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婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第一章_婚約破棄ではなく卒論提出

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温室が封鎖されました

温室が封鎖されていた。

 

学院の封蝋を無断で破れば、卒業論文より先に退学通知が届く。


 残念ながら、公爵令嬢の身分も、たった今婚約を破棄されかけた事情も、封印を破る正当な理由にはならなかった。


「鎖を切るのは却下です」


 温室の前で、ルカが言った。


 アウレリアは鍵を持ったまま振り返る。


「まだ何も申し上げておりません」


「鎖の輪を数えながら、鍵で一番細い箇所を探していました」


「材質を確認していただけです」


「なるほど。では、その材質を力ずくで確認するのも却下します」


 午後9時を2分過ぎていた。


 温室内の月眠り苔は、発光量が最も安定する時刻を迎えている。扉の上部に並ぶ硝子窓は夜露で曇り、外から鉢の状態を見ることはできなかった。


 アウレリアは扉から手を離した。


「正規の手続きを取ります」


「賛成です。その前に、今できる記録を残しましょう」


 研究者たるもの何かあれば記録をとることが大切だ。


 ルカは記録板から新しい紙を一枚外した。


 日時。封鎖を発見した時刻。掲示された文面。封蝋の状態。立会人の名前。


 彼は一つずつ読み上げ、アウレリアが確認した。携帯魔力計を扉の外側へ置き、周辺の魔力量だけを三回測る。


 当然ながら、温室内の測定値の代わりにはならない。


「今夜の欄は、欠測ですわね」


「はい。推定値を入れたくなりましたか」


「わたくしを誰だと思っているのです」


「締切前の学生です」


 否定できないところが腹立たしい。


 アウレリアは観測表の15日夜の欄へ、はっきりと横線を引いた。その横に『学院命令による温室封鎖のため欠測』と書き、署名する。


 空白を埋めるために都合のよい数字を書くくらいなら、欠けていると認めるほうがいい。


 論文の価値は下がるかもしれないが、嘘を混ぜれば、それはもう研究ではない。


「夜間管理室へ行きます。緊急立入許可か、標本搬出の申請を出します」


「その格好で?」


 ルカの視線が、祝賀会用の深緑色のドレスへ向けられる。


「申請書は服装を審査しません」


「管理官は驚くでしょうね」


「今夜は、もう十分驚かれております」


 二人は温室を離れた。


 鎖の向こうに置いてきた青銀色の光が、背中へまとわりつくような気がした。


 * * *


 夜間管理室の老管理官は、確かに驚いた。


 舞踏会用のドレス姿で申請書を求める公爵令嬢と、その隣で携帯魔力計を抱えた研究助手を、丸眼鏡の奥から交互に見つめる。


「つまり、温室に入りたいと」


「正確には、立会人のもとで実験標本二十四鉢と観測器具を搬出したいのです」


「緊急封鎖中の施設から?」


「はい」


「今から?」


「可能ならば」


 管理官は壁の時計を見た。午後九時二十分。


 それから机の端に置かれた祝賀会の菓子を見て、深いため息をつく。


「主任教授の許可と、安全管理官の立会いが必要です。今夜はどちらも帰宅されています」


「緊急立入許可の申請はできますか」


「受け付けはします。審査は明朝です」


「では、申請時刻の入った受領証もお願いします」


 管理官が今度はルカを見た。


「君が入れ知恵したのかね」


「彼女は僕が会う前からこうです」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「そうしてください」


 二人は管理官から申請書を三枚受け取った。


 一枚目は立入許可。二枚目は標本搬出。三枚目は封鎖によって観測ができなかったことの証明申請だった。


 アウレリアは記入台へ向かい、すぐにペンを走らせる。


「ローゼンベルク嬢」


「なんでしょう」


「標本の価値という欄に『卒業できるかどうか』と書くのは、正式な評価額ではありません」


「では、『評価額は算定不能。再取得には一年を要する』に直します」


「そちらのほうが、まだ通りそうです」


 すべて書き終え、受領証を受け取ったときには、十時を回っていた。


 その夜、アウレリアは自室へ戻らなかった。


 研究室で祝賀会のドレスから白い作業着へ着替え、机の引き出しから卒論草稿と実験記録を取り出す。ルカの写しと照合し、温室の外で測った数値と欠測理由を書き加えた。


 婚約破棄について考えるのは、そのあとにするつもりだった。


 けれど、紙面の端に『婚約』と書きかけたところで、自分が何を記そうとしたのかわからなくなった。


 アウレリアはその文字を二本線で消し、『温室封鎖』と書き直した。


 今は、こちらのほうが扱いやすい問題だった。


 明け方に机へ伏したのは、ほんの一時間ほどだった。規程集を調べていたルカも、目の下にうっすらと影を作っていた。


 * * *


 翌朝八時。


 魔法植物学科主任室で、アウレリアとルカの向かいに座ったガスパル・ヴァルモン教授は、申請書へ静かに目を通していた。


 柔らかな灰色の髪。穏やかな目元。昨夜の祝賀会には出席していたはずだが、疲れを感じさせない身なりをしている。


「困ったことになったね、ローゼンベルク君」


