婚約破棄は12分でお願いします
婚約破棄を告げられた夜、彼女が気にしたのは失恋ではなく、九時の観測でした。
卒論提出まで、あと2日と15時間。
「温室の悪女」と呼ばれる公爵令嬢の、研究と再出発の物語です。
卒業論文の提出期限まで、2日と15時間12分。
アウレリア・ローゼンベルクにとって、王太子との婚約が終わりそうなことは、それより少しだけ優先順位の低い問題だった。
「アウレリア。君との婚約を、破棄する」
扇の柄を握る指へ、わずかに力が入った。幼い頃から当然だと思っていた未来が、100人の前で一息に切られたのだと、身体の方が先に理解した。
王立エルデ学院の卒業記念祝賀会。
楽団の演奏が止み、100を超える視線が一斉に集まるなか、エリオット王太子はよく通る声で宣言した。
壁際の大時計が、午後8時48分を指している。
9時には、温室にある月眠り苔の発光量と、周辺の魔力量を測らなければならない。観測時刻がずれれば、昨日までの数値と比較できなくなる。
研究の始まりは、1年前、成長魔法を使った花壇の端だった。花が一斉に咲いた翌月、土の魔力は落ち、中央の草は弱った。それでも端に残った月眠り苔だけは、夜ごと淡く光っていた。
魔力が多い時期にその苔に蓄え、減った時期に少しずつ戻しているのなら、土地が作物を支えられなくなる前に、衰えを緩められるかもしれない。派手な花を咲かせる研究ではない。農地を使い切らず、翌年へ渡すための研究だった。
アウレリアは銀灰色の髪を揺らし、婚約者をまっすぐに見た。
「承知いたしました。お話は以上でしょうか」
祝賀会場が水を打ったように静まり返った。
声は、自分でも驚くほど平らだった。悲しくないのではない。悲しみの形を確かめ始めれば、9時までに終わらないだけである。
エリオットの青い瞳に、明らかな動揺が走る。泣かれるか、怒鳴られるか、少なくとも理由を問いただされると思っていたらしい。
「……君は、理由も聞かないのか」
「正式な書面には記載されるものと考えております」
「そういうところだ!」
突然大きくなった声に、給仕の盆に載ったグラスがかすかに鳴った。
アウレリアは眉を寄せる。
「どのようなところでしょう」
「人の心を、何もわかっていないところだ。君はいつも正しさばかりを振りかざして、相手がどう感じるかを考えない」
否定しかけて、アウレリアは口を閉じた。
具体性には欠けるが、完全に事実無根とは言い切れない。指導教員のベアトリスにも、似たことを三度ほど注意されている。
ただし、それと婚約破棄を祝賀会で宣言することの間には、かなり大きな論理の飛躍があった。
「例を挙げていただけますか」
エリオットは一瞬、言葉に詰まった。
彼の斜め後ろには、蜂蜜色の髪を白い花飾りでまとめたニーナ・フローレスが立っている。空色の瞳は不安そうに揺れ、両手はドレスの胸元で固く組まれていた。
その姿を見て、アウレリアはようやく話の行き先を理解した。
「ニーナに対する数々の嫌がらせだ」
エリオットは彼女をかばうように半歩前へ出た。
「君は温室でニーナの腕をつかみ、皆の前で無知だと言った。彼女が育てた花を実験台から撤去し、研究記録まで否定したそうだな」
「一部は事実です」
周囲がざわめいた。
ニーナが息をのみ、エリオットの表情が険しくなる。
「認めるんだな」
「先に確認させてください。殿下は、フローレス嬢本人から事情をお聞きになりましたか」
「彼女は君を悪く言うような女性ではない」
「では、どなたから?」
「多くの学生が見ている。ヴァルモン教授からも、君の指導は行き過ぎていると聞いた」
魔法植物学科主任、ガスパル・ヴァルモン教授。
王国一の植物学者と呼ばれ、ニーナを学院へ迎えた人物でもある。アウレリアの卒業論文にも、何度か穏やかな助言をくれた。
もっとも、その助言はいつも「その研究に将来性はあるのかね」という同じ結論へ向かうのだが。
「殿下。あの、わたしは……」
ニーナが小さく声を上げた。
「大丈夫だ、ニーナ。もう君が我慢する必要はない」
「そうではなくて、アウレリア様は研究のことで注意しただけで……。婚約を破棄してほしいなんて、わたし、頼んでいません」
「君は本当に優しいな」
エリオットは痛ましげにニーナを見つめた。
ニーナの口が、困ったように半分開いたまま止まる。
アウレリアにも、彼女の言葉が擁護として十分ではないことはわかった。だが、本人の説明を途中で自分に都合よく解釈するエリオットにも問題がある。ニーナへ好意でもあるのだろうか
「順に説明いたします」
アウレリアは右手の指を一本立てた。
「まず、腕をつかんだのは、フローレス嬢が比較実験中の鉢へ祝福を使おうとしたからです。祝福を受けていない鉢と比べる実験ですから、片方だけを急成長させれば三か月分の記録が無駄になります」
二本目を立てる。
「次に、わたくしが申し上げたのは『その条件では何が花を咲かせたのかわからない』です。無知という言葉は使っておりません」
三本目。
「花を実験台から撤去したのは、根が隣の鉢へ入り込んだからです。記録を否定したのではなく、日付、土の量、祝福を使った時刻が書かれていなかったため、記録として使用できないと申し上げました」
