豊穣の代償
「畑が、春を食べ尽くしたみたいなんです」
中央穀倉地帯ベルン村の記録係は、黄ばんだ麦畑を前にそう言った。
夏の第1月12日、午前。
雨は降っている。
井戸にも水はある。
それでも、十一村の土から地脈魔力が急速に失われていた。
* * *
六日前、ミューレへ緊急文書が届いた日の夕方。
共同会は、アウレリアたちの再出発と留守中の管理を審議した。
「行ってください」
最初に言ったのはマルタだった。
「ここで見つけたことが、よその畑で起きているかもしれないんでしょう」
「原因はまだ決まっていません」
「だから、測りに行くんでしょう?」
アウレリアはうなずいた。
第一観察室は、イルザとテオが三度目の短期契約で管理する。
期間は夏の第1月7日から20日までの十四日間。二人の同意を得て、賃金は王立農政会議の緊急調査費から先に確保した。
二人一組の入室、推論用観察の停止と安全閉鎖の違い、鍵の保管、毎日の記録を再確認する。
マルタを、今回の延長契約事務だけを扱う代理人に指定した。延長用の上限額は、緊急調査費から別封筒で預ける。
帰村が遅れるなら、イルザとテオへ早めに知らせ、続けてもらえるかを改めて尋ねる。返事がなければ二十日で観察を止め、安全のため部屋を閉じる。
契約が切れたあとまで、二人の善意を当てにはしない。
調査団の往復運賃、ベルンでの宿泊費、測定資材、二人の短期契約賃金は、王立農政会議の緊急調査費が負担する。村の共同箱と信託研究費は使わない。
「四度目も同じ説明をするんですか」
テオが尋ねた。
「します」
「知ってました」
翌七日朝、アウレリアとルカは村を発った。
三泊四日で十日夕方、王都へ着く。
十一日朝、西門に集まった調査団は十三人だった。
王立農政会議の調整官。
安全担当者と医務官。
土壌測定官二人。
十一村から選ばれた記録者四人。
ガスパル。
ニーナ。
アウレリアとルカ。
エリオットは、今回も調査団へ加わらなかった。婚約関係と政策提案への利益関係を理由に、関連報告の整理から外れたままである。
現地で採否を決める者もいない。
調査団の役目は、測り、聞き、緊急対応の選択肢と危険を農政会議へ返すことだった。
* * *
王都から西へ一日。
中央穀倉地帯は、低い丘に囲まれた広い盆地にある。
十一村を流れる三本の用水路と、王国最大の麦倉が、ベルン村へ集まっていた。
遠目には、畑はまだ緑だった。
近づくと、葉先から黄色が広がり、成長の止まった株がまだらに混じっている。
記録係の名は、ヨハン・リーゼ。
五十八歳。農家ではなく、麦倉の計量係を二十六年務めていた。
「十日前から、荷車を引く馬が用水路沿いで嫌がるようになりました」
「馬の行動は、毎年記録していますか」
「いいえ。今年、気づいてからです。証拠にはなりません」
「異変の手掛かりにはなります。観察開始日と、以前は未記録だったことを分けてください」
ヨハンは、すでに分けていた。
日付。
場所。
馬の頭数。
嫌がった馬と、通った馬。
荷の重さは未確認。
「ミューレの市場記録様式を、農政会議から送ってもらいました」
誰かが生きるために作った記録が、別の村で新しい記録を始めさせていた。
* * *
調査団は、十一村を一つの平均へまとめなかった。
豊穣加速法を毎年使った八村。
一年おき、または作柄の悪い年だけ使った三村。
同じ村の中にも、使用した畑と、費用が払えず使わなかった畑がある。
祝福の秒数は記録がある区画だけを採用し、「通常」「多め」としか書かれていない区画は数値比較から外した。
雨量は過去五年の範囲内。
井戸水位は二村で低いが、残る九村は平年の範囲。
根腐れと害虫は一部にあるものの、黄変した全区画へ共通しない。
肥料の仕入れ先も三系統に分かれていた。
照合した項目のうち、十一村すべてで確認された一つが、豊穣加速法の使用歴だった。
ただし、それだけで原因とは決められない。
加速法を使った畑は、用水路に近く、作付面積も大きい。土の種類、収穫回数、管理人数が違う。
