↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第一章_婚約破棄ではなく卒論提出

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/45

徹夜に身分は関係ありません

 携帯魔力計の針が、二度震えた。


 嫌な音がした。


 予備育成室で、補完用に用意した四鉢目の祝福前の値を測っていたルカは、無言で装置を持ち上げた。


「フェルナー?」


「動かさないでください」


「動かしているのはあなたです」


「ローゼンベルク嬢は、息を止めていてください」


「なぜです」


「話しかけられると、僕が装置を投げたくなるからです」


 春の第1月16日、午後2時。


 卒業論文の提出期限まで、46時間。


 ニーナの祝福で補完用の低魔力土壌を作り始めてから、1時間ほどが経っていた。


 21秒間の祝福を一組に使うたび、15分休む。顔色、脈、手の震えを確かめ、土壌と室内の魔力量を三回ずつ測る。


 最初の三鉢を一組として作り終え、次の三鉢の祝福前測定へ入ったところだった。


 慎重に進めても、測定回数は増える。


 昨夜から働き続けていた携帯魔力計は、四鉢目の二回目で限界を迎えたらしい。


 ルカが机へ置き、側面の小さな留め金を外す。銀色の蓋の下には、髪の毛ほど細い感応線と、目盛りを動かす青い魔石が収まっていた。


「感応線が切れています」


「直せますか」


「予備線があれば」


「ありますか」


「ありません」


 アウレリアは壁の時計を見た。


「では、器具庫から取ってきてください。その間に、残り三鉢へ祝福を使います。戻ったら測定と計算を済ませ、今夜9時の観測前に月眠り苔の採取元も探しましょう」


 ルカは返事をしなかった。


「フェルナー?」


「僕に腕が何本あるように見えます?」


「二本です」


「一日は何時間ですか」


「24時間です」


「公爵令嬢に命じられると、どちらかが増える仕組みでしたか」


 アウレリアは眉を寄せた。


「命令ではありません。必要な作業を申し上げただけです」


「では、優先順位を決めてください」


「すべて必要です」


「それは優先順位ではありません」


 いつもと同じ静かな口調だった。けれど、琥珀色の瞳には隠しきれない疲れがある。


 ニーナが二人の間で、おろおろと視線を動かした。


「わたし、器具庫へ行きましょうか」


「フローレス嬢には、祝福後の休息が必要です」


「ローゼンベルク嬢にも、徹夜後の休息が必要です」


 ルカが即座に返す。


「わたくしは問題ありません」


「先ほど、土の重量を250グラムと書く欄へ、2500グラムと記入しました」


「訂正しました」


「僕が指摘したからです」


 十倍。


 普段なら、決して見落とさない間違いだった。


 背中へ冷たい汗がにじんだ。このまま正しいつもりで進めば、自分の一行のために、ニーナの体力もルカの測定時間も無駄にする。


 アウレリアは記録用紙へ目を落とす。二本線で消した数字が、急に大きな失敗に見えた。


 間違いを認めず作業を続ければ、ニーナの祝福も、ルカの測定も無駄にする。


 それは研究者として、最も避けるべきことだった。


「……優先順位を決めます」


「お願いします」


「第一に、測定器の修理。数値を確認できないまま、祝福は使いません。第二に、全員が二時間休みます。第三に、補完用の土壌作製を再開します」


「月眠り苔の採取元は?」


「今夜の観測後に資料を調べ、明朝から探します」


「妥当です」


 ルカはようやくうなずいた。


 ニーナが、ほっと息を吐く。


「フェルナー」


「はい」


「無理な指示でした。謝罪します」


「受け取ります」


「許してはいただけないのですか」


「今後、同じことを繰り返さないか確認してから考えます」


 昨日の自分とよく似た答えだった。


 アウレリアは反論できない。


「研究室では身分に関係なく、睡眠不足になるのですね」


()()()()()()()()()()()()()()研究室の外でも同じです」


 ニーナが小さく笑った。


 * * *


 器具庫には、感応線の予備がなかった。


 学院の実習で使う携帯魔力計はすべて貸出中で、返却は卒業式後だという。


 ルカは壊れた感応線の端を磨き、細い銀管でつなぐ応急修理を選んだ。精度が戻る保証はないが、何も測れないよりはいい。


 接続できても、すぐ実験には使えない。低、中、高の異なる既知値を持つ三つの校正用魔石を測り、修理前との誤差を確認する必要がある。


