麦倉は六十日しか持ちません
「二月半ではありません。六十日です」
夏の第1月12日、夜。
ベルン村の麦倉で、アウレリアは計算板の数字を消した。
十一村の代表が息を呑む。
夕方までの見積りでは、昨年の麦は種麦を残して二月半もつはずだった。
だが、その数字は帳簿にある袋数を、すべて同じ重さとして足したものだった。
「数え直して、減ったんですか」
倉庫管理者のイングリットが尋ねた。腰の鍵束を押さえる手に力が入っている。
「袋数は合っています。中身が違います」
満量の袋。
半端な袋。
虫食いを分けていない袋。
売却契約済みで、勝手には配給へ回せない袋。
次の作付けに必要な種麦。
十一村で袋の呼び方も違っていた。
大袋一つと書いてあっても、ベルンと南の二村では容量が一割近く違う。
「同じ単位へ直し、食用にできる量だけを分けました。現在の世帯人数と通常配給量なら五十三日です」
乳幼児、妊婦、病人、重労働者の必要量は減らさない。その分を先に確保し、調整可能な一般配給と製粉時の損失を見直せば、帳簿上は六十四日まで延ばせる。
「ただし、虫と湿気による損耗を四日分見込みます。計画に使うのは六十日です」
「配給を減らして、六十日」
イングリットの声がかすれた。
「はい」
数字を柔らかく言い換えても、麦は増えない。
けれど、その一言の後ろにいる人を見ずに数字だけを置けば、アウレリアはまた、正しさを投げるだけになる。
「今夜、食事を減らせという意味ではありません」
アウレリアは続けた。
「まず、乳幼児、妊婦、病人、重労働をする人に必要な量を医務官と確認します。減らせない分を先に置き、残りを計算します」
集会所の隅で、幼い子を抱いた女性が顔を上げた。
「子どもの分から削られないんですか」
「削る順番を、声の大きい人だけで決めさせません」
アウレリアは答えた。
「ただし、全員が同じ量を受け取れるとも、まだ約束できません。必要量と在庫を公開し、異議を受ける仕組みが要ります」
* * *
数え直しは、日が暮れる前から始まっていた。
倉庫の扉を開ける鍵は二本。イングリットと、十一村から選ばれた立会人が一本ずつ持つ。
袋を量る者。
目盛りを読む者。
数字を書く者。
袋へ新しい札を付ける者。
同じ人物が全部を担当しない。
ルカは計量器の水平を確認し、既知重量の分銅でずれを測った。琥珀色の目が目盛りを追い、アウレリアは補正前と補正後を別欄へ書く。
ヨハンは二十六年分の麦倉記録から、夏に虫と湿気で失う平均量を探した。
「今年は涼しい。例年より減らないかもしれません」
「反対に、雨が続けば増えるかもしれません」
「では、どちらを使います」
「一つに決めません。損耗が少ない場合、平均の場合、多い場合で三つ出します」
最も都合のよい数字だけを選ばない。
ガスパルの論文を追ってきた今、その意味は研究室の外にもあった。
倉庫の北壁に近い八袋は、布の表面が冷たかった。
イングリットが一袋を開けると、麦の匂いに湿った木の匂いが混じる。
「雨漏りはありません」
「壁の外を見ます」
アウレリアは灯りを持ち、倉庫の裏へ回った。
用水路から外れた排水溝に、刈った草と泥が詰まっている。雨水が壁際へ溜まり、石の継ぎ目を湿らせていた。
「この八袋は、食用在庫へ戻さないでください」
「全部捨てるのか」
村代表の一人が声を上げた。
「まだ決めません。傷みの範囲を検査し、飼料利用も含めて安全担当者が判断します。ただし、今夜の配給量には数えません」
足りないときほど、怪しい食料まで足したくなる。
それで病人を増やせば、救った量より失うものが大きい。
排水溝はベルン村の設備である。アウレリアが勝手に人を動かさず、村代表が夜間の緊急清掃を提案した。
作業者八人。
見張り二人。
灯油、手袋、道具の費用。
賃金は緊急調査費へ仮申請し、承認されない場合の上限をベルンの災害積立から出すことを村会が決めた。
泥を上げる音が、夜の倉庫裏へ続いた。
研究者が原因を見つけても、溝を開けるのは暮らしている人の手だった。
* * *
「輸送できる麦はあります」
農政会議の調整官が、王都の備蓄表を広げた。
「問題は道です。王都から一日といっても、荷車が一日に運べる量には限りがあります」
主要街道の橋は通れる。
しかし、王都へ麦を送るための荷車は、往路に商品を積み、帰路は空で戻る契約が多い。緊急輸送へ切り替えるには、商会、御者、荷主との契約変更が要る。
「王家の輸送隊だけなら、何日で最初の便が来ますか」
「最短で七日。ただし全量は運べません」
「空荷で戻る商会車を使えば」
「早ければ四日後から一日六台。各車の積載は違います」
アウレリアは地図へ線を引いた。
王都。
街道の宿駅。
ベルン。
そこから三本の用水路沿いに分かれる十一村。
ベルンへ届いても終わりではない。村ごとへ配る小型荷車と、壊れた車輪を直す職人が必要になる。
「食料を買えば救える、では足りません」
アウレリアは言った。
「誰へ、何日目に、どれだけ届くかまで計画にします」
テーブルの上で、六十日は一本の線ではなくなった。
最初の四日。
王家輸送隊が来る七日目。
黄変した麦の収穫見込みを測り直す十四日目。
緊急配給を再計算する三十日目。
六十日目。
判断する日を先に置く。
「ローゼンベルク嬢」
ニーナが観察帳を抱いたまま近づいた。
「祝福を使わない場合を、もう決めているんですか」
「決めていません。使う場合にも、この輸送と配給は必要です」
「祝福を使えば、麦は増えるのに?」
「明日、すべて収穫できるわけではありません。術後にあなたが倒れる可能性も、来年の土がさらに弱る可能性もあります。どちらを選んでも、今夜の食事は倉庫から出します」
ニーナは赤い印が十一ある計画図を見た。
「わたしが断っても、村を見捨てることにはならない?」
「なりません」
アウレリアは即座に答えた。
「あなたの返事一つへ、十一村の生存を背負わせる計画の方が間違っています」
ニーナの肩が、わずかに下がった。
胸元で握りかけていた手を開き、自分の帳面へ触れる。
「なら、明日、自分で答えます」
「はい」
* * *
夜半までに、二枚の紙ができた。
一枚目。
六十日をしのぐ計画。
在庫の再計量。
減らしてはいけない配給。
種麦の封印保管。
緊急備蓄と空荷車の輸送。
四日、七日、十四日、三十日での再計算。
二枚目。
三年で土地の扱い方を決める計画。
豊穣加速法の停止。
休ませる区画。
輪作する区画。
月眠り苔、非魔法保湿材、無処置を比べる小区画。
完全回復を約束しないこと。
「救う、とは書かないんですね」
ルカが言った。
「六十日後も問題は残ります」
「でも、明日を迎える方法にはなった」
倉庫の外では、排水溝の水がようやく流れ始めていた。
黄ばんだ麦は緑に戻っていない。
袋の数も増えていない。
それでも、誰の食事を最初に削るかという恐怖は、何を数え、いつ運び、どこで見直すかという仕事へ変わった。
アウレリアは二枚の紙を重ねなかった。
明日の飢えと、三年後の土。
どちらも救うために、同じ奇跡で済ませてはいけなかった。
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