徹夜に身分は関係ありません
携帯魔力計の針が、二度震えた。
嫌な音がした。
予備育成室で、補完用に用意した四鉢目の祝福前の値を測っていたルカは、無言で装置を持ち上げた。
「フェルナー?」
「動かさないでください」
「動かしているのはあなたです」
「ローゼンベルク嬢は、息を止めていてください」
「なぜです」
「話しかけられると、僕が装置を投げたくなるからです」
春の第1月16日、午後2時。
卒業論文の提出期限まで、46時間。
ニーナの祝福で補完用の低魔力土壌を作り始めてから、1時間ほどが経っていた。
21秒間の祝福を一組に使うたび、15分休む。顔色、脈、手の震えを確かめ、土壌と室内の魔力量を三回ずつ測る。
最初の三鉢を一組として作り終え、次の三鉢の祝福前測定へ入ったところだった。
慎重に進めても、測定回数は増える。
昨夜から働き続けていた携帯魔力計は、四鉢目の二回目で限界を迎えたらしい。
ルカが机へ置き、側面の小さな留め金を外す。銀色の蓋の下には、髪の毛ほど細い感応線と、目盛りを動かす青い魔石が収まっていた。
「感応線が切れています」
「直せますか」
「予備線があれば」
「ありますか」
「ありません」
アウレリアは壁の時計を見た。
「では、器具庫から取ってきてください。その間に、残り三鉢へ祝福を使います。戻ったら測定と計算を済ませ、今夜9時の観測前に月眠り苔の採取元も探しましょう」
ルカは返事をしなかった。
「フェルナー?」
「僕に腕が何本あるように見えます?」
「二本です」
「一日は何時間ですか」
「24時間です」
「公爵令嬢に命じられると、どちらかが増える仕組みでしたか」
アウレリアは眉を寄せた。
「命令ではありません。必要な作業を申し上げただけです」
「では、優先順位を決めてください」
「すべて必要です」
「それは優先順位ではありません」
いつもと同じ静かな口調だった。けれど、琥珀色の瞳には隠しきれない疲れがある。
ニーナが二人の間で、おろおろと視線を動かした。
「わたし、器具庫へ行きましょうか」
「フローレス嬢には、祝福後の休息が必要です」
「ローゼンベルク嬢にも、徹夜後の休息が必要です」
ルカが即座に返す。
「わたくしは問題ありません」
「先ほど、土の重量を250グラムと書く欄へ、2500グラムと記入しました」
「訂正しました」
「僕が指摘したからです」
十倍。
普段なら、決して見落とさない間違いだった。
背中へ冷たい汗がにじんだ。このまま正しいつもりで進めば、自分の一行のために、ニーナの体力もルカの測定時間も無駄にする。
アウレリアは記録用紙へ目を落とす。二本線で消した数字が、急に大きな失敗に見えた。
間違いを認めず作業を続ければ、ニーナの祝福も、ルカの測定も無駄にする。
それは研究者として、最も避けるべきことだった。
「……優先順位を決めます」
「お願いします」
「第一に、測定器の修理。数値を確認できないまま、祝福は使いません。第二に、全員が二時間休みます。第三に、補完用の土壌作製を再開します」
「月眠り苔の採取元は?」
「今夜の観測後に資料を調べ、明朝から探します」
「妥当です」
ルカはようやくうなずいた。
ニーナが、ほっと息を吐く。
「フェルナー」
「はい」
「無理な指示でした。謝罪します」
「受け取ります」
「許してはいただけないのですか」
「今後、同じことを繰り返さないか確認してから考えます」
昨日の自分とよく似た答えだった。
アウレリアは反論できない。
「研究室では身分に関係なく、睡眠不足になるのですね」
「徹夜に身分は関係ありません。研究室の外でも同じです」
ニーナが小さく笑った。
* * *
器具庫には、感応線の予備がなかった。
学院の実習で使う携帯魔力計はすべて貸出中で、返却は卒業式後だという。
ルカは壊れた感応線の端を磨き、細い銀管でつなぐ応急修理を選んだ。精度が戻る保証はないが、何も測れないよりはいい。
接続できても、すぐ実験には使えない。低、中、高の異なる既知値を持つ三つの校正用魔石を測り、修理前との誤差を確認する必要がある。
アウレリアとニーナは、予備育成室の隣にある休憩室で横になった。
二時間後。
