。同一個体群由来の培養片を用いた、探索的な補完観察です。元の低魔力土壌区の再現とは扱っておりません」
「祝福で作った土には、早芽豆の根が残っている」
「はい。土壌を攪乱せず地上部だけを切ったためです。残存根が魔力変化へ影響した可能性を、限界として記載しました」
質問が一つ来るたび、できなかったことが積み上がっていく。
以前のアウレリアなら、反論できる材料を探しただろう。
けれど、不足を言葉で覆っても、失われた鉢は戻らない。ここで守るべきものは自尊心ではなく、記録の境界だった。
ガスパルが付属資料を閉じる。
「ローゼンベルク君。君は優秀な学生だ。だからこそ尋ねたい。結論を出せない研究を、卒業論文として認める価値があるだろうか」
「あります」
「理由は?」
「どの条件が不足し、何を追加すれば確かめられるかを示せるからです」
アウレリアは用意した追加実験案を審査員へ配った。
「異なる採取地から独立した月眠り苔を最低六群確保します。低魔力土壌は祝福だけに頼らず、地脈魔力が低く土質の近い地点を選びます。水分量など調整可能な条件をそろえ、少なくとも一成長期、同じ器具と手順で観測します」
クラウス主査が資料へ目を落とす。
「一成長期とは?」
「春から秋までです。可能なら一年間、冬の休眠期も含めます」
「一度だけ発光量が増えても、土地が回復したとは言えません。農家が一時的な変化を治癒と誤認し、翌年の作付けを危険にさらさないためにも、生育期と休眠期を越えて追う必要があります」
「学院の温室で行うつもりかね」
「現時点では、場所を確保できておりません」
正直に答えた。
クラウスの眉が上がる。
「計画だけなら、誰にでも書ける」
「おっしゃるとおりです。ですから、計画を実施し、記録を提出する機会をいただきたいと考えています」
短い沈黙が落ちた。
そこで初めて、ベアトリスが口を開いた。
「アウレリア。お前の論文で、最も価値があるものは何だ」
敬称すらない。入学時から変わらない呼び方だった。
「一年分の観測記録です」
「違う」
即座に切られた。
「では、高魔力土壌区で見られた――」
「それも違う」
アウレリアは考えた。
美しい結果。新しい仮説。珍しい植物。
どれも、ベアトリスが求める答えではない。
「……何がわからないかを、正確に示したことです」
ベアトリスは、ようやく口の端を上げた。
「及第点だ。野外では、思いどおりの標本も、都合のよい天気も用意されない。わからないことを見失わない者だけが、次の記録を持ち帰れる」
ガスパルが静かに言う。
「だが、卒業要件は教育の基準だ。将来性だけで不足を免除するべきではない」
「免除しろとは言っていないよ」
ベアトリスは追加実験案を指で叩いた。
「条件を付ければいい。一年以内に、独立した六群を用いた一成長期以上の観測記録を提出させる。達成できなければ、合格を取り消す」
「卒業後の学生に、学院外で研究を続けさせるのですか」
「研究の苗は学院の塀の中にしか生えないのかい?」
ガスパルは答えなかった。
クラウス主査が二人を制し、アウレリアを見る。
「審査員で協議する。廊下で待ちなさい」
* * *
結果が出たのは、30分後だった。
「条件付き合格とする」
クラウス主査が正式な審査票を読み上げた。
「一年以内に、異なる採取地から得た独立六群以上の月眠り苔を用い、低魔力土壌下で一成長期以上観測すること。実験条件、欠測、環境変化を含む全記録を追加報告として提出し、再審査を受けなさい」
「承知しました」
「容易な条件ではない。場所も費用も、自分で確保する必要がある」
「はい」
「それでも受けるかね」
「受けます」
迷う理由はなかった。
審査室を出ると、廊下の窓から春の日差しが差し込んでいた。
ルカとニーナが、長椅子から同時に立ち上がる。
「どうでした?」
ニーナが尋ねる。
「条件付き合格です。一年以内に、独立六群で一成長期以上の追加実験を行います」
「場所は?」
ルカの問いは現実的だった。
「これから探します」
答えたところで、学院の制服を着た使者が歩み寄ってきた。
「ローゼンベルク公爵令嬢。ご実家から迎えの馬車が到着しております。審査後、ただちに帰邸するようにとのことです」
婚約破棄の公表から5日。
