盗まれた論文
盗まれたと疑われる論文には、偶然では片づけにくい誤りが残っていた。
夏の第1月6日、午前。
ミューレの旧温室を改修した第一観察室で、アウレリアは三枚の比較表を見つめていた。
王都から戻ったのは一日夕方である。
イルザとテオは、契約最終日の安全記録、鍵、未使用の消耗品を、マルタ立会いで返した。九日分の賃金は支払簿と一致し、閉鎖事故も標本移動もなかった。
翌朝から、週一市場の準備が再開された。
リナは夜学で再現試験の被覆枠を教え、テオは同じ枠をラーデ村へ売れないかと寸法を直している。販売できるのは木枠だけで、月眠り苔は含まないと、注文書へ大きく書いた。
アウレリアたちが王都にいる間も、村は待っていなかった。
そして、王都で声を上げた三人も、待つだけではいなかった。
* * *
面談申込書を受けた学会は、独立した研究倫理調査官を選任した。
アウレリアとルカは、調査対象となる論文へ異議を申し立てた側である。面談を主導せず、資料の採否も決めない。
三人の元助手は、それぞれ別の日、別の部屋で聴取を受けた。
三人は申込み前から、自分の控えや、公的保管先から取り寄せた封緘認証抜粋を手元にそろえていた。面談と利用範囲の確認後、初めて調査官へ提示した。調査官は発行番号、封印、頁数を確認し、夏の第一月二日に許可済み抜粋を公的便で発送した。ミューレへの到着は六日朝だった。
質問項目は同じ。
資料の所有者。
作成日と作成者。
原本と写しの関係。
ガスパルの関与。
公表へ同意した範囲。
期待する結果。
調査官は証言を混ぜず、各人に全文を読ませて訂正を受けた。アウレリアたちへ送られたのは、本人が照合目的への利用を許可した認証抜粋だけである。
原本は所有者のもと、または本人が選んだ公的保管庫に残った。
一人目は、マーラ・エーベルト。
六年前、魔法植物病理研究室の助手だった。
彼女は王国暦六二七年、冬の第二月三日、「銀斑病に対する青鐘草抽出液の抑制条件」という論文草稿を、学科主任室へ提出していた。
草稿の本人控えだけなら、後から作った可能性がある。
だが、学院文書庫には同じ題名、同じ頁数、マーラの名を記した提出簿があった。受領者は当時の主任室事務員で、日付印と連続番号が残っている。
翌年、ガスパルは「青鐘草による銀斑病の抑制」と題する論文を単著で発表した。
二つの表には、同じ二十九の測定値が同じ順序で並ぶ。
そして、第七標本と第八標本の温度欄だけが、どちらも入れ替わっていた。
「同じ測定をすれば、同じ値が出ることはあります」
ルカが言った。
「同じ転記誤りまで独立に起きた可能性は、低くなります」
ただし、ゼロではない。
元の温度記録は学院病理温室の日誌にあり、第七と第八の値は逆である。マーラの草稿とガスパル論文だけが、同じ誤った並びだった。
草稿の受領は、ガスパル論文の投稿より八か月早い。
ガスパルが実験計画へ助言した記録もある。
助言をしたことと、単独著者になれることは同じではない。
だが、当時は貢献確認書も、著者名への異議手続きもなかった。
「盗んだ、と今ここで書きますか」
ルカが尋ねた。
「書きません。確認できるのは、先に受領されたマーラさん名義の草稿と、後の単著論文に、同じ数値列と同じ転記誤りがあることです」
アウレリアは照合メモへ、文書番号、日付、頁数、表の位置と、まだ確認できない点を分けて書いた。
* * *
二人目は、ソレン・ヴァイス。
乾燥地薬草の栽培試験を担当した元助手である。
彼が持っていたのは個人控えではなく、南部農業試験場へ毎月送った公文書の受領証だった。
申込み前に同試験場から取り寄せた封緘認証抜粋もあり、調査官が発行番号と封印を確認した。
試験場の保管正本には、全三十一鉢の経過がある。
ガスパル論文の主表は二十九鉢。