 ガスパルは書類を机へ置いた。


「昨夜、温室を利用した学生から、手に赤い腫れが出たという報告があった。原因の植物が特定できるまで、封鎖する必要があるんだよ」


「報告した学生の名前と、利用時刻を伺えますか」


 ガスパルの行動は、なぜかタイミングよく私の研究を止めるので聞いてしまった。


「本人の許可なく名前は明かせない。利用時刻は午後七時頃だそうだ」


「症状は現在も続いていますか」


「医務室の見立てでは軽症だ。だが、軽いから無視してよいわけではないだろう?」


「おっしゃるとおりです」


 安全確認自体は必要だ。


 魔法植物には、毒や棘だけでなく、触れた者の魔力へ反応する種類もある。原因不明の症状が出たなら、温室を閉じる判断は間違いとは言えない。


 ただし、締切三日前の夜に封鎖されれば、アウレリアの研究が大きな損害を受けることも事実だった。


 失うのは卒業の可能性だけではない。弱った土地で苔が魔力を戻すのか、戻すとしてどれほど遅いのかを示す、1年分の手掛かりである。都合よく「土地を治す植物」と呼ばせないためにも、残った記録と標本が必要だった。


「標本だけでも、立会人のもとで搬出させてください。わたくしの月眠り苔は、直接触れなければ危険性は低く、鉢ごと密閉できます」


「君の標本が原因ではないという保証は、まだない」


「だからこそ、密閉と立会いを申請しています」


 ガスパルは責めるでもなく、少し悲しそうにアウレリアを見た。


 柔らかな灰色の髪と、学生を案じるような穏やかな目元。その姿の前では、規程を求めるアウレリアの方が、病人より論文を優先する冷たい学生に見えかねなかった。


「卒論を心配する気持ちはわかる。しかし、研究者が成果を急ぐあまり、安全を軽んじてはいけないよ」


 正しい言葉だった。


 正しい言葉なのに、アウレリアの胸には、小さな砂粒を飲み込んだような違和感が残る。


 隣に立っていたルカが、一枚の紙を差し出した。


「学院安全規程、第二十六条です。個人研究用の標本は、安全管理官が安全性を確認した場合、主任教授の許可を得て密閉容器へ移送できます」


 ガスパルは規程の写しを受け取り、目を細めた。


「よく調べたね、フェルナー君」


「昨夜、待つ時間は十分ありましたので」


 短い沈黙のあと、ガスパルは申請書へ署名した。


「わかった。午前十時に安全管理官を立ち会わせよう。ただし、少しでも異常が見つかれば、搬出は中止する。それでいいね?」


「ありがとうございます」


 アウレリアは頭を下げた。


 ガスパルは最後まで、学生を心配する教授にしか見えなかった。


 * * *


 午前十時。


 安全管理官が封蝋を確認し、記録へ署名してから鎖を外した。


 アウレリアとルカは厚手の手袋と保護外套を身につけ、温室へ入る。


 湿った土と若葉の匂い。天井硝子を通した朝の光。見慣れた温室内には、荒らされた様子も、枯れた植物もなかった。


「まず空気中の魔力反応と、植物を覆う容器を確認します。異常がなければ換気してください」


 安全管理官の指示に従い、二人は別々の通路から棚を調べた。


 棘を飛ばす鉄針草。触れた手を痺れさせる眠り蔓。花粉で皮膚が赤くなる夕焼け百合。


 危険性のある植物はすべて、定められた覆いの中にある。覆いにも、注意札にも異常はない。


 アウレリアは奥の実験台へ向かった。


 月眠り苔の鉢は、土壌条件ごとに六鉢ずつ、四列に分けて置いた。標準土壌、高魔力土壌、低魔力土壌、そして祝福使用後の土壌。


 毎日同じ時刻に、発光量と周辺魔力量を測ってきた。


 第一列、六鉢。


 第二列、六鉢。


 第三列――何もない。


 アウレリアは足を止めた。


「フェルナー。こちらへ」


 声が、自分でも驚くほど低くなった。


 ルカが駆け寄り、空いた実験台を見る。携えていた標本一覧へ目を落とし、数え直した。


「低魔力土壌区の六鉢が、すべてありません」


「昨夜七時の時点では?」


「僕が夕方5時に確認したときは、ありました。その後の記録はありません」


 第四列の六鉢は残っている。


 なくなったのは、月眠り苔が蓄えた魔力を弱った土へ戻すという仮説を検証するための標本だけだった。


 実験台には、鉢底から落ちたらしい乾いた土が、六つの輪を作っている。誰かが鉢を運んだ跡だ。


「安全検査のために移した可能性は?」


 安全管理官が記録帳を開いた。


「植物を動かした場合、ここへ記載します」


 昨夜の欄には、温室を封鎖した時刻と担当者名しかない。


 標本の移動記録は、どこにもなかった。


 ルカが実験台の下へしゃがみ、手袋越しに何かを拾った。


 欠けた素焼き鉢の小さな破片だった。縁に、青銀色の苔がわずかに残っている。


 安全管理官は空いた実験台と六つの土の輪を記録し、鉢片を証拠袋へ入れて封をした。アウレリアとルカも立会人として署名する。


「正規の手続きで運び出したのなら、記録があるはずです」


 アウレリアは破片を見つめた。


 卒論提出まで、二日と二時間。


 少なくとも、正規の手続きで別室へ移されたのではない。


 誰かが、記録を残さず六鉢を持ち去ったのだ。


お読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークでアウレリアたちの歩みを見守っていただけるとうれしいです。

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