↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第一章_婚約破棄ではなく卒論提出

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/45

卒論提出まであと一時間

 論文には”できたこと”を書く。


 同じくらい”できなかったこと”も書く。


「『月眠り苔は低魔力土壌へ蓄積魔力を放出することが証明された』――この一文は削除してください」


 ルカの指が、アウレリアの卒論草稿を叩いた。


 春の第一月十七日、午前十時。


 提出期限まで、二十六時間。


 予備育成室の記録机には、実験記録、観測表、学院への申請書、証拠保全記録が積み上がっていた。


 アウレリアは問題の一文を読み返す。


「低魔力土壌区では、発光量の低下と同時に周辺魔力量の上昇が観測されています」


「六鉢すべてが消え、最終日のデータもありません」


「一年前から同じ傾向です」


「相関があることと、苔が魔力を放出したことの証明は別です。苔以外の要因で周辺魔力量が上昇した可能性を除けていません」


 正しい指摘だった。


 アウレリアは「証明された」へ二本線を引き、「可能性が示された」と書き直す。


「弱くなりました」


「正確になりました」


「悔しいです」


「それは結構」


 ルカは次の頁をめくった。


 卒論の結果は、三つに分けた。


 一つ目は、温室で一年間観測した二十四鉢の記録。ただし、温室での最終予定夜だった15日の観測は封鎖で欠け、低魔力土壌区六鉢は記録なく持ち出された。うちL4は屋外で発見されたが、五鉢は所在不明のままである。


 また、同じ一年分データに含まれる祝福使用後の探索的土壌区六鉢は、祝福時の細かな条件が不足しているため、再現性の証明には用いない。


 二つ目は、予備育成室へ移した十八鉢の記録。温度、湿度、周辺魔力量が変わったため、以前の値とは別表にした。応急修理した携帯魔力計については、生の表示値、補正方法、補正後の値をすべて載せる。


