雑草にも名前があります
応急修理された携帯魔力計は、正しい値より2.1パーセント高く示した。
低、中、高の異なる既知値を持つ三つの校正用魔石を測っても、ずれの割合は同じだった。
「一定のずれなら、補正できます」
ルカは修理箇所と誤差を記録し、携帯魔力計の側面へ赤い札を結んだ。
『応急修理品。表示値を1・02一で除し、補正値とすること』
春の第1月16日、午後8時。
アウレリアたちは補完用土壌の残り三鉢を作った。六鉢すべての早芽豆は地上部を同じ高さで切り、根を抜かずに残した。元の低魔力土壌とは異なる、残存根を含む独立した補完条件として記録する。
9時には、予備育成室で月眠り苔十八鉢の観測を開始した。
温室時代とは環境が違う。修理した測定器にも補正が必要だ。表示された生の値と補正後の値を両方残し、以前の観測とは別表へ記録する。
ニーナは体調記録を終えると、学生寮へ戻った。アウレリアとルカも、その後は交代で四時間ずつ眠った。
眠れたのは四時間ほど。それでも一時間の仮眠だけで迎えた昨日の朝より、頭はずっと軽かった。
17日、午前6時。
アウレリアとルカは、学院の北庭園に立っていた。
「月眠り苔は、直射日光を嫌います。水分を含んだ石壁か、木の根元を探します」
「庭園の植生記録では、北側の旧噴水周辺に苔類が多いようです」
ルカが学院の庭園図を広げる。
二人は手袋、採取袋、小瓶、携帯魔力計を用意していた。見つけてもすぐ採らず、位置、面積、周辺環境を記録してから、庭園管理室へ許可を求める。
月眠り苔は珍しい植物ではない。
珍しくないからこそ、学院の正式な植物目録には詳しい分布が載っていなかった。花を咲かせる希少植物には番号付きの札が立つ一方、石の隙間に生える苔は「雑草類」とまとめられている。
「こちらにはありません」
旧噴水の周囲を一周して、アウレリアは言った。
石壁の裏、排水溝、常緑樹の根元。
湿った場所はすべて調べたが、見つかるのは別種の苔ばかりだった。
ルカが懐中時計を見る。
「7時までに見つからなければ、一度戻りましょう」
「庭園図では、ここが最も可能性の高い場所です」
「その庭園図は、いつ更新されたものですか」
図の隅を見る。
「8年前です」
「植物には、図面を守る義務がありませんね」
反論できない。
そのとき、箒で石畳を掃く音が聞こえた。
灰色の作業着を着た女性が、落ち葉を大きな籠へ集めている。五十代くらいだろうか。日に焼けた手で長い箒を扱い、二人の足元も遠慮なく掃いた。
「お嬢様、そこに立たれると、葉っぱが取れませんよ」
「失礼しました」
アウレリアが退くと、女性は手早く落ち葉を集めた。
ルカが庭園図を畳む。
「少し伺ってもいいですか。この庭で、夜に青白く光る苔を見たことはありませんか」
「夜灯りのことかい?」
女性はすぐに答えた。
アウレリアは顔を上げる。
「月眠り苔です。葉は細かな鱗状で、乾燥時には灰白色になり、地脈魔力を――」
「先生方は、そう呼ぶんでしょうね。あたしたちは夜灯りって呼んでますよ」
「どこに生えていますか」
「"生えていた"なら旧噴水の裏。でも、去年の夏に排水路を直してから乾いちまってね。今は東の洗い場の陰に少しあるよ」
8年前の図面には、東の洗い場自体が載っていない。
「毎日、確認しているのですか」
「毎朝ここを掃くんだから、嫌でも見ますよ。急に増えたら、排水が詰まっていないか見る。消えたら、水がきちんと流れてきているか確かめる。便利な草さ」
アウレリアは手帳を開いた。
「お名前を伺えますか」
「ドロテアです。庭の掃除をして15年になります」
「ドロテアさん。東の洗い場まで案内をお願いできますか」
「いいけど、その前に聞かせてくださいな」
ドロテアは箒の柄へ両手を置いた。
「あんたたちは、夜灯りを抜くつもりかい?」
「許可を得て、必要最小限を採取する予定です」
「全部は持っていかないでくださいよ。暗いうちに水を使う人の足元を照らしてくれるんだ」
アウレリアは返事に一拍遅れた。
月眠り苔の発光は弱く、照明として研究された記録はない。けれど、暗闇に慣れた目なら、濡れた石の縁を見分ける助けにはなるのかもしれない。
「必要な面積を測り、回復できる量だけ採取します。採取後の経過も確認します」
「なら、案内しますよ」
ドロテアは満足そうにうなずいた。
