卒論提出まであと一時間
論文には”できたこと”を書く。
同じくらい”できなかったこと”も書く。
「『月眠り苔は低魔力土壌へ蓄積魔力を放出することが証明された』――この一文は削除してください」
ルカの指が、アウレリアの卒論草稿を叩いた。
春の第一月十七日、午前十時。
提出期限まで、二十六時間。
予備育成室の記録机には、実験記録、観測表、学院への申請書、証拠保全記録が積み上がっていた。
アウレリアは問題の一文を読み返す。
「低魔力土壌区では、発光量の低下と同時に周辺魔力量の上昇が観測されています」
「六鉢すべてが消え、最終日のデータもありません」
「一年前から同じ傾向です」
「相関があることと、苔が魔力を放出したことの証明は別です。苔以外の要因で周辺魔力量が上昇した可能性を除けていません」
正しい指摘だった。
アウレリアは「証明された」へ二本線を引き、「可能性が示された」と書き直す。
「弱くなりました」
「正確になりました」
「悔しいです」
「それは結構」
ルカは次の頁をめくった。
卒論の結果は、三つに分けた。
一つ目は、温室で一年間観測した二十四鉢の記録。ただし、温室での最終予定夜だった15日の観測は封鎖で欠け、低魔力土壌区六鉢は記録なく持ち出された。うちL4は屋外で発見されたが、五鉢は所在不明のままである。
また、同じ一年分データに含まれる祝福使用後の探索的土壌区六鉢は、祝福時の細かな条件が不足しているため、再現性の証明には用いない。
二つ目は、予備育成室へ移した十八鉢の記録。温度、湿度、周辺魔力量が変わったため、以前の値とは別表にした。応急修理した携帯魔力計については、生の表示値、補正方法、補正後の値をすべて載せる。
三つ目は、祝福なし、十秒、二十秒を各三鉢で比較した予備実験と、そこで選んだ二十秒条件の低魔力土壌へL4由来の培養片を移した短期補完実験。
六鉢に分けても、苔は同じ一鉢から採ったものだ。独立した六標本とは扱わない。早芽豆の根が残ること、屋外に放置された時間、移植による攪乱も明記した。
「これでは、失敗の報告書ですわね」
「失敗を隠した成功報告より、役に立ちます」
アウレリアは返事をせず、草稿の余白へ不足条件を書き加えた。
次に同じ実験をする者が、何を直すべきかわかるように。
「ローゼンベルク様」
予備育成室の扉が開き、ニーナが顔をのぞかせた。
片手には自分の観察帳。もう片方には、細かな字で埋まった一枚の紙を持っている。
「少し、お時間をいただけますか」
「15分なら」
「30分」
ルカが横から訂正した。
「昨日、休息も予定に入れると決めましたよね」
「休息と来客は別です」
「予定外の作業という点では同じです」
アウレリアは時計を見て、ペンを置いた。
「30分です」
ニーナは紙を差し出した。
「昨日の祝賀会について、わたしが知っていることを書きました。学生掲示板へ出して、学生代表の方にも読んでもらおうと思います」
そこには、飾り気のない言葉が並んでいた。
アウレリアに腕をつかまれたのは、比較実験へ祝福を使おうとしたのを止められたときだったこと。
花を撤去したのは、隣の鉢へ根が入り込んだからであること。
人前で厳しく言われて傷ついたのは事実だが、婚約破棄を頼んだことはなく、アウレリアが自分を陥れようとしたとは考えていないこと。
そして、周囲の噂を怖くて訂正できなかったこと。
「わたくしに確認させる必要はありません」
「でも、間違っていたら」
「あなたが見聞きし、感じたことを書くのでしょう。わたくしに都合よく直せば、あなたの言葉ではなくなります」
ニーナは紙を見下ろした。
「一つだけ、研究上の事実を確認してください」
「どこですか」
「『根が隣の鉢へ入り込んだ』とありますが、正確には根が排水孔を通り、隣の鉢の土へ侵入しました」
「……そこまで書きますか?」
「事実ですので」
ニーナが困ったように笑う。
「では、書き足します」
「フローレス嬢」
アウレリアは、観察帳を抱く彼女を見る。
「噂を訂正すれば、今度はあなたが殿下を悪く言ったと責められるかもしれません」
「怖いです」
ニーナは正直に答えた。
「でも、怖いから黙って、それで誰かが悪い人にされるのは、もう嫌なんです」
強い言葉ではなかった。声も少し震えている。
それでも、祝賀会で途中までしか言えなかった言葉を、今度は自分で最後まで選んでいた。