「やはり、ニーナのしたことを何もかも否定したのではないか」
「研究記録として不十分であることと、フローレス嬢の人格には関係がございません」
「君にはなくても、言われた側にはある!」
その声に、ニーナの肩が揺れた。
アウレリアは返答せず、彼女を見る。
「フローレス嬢。わたくしの言い方で、あなたを傷つけましたか」
真っ向から問われるとは思っていなかったのだろう。ニーナは何度か瞬いた。
「……はい。皆さんの前でしたから、恥ずかしくて。わたしには研究なんて無理だと言われた気がしました」
「無理だとは申しておりません」
「アウレリア」
エリオットがとがめるように名を呼ぶ。
何がいけないのか、アウレリアにはすぐにはわからなかった。
言っていないことを言ったことにはできない。それでもニーナが傷ついたという事実まで、否定するつもりはなかった。
「人前で指摘したことについては、配慮が足りませんでした。謝罪します」
アウレリアはニーナへ頭を下げた。
「ただし、実験条件を記録する必要性については、訂正いたしません」
会場のどこかから、「さすが温室の悪女だ」という囁きが聞こえた。
毎日温室に行き、婚約者のことを気にせず、研究に冷徹な顔でいそしむ。私は「温室の悪女」と世間からは言われていた。
きっと謝罪のあとに条件を付けるべきではなかったのだろう。けれど、必要な記録を不要だと言うこともできない。
ニーナは戸惑いながらも、小さくうなずいた。
「……はい。次からは、書きます」
「ありがとうございます」
それで少なくとも、同じ問題が繰り返される可能性は一つ減った。
大時計を見る。午後8時54分。
「殿下、最後に一点よろしいでしょうか」
「なんだ」
「この婚約破棄について、陛下と両家の承認はお済みですか」
エリオットが黙った。
「……父上には、これから話す」
「では、現時点で婚約破棄は成立しておりません。婚約解消のご提案として、父を通じて回答いたします」
またしても会場がざわつく。
「君は、こんなときまで形式の話をするのか」
「婚約は両家と王家の契約です。形式は大切です」
「僕への気持ちは」
初めて、答えに迷った。
幼い頃から決められていた婚約者。恋物語のような熱情はなくとも、隣に立つ未来を疑ったことはなかった。
胸の奥に、細い針を刺されたような痛みがある。
けれど今、その痛みを確かめる時間はなかった。1年間やってきた研究が無駄になる可能性がある。今 は婚約破棄より研究の方が優先順位が高かった。
「書面を受け取ってから、考えます」
大時計の長針が、11の位置を越えた。
残り3分。
「お話が以上でしたら、失礼いたします」
「待て。どこへ行くつもりだ」
「温室です」
アウレリアはドレスの裾を持ち上げた。
「9時に、月眠り苔の観測がありますので」
今度こそ、誰も引き止めなかった。
祝賀会場を出た瞬間、アウレリアは踵の高い靴で廊下を走りだした。
淑女は走らない。それは知っている。だが、淑女の都合に合わせて苔が発光してくれるわけではない。
研究棟へ続く渡り廊下の先に、焦げ茶色の髪の青年が立っていた。片手に記録板、もう片方に銀色の携帯魔力計を持っている。
「遅いです、ローゼンベルク嬢」
ルカ・フェルナーは、駆けてくる公爵令嬢を見ても驚かなかった。
「あと1分あります」
「温室まで2分かかります」
「走れば1分です」
「その靴で転んだ場合、治療に30分ほどかかりますね」
ルカは記録板を小脇に挟み、アウレリアの歩幅に合わせて走りだした。
「祝賀会はどうでした」
「婚約を破棄されました」
「それはまた」
彼は携帯魔力計の蓋を押さえながら、少し考えた。
「観測を休む理由としては、認められませんね」
ルカも少し頭のねじが外れているのか、私と同じ感覚らしい
「同感です」
妙に呼吸が楽になった。
慰めの言葉が欲しかったわけではない。今はただ、9時の観測が必要だと理解する人が一人いればよかった。
二人が温室前へ滑り込むのと、学院の鐘が九つ鳴り始めるのは同時だった。
アウレリアは鍵を取り出す。
しかし、扉の取っ手に手を伸ばしたまま動きを止めた。
「……これは、何でしょう」
温室の両開き扉には、見覚えのない鎖が巻かれていた。
鎖の中央を赤い封蝋が留め、その脇には立入禁止を告げる学院の公文書が貼られている。
ルカが携帯灯を近づけ、文面を読み上げた。
「魔法植物の安全性に関する緊急調査のため、本温室を封鎖する。許可なき立ち入りを禁ずる。魔法植物学科主任、ガスパル・ヴァルモン」
鐘が9つ目を打ち終えた。
扉の向こうにあるはずの月眠り苔は、今夜の光を記録されないまま眠っている。
アウレリアは懐中時計を閉じた。
卒論提出まで、2日と15時間。
温室の扉は、王太子との婚約より、よほど頑固に閉ざされていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
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