研究以外の問題が、待つのをやめたらしい。
* * *
ローゼンベルク公爵邸の執務室で、父オスカーは三通の書類を机へ並べた。
四十八歳。銀灰色の髪と深緑の瞳は娘と同じだが、表情はアウレリアよりさらに動かない。
一通目は、王家から届いた婚約解消に関する協議書。
二通目は、学院から届いた条件付き合格の通知。
三通目は、ニーナが学生掲示板へ出した説明文の写しだった。
「王太子殿下の行動は軽率だった」
オスカーは最初にそう言った。
「だが、お前が人前で相手を追い詰め、敵を増やしてきたことも事実だ」
「承知しています」
「以前なら反論したな」
「反論できる箇所はあります」
「そこは変わっていないか」
父がわずかに息を吐いた。
「婚約については、陛下と協議する。正式に解消されるまで、お前から王太子殿下へ接触するな」
「はい」
「学院の条件も確認した。独立した苔を六群、低魔力土壌で一成長期だったな」
父が研究条件まで読んでいることに、アウレリアは少し驚いた。
オスカーは三通目の下から、古い領地報告書を取り出した。
「公爵領北東部のミューレ村を知っているか」
「名前だけは。以前、魔法薬草を栽培していた村です」
「三年前から収穫量が落ち続けている。領地管理官は土壌の地脈魔力低下を報告してきた。水車と旧温室も壊れ、今年で薬草農場を閉じる予定だった」
低魔力土壌。
旧温室。
アウレリアの意識が、その二語へ引かれる。
「お前に、ミューレ農場の調査と1年間の管理を命じる」
「謹慎ですか」
「社交界には、そう説明する」
「実際には?」
「学院の条件を満たせるか、自分で確かめろ」
オスカーは報告書を差し出した。
「屋敷と農場は貸す。追加の公爵家資金は出さない。お前の祖母が残した信託の範囲で、人を雇い、研究し、農場を維持しろ。成果が出なくても、一年で管理権は返してもらう」
「十分です」
「まだ現地も見ていない」
「低魔力土壌と温室があります」
「壊れた温室だ」
「直せる可能性があります」
父はしばらく娘を見つめた。
「三日後に出発しろ」
「承知しました」
* * *
翌朝、アウレリアが学院の研究室で荷造りをしていると、ルカが大きな道具箱を持って現れた。
机には、追加研究用の標本搬出許可が届いていた。予備育成室の十八鉢と補完用六鉢はミューレ村へ運べるが、証拠であるL4本体と鉢片は学院の安全管理室へ残す条件だった。
「ミューレ村へ行くそうですね」
「情報が早いですね」
「ブルーム教授から聞きました。公爵家から学院へ、追加研究の実施場所と標本搬出について連絡があったそうです」
彼は机の上へ道具箱を置いた。中には個人所有の携帯魔力計と工具、学院から貸出承認を得た校正用魔石、記録用紙が収まっている。
「僕も行きます」
「旅行ではありません。王都から馬車で四日かかる辺境です」
「知っています」
「学院の助手職は?」
「二十二日で契約が終わります。更新の話はありません」
「給金は学院より下がります。住居の状態も不明です」
「その条件で、月眠り苔を測れる助手に心当たりがありますか」
アウレリアは考えた。
一人しかいない。
「ありません」
「では、雇ってください」
「辺境へ行く理由は、仕事だけですか」
尋ねると、ルカは少しだけ間を置いた。
「確かめたいことがあります」
「何を?」
「まだ、仮説の段階です」
それ以上は答えなかった。
アウレリアは追及したかったが、仮説を証拠なしに話したくない気持ちは理解できる。
「正式な雇用条件を書面にします。読んでから署名してください」
「採用ですか」
「条件への合意後です」
「相変わらず形式を大切にしますね」
「大切ですわ」
アウレリアは領地報告書を開いた。
人口八十三人。宿屋一軒。市場は月に一度。水車は故障。温室は半壊。
明るい材料は、ほとんどない。
だからこそ、調べることはいくらでもあった。
「二日後に出発します。馬車で四日です」
「間に合うよう、荷造りします」
婚約者の隣に立つ未来は消えかけている。
代わりに現れたのは、壊れた温室と、弱った土と、地図の端にある小さな村だった。
アウレリアは初めて、追放という言葉を少しだけ楽しみに思った。
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