除かれた二鉢は、抽出液を使った後に根腐れした鉢だった。
論文には「病害による事前除外」とある。
だが、試験場正本では、根腐れが起きたのは処置後六日目である。事前ではない。
ソレンの証言と公文書正本は、同じ実験についているため完全に独立ではない。それでも、王都の研究室外へ処置当時に送られた文書であり、後から一人で書き換えにくい。
三人目は、エレナ・モーア。
豊穣加速法の原型となった鉢試験で、発芽と土壌魔力を記録していた。
彼女の名は、計器貸出台帳と助手賃金簿にある。
学院図書庫には、「祝福使用後土壌における発芽促進と後期生育停滞」という研究計画概要が、王国暦六二七年春の第三月に受領されていた。
提出者、エレナ・モーア。
指導者、ガスパル・ヴァルモン。
ガスパルが翌年発表した豊穣加速法の論文では、題名から「後期生育停滞」が消え、エレナの名もなかった。
計画概要だけでは、完成した研究を盗まれた証明にはならない。
しかし、発芽後二十日までの図は、ガスパル論文の第一図と点の位置まで一致する。
二十一日目以後の低下は、公表図に含まれていなかった。
「三人とも、同じことをされたのでしょうか」
ルカが小声で言った。
「まだ、同じ処分だったとは決められません」
マーラは契約満了。
ソレンは別試験場へ異動。
エレナは研究記録紛失を理由に戒告され、学院を去った。
そしてエミルは、記録管理違反、命令不服従、測定値改変を理由に契約解除されたと証言している。
処分記録の原本、異議申立ての有無、決定者を確認する必要がある。
「共通しているのは、助手の名で先に受領された資料があること。後の論文に同じ値や図があること。公表時に助手名と不利な後期記録がないことです」
アウレリアは、三枚の比較表を重ねなかった。
別の人。
別の研究。
別の原本。
別々に保管されてきた一致を、別々のまま調査委員会へ渡すために。
学会倫理調査官は、ガスパルへ弁明と手元資料の保全を通知した。
学院には、主任室、図書庫、人事室、研究費室の関連台帳を分離封印するよう求めた。
不正は、まだ認定されていない。
けれど、元助手が腹を立てているだけだ、という説明では済まない段階へ進んだ。
* * *
正午前、村の鐘が三度鳴った。
火事ではない。
公的便の緊急文書が届いた合図だった。
王立農政会議から、ミューレ共同会とアウレリア、ルカへの同文通知。
中央穀倉地帯の十一村で、地脈魔力が十日間に急低下している。
発芽後の麦が黄ばみ、畑ごとのばらつきが大きい。井戸水位、降雨、病害、肥料の記録は照合中で、原因は未確定。
十一村すべてで豊穣加速法を導入しているが、使用年、祝福量、作物、管理方法は同じではない。
農政会議は、現地調査団への参加を求めていた。
アウレリアとルカ。
豊穣加速法の提唱者であるガスパル。
祝福術者としてニーナ。
安全担当者、土壌測定官、各村の記録者。
集合は夏の第1月11日、王都西門。
「五日後です」
ルカが言った。
「ここから王都まで、四日かかります」
翌七日朝に発てば、三泊四日で十日夕方に王都へ着く。十一日の集合に間に合う日程は、それしかない。
アウレリアは、盗用の疑いを示す比較表と、黄ばんだ麦の速報を並べた。
過去を調べる手を止めれば、同じ誤りを繰り返す。
著者名と原記録を守ることは、過去の名誉だけの問題ではない。測定した者が安心して異常を残せなければ、いま畑で始まった危険も、都合のよい結論の下へ消される。
過去だけを見ていれば、今育っている麦が枯れる。
「共同会を招集してください」
今度の問題は、論文の中だけでは終わらない。
王国の食卓へ届く前の畑で、数字より先に、作物が倒れ始めていた。
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