 アウレリアとニーナは、予備育成室の隣にある休憩室で横になった。


 二時間後。


 目を覚ましたアウレリアは、頭の奥に張りついていた薄い膜が取れたように感じた。


 睡眠を無駄な時間だと思ったことはない。ただ、締切前には後回しにできる時間だと思っていた。


 その考えも、修正する必要がありそうだった。


 予備育成室へ戻ると、ルカは拡大鏡をのぞきながら感応線をつないでいた。彼だけは休んだ様子がない。


「フェルナー。交代します」


「感応線をつなげますか」


「できません」


「では、何と交代するんです?」


「あなたが眠る役目です」


 ルカの手が止まった。


「修理は?」


「急いで修理し壊せば、さらに時間を失います。二時間休んでから続けてください」


「締切前ですよ」


「身分に関係なく、睡眠不足になるのでしょう?」


 言葉を返され、ルカはしばらく黙った。


 やがて工具を置く。


「三十分だけ」


「一時間半です」


「一時間」


「一時間十五分」


「交渉が細かいですね」


「婚約より、よほど建設的です」


 アウレリアが告げると、ルカは声を立てずに笑った。


「では、一時間十五分。起こしてください」


「承知しました」


 ルカが休憩室へ入るのを見届けてから、アウレリアは修理中の装置へ『触れることを禁ず』と札を置いた。


 触らずにできる作業はある。


 移送した十八鉢の葉色を確認し、別の器具で測れる室温と湿度を記録する。ニーナと一緒に、補完実験の手順書を清書する。


 作業を分ければ、人を限界まで働かせなくても前へ進める。


 * * *


 午後五時前、予備育成室を訪ねてきたのはガスパルだった。


「失礼するよ。標本が消えたと聞いてね」


 彼は空いた鉢台と、分解された携帯魔力計を見回した。ニーナの姿を見つけると、心配そうに眉を下げる。


「フローレス君まで実験を? 昨日の今日で、無理をしてはいけない」


「休憩と体調確認をしながら進めています」


 ニーナは自分の観察帳を胸に抱えた。


「そうか。記録も始めたんだね。感心だ」


 恩師に褒められ、ニーナの顔が明るくなる。


 ガスパルはアウレリアへ向き直った。


「ローゼンベルク君。卒業論文の件だが、今からでも題目を変えてはどうだろう」


「題目を?」


「月眠り苔の魔力放出を証明するには、低魔力土壌区が欠かせない。新しい土を作っても、一年分の連続データは戻らないだろう」


 その指摘は正しい。


「そこで、今回の予備実験を中心にする。『開花の祝福が早芽豆の成長へ与える効果』なら、目に見える結果がある。フローレス君にも協力してもらえるし、私が主査へ説明しよう」


 卒業だけを考えるなら、魅力的な提案だった。


 成長した豆は誰にでも見える。短期間で同じ実験を繰り返せる。王国一の植物学者が審査を助けると言っている。


 だが、アウレリアが知りたいのは、目に見える成長の速さだけではない。花が咲いたあと、土にどれほどの損耗が残るのか。その問いを外せば、派手な結果と引き換えに、研究を始めた理由を捨てることになる。


「少し、考えさせてください」


 アウレリアは即答しなかった。


 ガスパルは安心させるようにうなずいた。


「もちろんだ。締切は迫っているが、焦って決める必要はない。君の将来を思っての提案だよ」


 彼が去ると、予備育成室に静けさが戻った。


 ニーナが不安そうに尋ねる。


「題目を変えるんですか」


「まだ決めていません」


 アウレリアは、残った月眠り苔を見た。


 青銀色の葉は、昼の光の下では灰色がかった地味な苔にしか見えない。


 一年かけて追ってきた問いを捨てれば、卒業には近づく。


 けれど、失われた標本が低魔力土壌区だけだった理由は、わからないままだ。


 約束の一時間十五分が過ぎ、ガスパルが去ってほどなく、ルカが休憩室から戻った。提案の内容を聞いても、彼は驚かなかった。


「どうします?」


「明日の朝まで考えます」


「わかりました」


 彼は理由を尋ねず、修理途中の携帯魔力計へ向かった。


 アウレリアは新しい作業予定表を取り出す。


 今夜は無理に徹夜しない。交代で休み、記録を整理する。携帯魔力計は、修理と校正を終えるまで観測に使わない。


 そして夜が明けたら、学院の庭を探す。


 失った問いを手放すかどうかは、探せる場所をすべて探してから決めればいい。


お読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークでアウレリアたちの歩みを見守っていただけるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。