 三つ目は、祝福なし、十秒、二十秒を各三鉢で比較した予備実験と、そこで選んだ二十秒条件の低魔力土壌へL4由来の培養片を移した短期補完実験。


 六鉢に分けても、苔は同じ一鉢から採ったものだ。独立した六標本とは扱わない。早芽豆の根が残ること、屋外に放置された時間、移植による攪乱も明記した。


「これでは、失敗の報告書ですわね」


「失敗を隠した成功報告より、役に立ちます」


 アウレリアは返事をせず、草稿の余白へ不足条件を書き加えた。


 次に同じ実験をする者が、何を直すべきかわかるように。


「ローゼンベルク様」


 予備育成室の扉が開き、ニーナが顔をのぞかせた。


 片手には自分の観察帳。もう片方には、細かな字で埋まった一枚の紙を持っている。


「少し、お時間をいただけますか」


「15分なら」


「30分」


 ルカが横から訂正した。


「昨日、休息も予定に入れると決めましたよね」


「休息と来客は別です」


「予定外の作業という点では同じです」


 アウレリアは時計を見て、ペンを置いた。


「30分です」


 ニーナは紙を差し出した。


「昨日の祝賀会について、わたしが知っていることを書きました。学生掲示板へ出して、学生代表の方にも読んでもらおうと思います」


 そこには、飾り気のない言葉が並んでいた。


 アウレリアに腕をつかまれたのは、比較実験へ祝福を使おうとしたのを止められたときだったこと。


 花を撤去したのは、隣の鉢へ根が入り込んだからであること。


 人前で厳しく言われて傷ついたのは事実だが、婚約破棄を頼んだことはなく、アウレリアが自分を陥れようとしたとは考えていないこと。


 そして、周囲の噂を怖くて訂正できなかったこと。


「わたくしに確認させる必要はありません」


「でも、間違っていたら」


「あなたが見聞きし、感じたことを書くのでしょう。わたくしに都合よく直せば、あなたの言葉ではなくなります」


 ニーナは紙を見下ろした。


「一つだけ、研究上の事実を確認してください」


「どこですか」


「『根が隣の鉢へ入り込んだ』とありますが、正確には根が排水孔を通り、隣の鉢の土へ侵入しました」


「……そこまで書きますか?」


「事実ですので」


 ニーナが困ったように笑う。


「では、書き足します」


「フローレス嬢」


 アウレリアは、観察帳を抱く彼女を見る。


「噂を訂正すれば、今度はあなたが殿下を悪く言ったと責められるかもしれません」


「怖いです」


 ニーナは正直に答えた。


「でも、怖いから黙って、それで誰かが悪い人にされるのは、もう嫌なんです」


 強い言葉ではなかった。声も少し震えている。


 それでも、祝賀会で途中までしか言えなかった言葉を、今度は自分で最後まで選んでいた。


「承知しました」


 アウレリアは紙を返す。


「ありがとうございます」


 ニーナは頭を下げ、掲示板へ向かった。


 扉が閉じる。


「許したんですか」


 ルカが尋ねる。


「まだ、わかりません」


「そうですか」


「ただ、信じられる記録が一つ増えたとは思います」


 今度のルカは、訂正しなかった。


 * * *


 十七日の夜、アウレリアとルカは、移送した十八鉢と補完用六鉢を決めた時刻に観測した。補完用の月眠り苔も淡く光った。


 発光はそろっていない。分割した培養片の大きさに差があり、移植直後の影響もある。


 それでもアウレリアたちは、決めた時刻に生の値を記録し、補正値を計算した。


 その数字だけで、結論を変えることはしない。


 観測後、アウレリアとルカは交代で三時間ずつ眠った。アウレリアは日付が変わってから再び草稿へ向かう。


 序論。方法。結果。考察。限界。今後必要な実験。


 頁を重ねるたび、月眠り苔を万能な植物のように書いた文が減っていった。


 土地を治すと断言できなくても、効かなかった条件と、乾燥や広がりすぎの危険を示すことはできる。それだけでも、農家が効果のない苔へ金と季節を費やすことや、急いで畑へ広げることを止められる。


 乾燥に弱い。増えすぎれば他の植物を覆う。


 土地の回復には長い時間がかかる。今回の実験だけでは、農地で同じ働きをするか確認できない。


 それでも、弱った土壌で何かが起きている。


 調べる価値はある。


 その二つを、同じ論文へ書いた。


 * * *


 十八日、午前十一時。


 卒論提出まで、あと一時間。


 学院の複写室で、三部目の論文が綴じられた。


 正本一部。審査用二部。実験記録と申請書、証拠保全記録の写しを収めた差し込み式の付属資料が一部。


 アウレリアは頁番号を最初から確認する。


「百十二、百十三、百十四……」


「僕が確認しました」


「確認者は多いほうがいいです」


「では、僕は付属資料をもう一度見ます」


 ルカが書類の束を開く。


 11時20分。


 ニーナが複写室へ駆け込んできた。


「掲示しました。学生代表の方にも、受け取ってもらえました」


「そうですか」


「それからこれを」


 ニーナは自分の観察帳の写しを差し出した。祝福を使った時刻、実時間、土の条件、体調が記され、末尾には本人の署名と日付がある。


 署名したペン先は、紙へ触れたまま一度止まった。自分の力が土を消耗させた可能性を、自分の名で残す重さを、今になって感じているのだろう。


「付属資料へ入れてください。わたしが自分で書いた記録です」


 アウレリアは最終頁へ目を通す。


「受領します」


 あらかじめ空けていた資料番号へ写しを差し込み、付属資料目録と通し番号を更新する。アウレリアとルカが、ずれのないことを一度ずつ確認した。


 11時31分。


 三人は複写室を出た。


 提出窓口までは、歩いて九分。走れば三分だが、綴じた論文を転んで散らす危険を冒す必要はない。


「急ぎましょう」


「走らずにです」


 ルカが付け加える。


 アウレリアは反論せず、できる限り速く歩いた。


 11時41分。


 提出窓口の前には、締切直前の学生が列を作っていた。


「これは想定外です」


「締切直前に学生が集まるのは、十分想定できたと思います」


 ルカの指摘が痛い。


 列は少しずつ進む。


 11時52分。


 アウレリアの前には、まだ二人いる。


 11時56分。


 前の学生が、署名欄を書き忘れて窓口で慌てている。


 11時58分。


「次の方」


 アウレリアは窓口へ進み、三部の卒論と付属資料を差し出した。


 係員が氏名、学科、題目、部数を確認する。


「『月眠り苔による地脈魔力の蓄積および低魔力土壌下における変化』。アウレリア・ローゼンベルク。確かに受領しました」


 正午の鐘が鳴る二分前。


 受領印が、紙の上へ落とされた。


 係員から提出日時入りの受領証を受け取り、アウレリアは書類入れの内側へしまった。


 その音を聞いて、アウレリアはようやく息を吐いた。


 婚約は失いかけた。


 標本は盗まれた。


 測定器は壊れた。


 論文には、証明できなかったことがいくつも残った。


 それでも、書かなかった嘘は一つもなかった。


お読みいただき、ありがとうございます。




続きが気になりましたら、ブックマークでアウレリアたちの歩みを見守っていただけるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。