比較できた未使用十四区画でも地脈魔力は下がっていたが、低下は使用区画より緩やかだった。
土壌測定官は、同じ校正器で三回ずつ測った。
表示者、記録者、区画案内者を分ける。
ルカの携帯魔力計は補助測定に限り、公認計器との差を毎朝確認した。
「地表だけが下がっているのでは?」
ニーナが尋ねた。
深さを変えて採った土は、表層で最も低く、その下も平年値を下回っていた。
ただし、前年まで同じ深さで測った村は四村しかない。
「十一村すべてで、地下まで枯れたとは言えません」
アウレリアが言う。
「でも、四村では前年同時期より下がっています」
「はい。確認できた範囲では」
ニーナは、その言い方を嫌がらなかった。
自分の帳面へ、四村と書いた。
* * *
ベルン村の共同倉庫には、昨年の麦が積まれていた。
満杯には遠い。
帳簿上の袋数だけなら、種麦を残して二月半と見積もられていた。ただし、村ごとに袋の容量が違い、傷みと売却契約済みの分もまだ分けていない。実際に食べられる日数は、今夜の再計量まで確定しない。
「今の麦が実らなければ、秋まで持ちません」
倉庫管理者の女性、イングリットが言った。
「王都から買うことは」
「買えても、道と荷車が足りない。ここは王都へ麦を送る側でしたから」
飢えは、土壌魔力の数値が底へ着いてから始まるのではない。
種を食べるか残すか。
老人の配給を減らすか、育ち盛りの子どもを優先するか。
そういう選択の形で、先に村へ来る。
「祝福を使えば、今ある麦は育ちます」
ガスパルが倉庫の中央で言った。
イングリットが顔を上げる。
「どれくらい」
「フローレス君の力なら、種麦を残せるだけの収穫を確保できる」
「使用時間と範囲は」
アウレリアが尋ねた。
「畑の状態を見て決める」
「使用後の土壌魔力と、術者の停止条件は」
「今は収穫を守ることが先だ」
ガスパルは、黄ばんだ畑へ手を向けた。
「研究の結論を待って麦が実るのかね」
実らない。
その問いだけなら、正しかった。
観察を続けている間にも、麦は弱る。
だが、急ぐことと、条件を決めないことは違う。
「祝福なしで今期をしのぐ案も並べます」
アウレリアは言った。
「被害の軽い区画を種麦用へ優先する。黄変区画への給水と施肥を一律に増やさず、小区画で反応を見る。備蓄と輸送量を先に数え、王都からの買入れと配給を組み合わせる」
「それで収穫が戻る保証はない」
「ありません。祝福にも、使用後の土地とフローレス嬢の安全を含めた保証はありません」
イングリットは、二人の顔を見比べた。
「どちらか一つを、今すぐ選ばないといけないんですか」
「いいえ」
答えたのはニーナだった。
「まず、種麦と食べる分を分けて数えてください。わたしの祝福を使うかは、その後で、条件を見て決めます」
ガスパルの目が細くなる。
「君の力が必要とされているのだよ」
「必要と言われることと、どう使うか決めることは別です」
ニーナの声は小さかったが、倉庫の奥まで届いた。
* * *
その日の夕方、十一村の代表がベルン村の集会所へ集まった。
ガスパルは、王都から持参した豊穣加速法の計画図を広げる。
十一村の中心区画を一つずつ選び、ニーナが連日祝福する。
時間は、各区画の麦が回復するまで。
上限は書かれていない。
休養日もない。
体調停止基準と、使用後の土壌監視期間もない。
「これは計画ではありません」
アウレリアが言った。
「目標だ。計画は現場で調整する」
ガスパルはニーナへ向き直った。
「フローレス君。国の穀倉を救うためだ」
紙の上で、十一の区画が赤く囲まれている。
「君ができる最大規模の祝福を、明朝から始めなさい」
集会所が静まり返った。
ニーナは、赤い印を一つずつ数えた。
蜂蜜色の髪の下で唇を結び、観察帳を持つ指を一度だけ握り直す。十一の印は地図上の区画ではなく、そこで祝福を待つ家族と、倒れれば戻らない自分の身体の数でもあった。
それから、自分の観察帳を開いた。
まだ返事はしなかった。
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