歩きだした彼女のあとを追いながら、アウレリアは植物目録の『雑草類』という文字を思い出す。
「雑草にも、名前があるのですね」
独り言のつもりだった。
ドロテアが振り返る。
「どんな草にも名前はありますよ。偉い人が知らないだけでね」
その言葉を、アウレリアは手帳へ書き留めた。
* * *
東の洗い場は、厨房棟の裏手にあった。
屋根から落ちる水を受ける石槽の陰に、灰白色の苔が手のひら二枚分ほど広がっている。
携帯魔力計を近づけると、補正後の値が月眠り苔の範囲を示した。葉の形も、アウレリアが育ててきたものと一致する。
「月眠り苔です」
「採取元は確保できそうですね」
ルカが分布範囲を測る。
アウレリアは採取許可の申請用紙へ、ドロテアの名前と「夜間通行の目印として利用」と記入した。
研究材料としか見ていなければ、すべて採りかねなかった。
「そういえば」
ドロテアが石槽の脇に箒を立てかけた。
「昨日、これと同じ草が生えた鉢を拾いましたよ」
アウレリアとルカが同時に振り返る。
「どこでですか」
「旧噴水から温室裏へ抜ける小道。縁が割れて、土がこぼれてた。誰かが捨てたんだと思って、庭園管理小屋の軒下へ移しました」
「何時頃ですか」
「夕方の鐘が六つ鳴る少し前だったね」
15日の午後6時前。
ルカが最後に低魔力土壌区を確認した午後6時より、あとだ。
二人はドロテアに案内され、庭園管理小屋へ急いだ。
軒下の木箱に、ひびの入った素焼き鉢が置かれている。中の土は半分ほど失われていたが、青銀色の苔は乾ききらずに残っていた。
鉢の側面には、泥で汚れた白い札が貼られている。
アウレリアは触れずにしゃがみ込んだ。
「L4」
低魔力土壌区の第四鉢。
消えた六鉢の一つだった。
ルカが周囲と鉢を撮影用魔石へ記録する。アウレリアはドロテアの証言を時刻とともに書き取った。
二人は鉢を庭園管理小屋から動かさないまま、安全管理官を呼びに行った。
午前7時半。
安全管理官は鉢、木箱、周囲の状態を記録し、封鎖温室で見つかった鉢片との形状を比較した。
欠けた部分が、ぴたりと合った。
「証拠として鉢全体を預かります」
「苔は生きています。密閉したままでは、乾燥か蒸れで状態が変わります」
アウレリアは申し出た。
「証拠写真と重量測定のあと、管理官立会いで一部を培養用に分けられませんか。採取量と移植先はすべて記録します」
安全管理官は少し考え、条件付きで認めた。
鉢、残った土、再鑑定用の苔は通気孔付きの証拠箱へ収め、開口部に改竄防止の封をする。苔の端から一定量だけを切り分け、六つの補完用土壌へ等分する。作業は管理官とドロテアの立会いで行う。
「元の六鉢が戻ったことにはなりません」
ルカが確認する。
「六鉢へ分けても、同じ一鉢から採った培養片です。六つの独立標本としては扱えません」
「もちろんです。L4由来の培養片として記録します。屋外へ放置された時間、分割した量、早芽豆の根が残ること、継続データを失ったこともすべて書きます」
それでも、研究を続ける材料は手に入った。
アウレリアはドロテアへ向き直る。
「ありがとうございました。あなたが毎日庭を見ていなければ、見つかりませんでした」
「掃除屋が見てるものなんて、先生方は気にしませんからね」
「今後は、気にします」
即答すると、ドロテアは少し驚き、それから笑った。
午前九時。予備育成室へ戻ったアウレリアは、ガスパル宛ての回答書を開いた。
卒論題目変更の提案には、感謝する。
しかし、月眠り苔の研究を継続する。
標本消失と条件変更を隠さず、得られた範囲の結果を提出する。
そう書いて署名した。
失われた一年は戻らない。見つかった一鉢も、欠けたデータを埋める奇跡にはならない。
それでも、ありふれた苔が土地の魔力の急な減少を和らげるなら、価値は卒業論文一冊で終わらない。不作のたびに強い魔法へ頼る前に、畑を休ませるか、作物を替えるか、苔を管理して使えるかを選ぶ材料になる。
その可能性と、使ってはいけない条件の両方を確かめる。それが、目立たない苔を一年追い続けた理由だった。
それでも、問いまで捨てる理由にはならなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
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