「承知しました」
アウレリアは紙を返す。
「ありがとうございます」
ニーナは頭を下げ、掲示板へ向かった。
扉が閉じる。
「許したんですか」
ルカが尋ねる。
「まだ、わかりません」
「そうですか」
「ただ、信じられる記録が一つ増えたとは思います」
今度のルカは、訂正しなかった。
* * *
十七日の夜、アウレリアとルカは、移送した十八鉢と補完用六鉢を決めた時刻に観測した。補完用の月眠り苔も淡く光った。
発光はそろっていない。分割した培養片の大きさに差があり、移植直後の影響もある。
それでもアウレリアたちは、決めた時刻に生の値を記録し、補正値を計算した。
その数字だけで、結論を変えることはしない。
観測後、アウレリアとルカは交代で三時間ずつ眠った。アウレリアは日付が変わってから再び草稿へ向かう。
序論。方法。結果。考察。限界。今後必要な実験。
頁を重ねるたび、月眠り苔を万能な植物のように書いた文が減っていった。
土地を治すと断言できなくても、効かなかった条件と、乾燥や広がりすぎの危険を示すことはできる。それだけでも、農家が効果のない苔へ金と季節を費やすことや、急いで畑へ広げることを止められる。
乾燥に弱い。増えすぎれば他の植物を覆う。
土地の回復には長い時間がかかる。今回の実験だけでは、農地で同じ働きをするか確認できない。
それでも、弱った土壌で何かが起きている。
調べる価値はある。
その二つを、同じ論文へ書いた。
* * *
十八日、午前十一時。
卒論提出まで、あと一時間。
学院の複写室で、三部目の論文が綴じられた。
正本一部。審査用二部。実験記録と申請書、証拠保全記録の写しを収めた差し込み式の付属資料が一部。
アウレリアは頁番号を最初から確認する。
「百十二、百十三、百十四……」
「僕が確認しました」
「確認者は多いほうがいいです」
「では、僕は付属資料をもう一度見ます」
ルカが書類の束を開く。
11時20分。
ニーナが複写室へ駆け込んできた。
「掲示しました。学生代表の方にも、受け取ってもらえました」
「そうですか」
「それからこれを」
ニーナは自分の観察帳の写しを差し出した。祝福を使った時刻、実時間、土の条件、体調が記され、末尾には本人の署名と日付がある。
署名したペン先は、紙へ触れたまま一度止まった。自分の力が土を消耗させた可能性を、自分の名で残す重さを、今になって感じているのだろう。
「付属資料へ入れてください。わたしが自分で書いた記録です」
アウレリアは最終頁へ目を通す。
「受領します」
あらかじめ空けていた資料番号へ写しを差し込み、付属資料目録と通し番号を更新する。アウレリアとルカが、ずれのないことを一度ずつ確認した。
11時31分。
三人は複写室を出た。
提出窓口までは、歩いて九分。走れば三分だが、綴じた論文を転んで散らす危険を冒す必要はない。
「急ぎましょう」
「走らずにです」
ルカが付け加える。
アウレリアは反論せず、できる限り速く歩いた。
11時41分。
提出窓口の前には、締切直前の学生が列を作っていた。
「これは想定外です」
「締切直前に学生が集まるのは、十分想定できたと思います」
ルカの指摘が痛い。
列は少しずつ進む。
11時52分。
アウレリアの前には、まだ二人いる。
11時56分。
前の学生が、署名欄を書き忘れて窓口で慌てている。
11時58分。
「次の方」
アウレリアは窓口へ進み、三部の卒論と付属資料を差し出した。
係員が氏名、学科、題目、部数を確認する。
「『月眠り苔による地脈魔力の蓄積および低魔力土壌下における変化』。アウレリア・ローゼンベルク。確かに受領しました」
正午の鐘が鳴る二分前。
受領印が、紙の上へ落とされた。
係員から提出日時入りの受領証を受け取り、アウレリアは書類入れの内側へしまった。
その音を聞いて、アウレリアはようやく息を吐いた。
婚約は失いかけた。
標本は盗まれた。
測定器は壊れた。
論文には、証明できなかったことがいくつも残った。
それでも、書かなかった嘘は一つもなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
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