聖女は記録を取っていない
「お手伝いさせてください」
ニーナ・フローレスが予備育成室へ飛び込んできたのは、月眠り苔18鉢の移送が終わった直後だった。
春の第1月16日、午前11時。
卒業論文の提出期限まで、49時間。
安全管理官の立会いのもと、残された標本は一鉢ずつ密閉容器へ入れられた。アウレリアとルカが標本番号を読み上げ、搬出記録と照合し、学院本棟の予備育成室まで運んだばかりである。
移送時刻と、育成室の温度、湿度、周辺魔力量も記録した。今後の数値は、温室で得た数値とは区別して扱う必要がある。
祝賀会の花飾りを外したニーナは、息を切らして扉の前に立っていた。
腕には大きな籠を抱えている。中には学院教材用と印刷された未開封の土袋、園芸用の小さな移植ごて、それから休憩用らしい焼き菓子が詰まっていた。
「どのお手伝いでしょう」
アウレリアが尋ねると、ニーナは目に見えて緊張した。
「ええと……全部、です」
「範囲が広すぎます」
「ローゼンベルク嬢」
記録机に座っていたルカが、たしなめるように名を呼んだ。
アウレリアは昨夜の祝賀会を思い出す。
言っている内容が正しくても、言われた側の心から問題が消えるわけではない。理解したつもりではいるが、適切な言い換えがすぐに出てくるほど上達はしていなかった。
「失礼しました。具体的に、何ができるとお考えですか」
今度はどうだろう。
ルカがわずかにうなずいたので、及第点らしい。
ニーナは籠を抱き直した。
「温室から、鉢がなくなったと聞きました。何か、お手伝いできないかと思って」
「どなたから聞いたのです」
「安全管理官さんです。いなくなったあなたを探していたら偶然お会いしました。そしてなくなった鉢を探すのを手伝わせてくださいとお願いしました。そうしたら、捜索には加えられないけれど、ローゼンベルク様が標本を移していると…」
なくなった鉢の詳細は聞かされていないようだ。
「なくなったのは、低魔力土壌区の六鉢です」
必要な事実だけを伝えると、ニーナは籠の土へ目を向けた。
「それなら、わたしの祝福で同じ土を作り直せるかもしれません」
「祝福で低魔力土壌を作る、という意味ですか」
「はい。植物を一気に育てたあとの土は、なんとなく元気がなくなるんです」
ルカが椅子から立った。
「それは、いつから気づいていました?」
「故郷にいた頃からです。祝福を使った畑は、少し休ませないと、次の種がうまく芽を出さなくて」
「休ませる期間は?」
「少しです」
「日数でお願いします」
「二日くらいのときもあれば、一週間くらいのときも……」
「育てた植物の種類は?」
「豆とか、小麦とか、お花とか」
「祝福を使った時間と、対象の広さは?」
「両手をこうして、元気に育って、と思うんです」
ニーナは籠を置き、胸の前で両手を広げてみせた。
ルカは黙った。
アウレリアも黙った。
予備育成室の隅で、保温装置の水滴が一つ落ちた。
「記録は?」
アウレリアが尋ねる。
ニーナの両手が、空になった胸元で固く組まれた。祝賀会でも見た仕草だった。答えを知らないことより、知らないと皆の前で言うことを怖がっている。
「……取っていません」
ニーナは申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「一度も?」
「育ったものの数なら、ときどき」
「使用前後の土壌魔力量は?」
「測ったことがありません」
「気温、土の量、水分量、種の数は?」
「あの……」
空色の瞳が、助けを求めるようにルカへ向いた。
「僕を見ても、記録は生まれてきません」
ルカは静かに答えた。
ニーナがうつむく。
アウレリアは息を吸った。ここで「それでは使えません」と切り捨てるのは簡単だった。
だが、ニーナは少なくとも、誰にも教えられていない変化へ自分で気づいていた。条件は曖昧でも、何度も見たからこそ出てくる言葉がある。
「記録がないなら、今から取ればいいのです」
ニーナが目を光らせて顔を上げた。
「ただし、あなたの経験をそのまま証明として使うことはできません。条件を決め、同じ手順を繰り返せる形にします」
「はい!」
「返事をする前に、内容を聞いてください」
「……はい」
声が少し小さくなった。
ルカが口元を押さえた。咳ではなく、笑いを隠したように見えた。
「その前に」
ニーナは両手を握りしめた。
「昨日のことを、謝らせてください」
アウレリアは返事を待った。
「わたし、皆さんがローゼンベルク様を悪く言っているのを知っていました。違うって言おうと思ったんです。でも、怖くて……。殿下が守ってくださったとき、少しだけ安心してしまいました」
言葉は何度も途切れた。それでも、今度は誰かに遮られてもいないのに、ニーナは最後まで口にした。