目を覚ましたアウレリアは、頭の奥に張りついていた薄い膜が取れたように感じた。
睡眠を無駄な時間だと思ったことはない。ただ、締切前には後回しにできる時間だと思っていた。
その考えも、修正する必要がありそうだった。
予備育成室へ戻ると、ルカは拡大鏡をのぞきながら感応線をつないでいた。彼だけは休んだ様子がない。
「フェルナー。交代します」
「感応線をつなげますか」
「できません」
「では、何と交代するんです?」
「あなたが眠る役目です」
ルカの手が止まった。
「修理は?」
「急いで修理し壊せば、さらに時間を失います。二時間休んでから続けてください」
「締切前ですよ」
「身分に関係なく、睡眠不足になるのでしょう?」
言葉を返され、ルカはしばらく黙った。
やがて工具を置く。
「三十分だけ」
「一時間半です」
「一時間」
「一時間十五分」
「交渉が細かいですね」
「婚約より、よほど建設的です」
アウレリアが告げると、ルカは声を立てずに笑った。
「では、一時間十五分。起こしてください」
「承知しました」
ルカが休憩室へ入るのを見届けてから、アウレリアは修理中の装置へ『触れることを禁ず』と札を置いた。
触らずにできる作業はある。
移送した十八鉢の葉色を確認し、別の器具で測れる室温と湿度を記録する。ニーナと一緒に、補完実験の手順書を清書する。
作業を分ければ、人を限界まで働かせなくても前へ進める。
* * *
午後五時前、予備育成室を訪ねてきたのはガスパルだった。
「失礼するよ。標本が消えたと聞いてね」
彼は空いた鉢台と、分解された携帯魔力計を見回した。ニーナの姿を見つけると、心配そうに眉を下げる。
「フローレス君まで実験を? 昨日の今日で、無理をしてはいけない」
「休憩と体調確認をしながら進めています」
ニーナは自分の観察帳を胸に抱えた。
「そうか。記録も始めたんだね。感心だ」
恩師に褒められ、ニーナの顔が明るくなる。
ガスパルはアウレリアへ向き直った。
「ローゼンベルク君。卒業論文の件だが、今からでも題目を変えてはどうだろう」
「題目を?」
「月眠り苔の魔力放出を証明するには、低魔力土壌区が欠かせない。新しい土を作っても、一年分の連続データは戻らないだろう」
その指摘は正しい。
「そこで、今回の予備実験を中心にする。『開花の祝福が早芽豆の成長へ与える効果』なら、目に見える結果がある。フローレス君にも協力してもらえるし、私が主査へ説明しよう」
卒業だけを考えるなら、魅力的な提案だった。
成長した豆は誰にでも見える。短期間で同じ実験を繰り返せる。王国一の植物学者が審査を助けると言っている。
だが、アウレリアが知りたいのは、目に見える成長の速さだけではない。花が咲いたあと、土にどれほどの損耗が残るのか。その問いを外せば、派手な結果と引き換えに、研究を始めた理由を捨てることになる。
「少し、考えさせてください」
アウレリアは即答しなかった。
ガスパルは安心させるようにうなずいた。
「もちろんだ。締切は迫っているが、焦って決める必要はない。君の将来を思っての提案だよ」
彼が去ると、予備育成室に静けさが戻った。
ニーナが不安そうに尋ねる。
「題目を変えるんですか」
「まだ決めていません」
アウレリアは、残った月眠り苔を見た。
青銀色の葉は、昼の光の下では灰色がかった地味な苔にしか見えない。
一年かけて追ってきた問いを捨てれば、卒業には近づく。
けれど、失われた標本が低魔力土壌区だけだった理由は、わからないままだ。
約束の一時間十五分が過ぎ、ガスパルが去ってほどなく、ルカが休憩室から戻った。提案の内容を聞いても、彼は驚かなかった。
「どうします?」
「明日の朝まで考えます」
「わかりました」
彼は理由を尋ねず、修理途中の携帯魔力計へ向かった。
アウレリアは新しい作業予定表を取り出す。
今夜は無理に徹夜しない。交代で休み、記録を整理する。携帯魔力計は、修理と校正を終えるまで観測に使わない。
そして夜が明けたら、学院の庭を探す。
失った問いを手放すかどうかは、探せる場所をすべて探してから決めればいい。
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