「婚約をなくしてほしかったわけではありません。本当に、ごめんなさい」
アウレリアはすぐに「気にしていない」とは言えなかった。
気にしていないと言えば嘘になる。昨夜から胸の奥に残る細い痛みは、研究室へ逃げ込んでも消えていない。
「謝罪は受け取ります」
それだけ告げてから、言葉を足す。
「許せるかどうかは、まだわかりません」
「……はい」
「ですが、今はあなたの祝福が必要です。協力していただけますか」
ニーナは泣きそうな顔で、それでも今度は返事を急がなかった。
「内容を聞いてから、お答えします」
「結構です」
ルカが今度こそ、小さく笑った。
実験計画を立てる前に、三人は籠の焼き菓子を分け、二十分だけ休憩した。睡眠不足の二人と、これから祝福を使う一人に、空腹のまま実験を始める理由はなかった。
* * *
小規模実験には、学院で教材用に育てている早芽豆を使うことになった。
ニーナが持参した教材用の土を九つの浅い鉢へ、同じ重さずつ分ける。水の量と種の数をそろえ、三鉢ずつ三組に分けた。
一組目は祝福を使わない比較用。
二組目には十秒間。
三組目には二十秒間、ニーナの祝福を使う。
祝福の前後に、ルカの携帯魔力計で土壌魔力量と室内の周辺魔力量を三回ずつ測る。実施順と開始時刻も記録し、ニーナが立つ場所、鉢と両手の距離を床と測定棒で一定にした。
確かめたいのは、豆を早く伸ばせるかだけではない。その成長が土からどれほど魔力を使い、次に植える種へ何を残すのかである。祝福を村の畑で安全に使うなら、咲いた花だけでなく、使用後の土地まで測らなければならない。
祝福を使う組の間には15分の休憩を入れる。めまい、発熱、手の震えのいずれかが出れば、その時点で中止することも決めた。
「祝福の強さは、秒数だけではそろいません」
アウレリアは実験計画を書きながら言った。
「同じ気持ちで使えますか」
「同じ気持ち……」
「いつも、何を考えているのです」
「元気に育って、と」
「では、その言葉だけを考えてください。途中で『もっと大きく』などと付け加えないように」
「わかりました」
ルカは携帯魔力計の針を確認し、ニーナへ合図した。
彼女が10秒条件の三鉢へ手をかざす。
淡い金色の光が指先からこぼれ、土へ染み込んだ。種の殻が割れ、白い根が伸び、柔らかな芽が土を押し上げる。
わずか10秒で、双葉が開いた。
「10・3秒」
ルカが告げる。
「すみません!」
「謝る前に記録してください」
アウレリアはニーナへ鉛筆を渡した。
ニーナは新品の観察帳を開き、『10秒の予定。実際は10・3秒』と、ゆっくり書き込んだ。
20秒の組では、茎が指ほどの高さまで伸びた。葉は大きく、見た目には健康そのものだ。
光が消えると、ニーナは一度だけ深く息をついた。顔色、脈、手の震えを三人で確認し、異常なしと観察帳へ記録する。
最後に、祝福を使わない三鉢を同じ位置へ置き、同じ時間だけ待つ。芽は出ない。
「成功でしょうか」
ニーナが期待を込めて尋ねた。
「まだです。育ったことではなく、土の変化を調べます」
ルカが一鉢ずつ携帯魔力計を当てる。
比較用の三鉢は、実験前とほぼ同じ。
10秒の三鉢は、平均で一割ほど低下。
20秒の三鉢では――針が、失われた低魔力土壌区の記録に近い位置まで下がった。
「もう一度、測ります」
ルカは表情を変えずに3回測った。
結果はほとんど変わらない。
ニーナは大きく育った早芽豆と、数字の並んだ観察帳を交互に見た。
「わたしの祝福が、土の魔力を使ったんですか」
観察帳を抱く指が震えた。人を喜ばせる力だと教えられてきたものが、目の前では次の芽の力を先に使っている。
「その可能性があります」
アウレリアは断定を避けた。
「この9鉢だけでは足りません。時間が経ったあとの変化も、別の日の結果も必要です」
「それでも、なくなった土を作り直せますか」
「同じものとは呼べません。ですが、条件を明記した補完実験にはできます」
失われた一年分は戻らない。
新しい6鉢から得られるのは、締切までの短い記録だけだ。卒論には標本消失も、実験期間の不足も、すべて書かなければならない。
それでも、何もない空欄よりは前へ進める。
「フローレス嬢。体調を確認し、間隔を空けながら、20秒の条件で低魔力土壌を六鉢分作ります。できますか」
ニーナは観察帳を見下ろした。
それから鉛筆を握り直し、今度は自分から時刻を書き込む。
「はい。記録しながら、やります」
聖女の奇跡は、祈るだけのものではなくなった。
初めて、誰にでも確かめられる一つの数字になった。
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