沈黙についての証言
「わたしは、何も言わなかったわけではありません」
春の第3月28日、午前。
王立魔法植物学会の公開記録室で、ニーナ・フローレスは証言台に立っていた。
「でも、必要なときに何も言えませんでした」
昨日の再現試験報告を受け、学会は豊穣加速法に関する体験記録の公開聴取を設けた。
参加は任意。
証言者は話す範囲を事前に選び、公開記録へ残った後は撤回できないことも説明される。住所、家族、診療歴など、議題と関係のない個人情報は記録しない。
ニーナは自分で証言文を書き、独立した記録担当者と一行ずつ確認した。
アウレリアもガスパルも、その作業には同席していない。
公開に同意したのは、婚約破棄の場で自分が見聞きしたこと。
祝福の記録を始める前、自分が何を記録しなかったか。
ミューレで記録方法を学んだこと。
そして、昨日の報告会ですでに利用を許した、三秒の祝福試験の条件と体調だけだった。
個人観察帳の頁そのものは提出しない。
学院で欠落している五頁の内容も、犯人についての推測も話さない。
「一年前の卒業記念祝賀会で、エリオット殿下はローゼンベルク様がわたしを虐めたとおっしゃいました」
ニーナの声が、少し震えた。
「わたしは、研究のことで注意されただけだと答えました。婚約を破棄してほしいとは頼んでいないとも言いました」
ニーナの指先が、証言台の縁で白くなる。それでも蜂蜜色の髪に隠れるように俯かず、記録担当者が書き終えるまで顔を上げて待った。
それは事実だった。
あの場で、ニーナは言おうとした。
エリオットが「君は優しい」と意味を変え、周囲は聞きたい物語だけを聞いた。
「次の日、学生掲示板にも訂正文を出しました。学生代表にも写しを渡しました。ですから、ずっと黙っていた、と言えば、それも事実ではありません」
ニーナは一度、息を整えた。
「それでも、その前から噂があることを知っていました。ローゼンベルク様がわたしの腕をつかんだこと。花を撤去したこと。記録を使えないと言ったこと。その理由を、わたしは知っていました」
比較実験へ祝福を使おうとしたから、止められた。
花の根が排水孔を通り、隣の鉢へ入ったから、撤去された。
日付、土の量、祝福の時刻がなかったから、研究記録として使えなかった。
「人前で言われて、傷ついたのも本当です」
ニーナは、アウレリアを見た。
「でも、傷ついたことと、ローゼンベルク様がわたしを陥れたことは同じではありません。わたしは、噂を訂正したら、今度は殿下や教授を悪く言ったと思われるのが怖かった。守られる側にいれば、自分で説明しなくて済むことへ、甘えていました」
傍聴席の奥で、紙をめくる音が止まった。
「祝賀会で言葉を続けられなかった責任は、殿下だけのものではありません。翌日に訂正するまで待ったことも、それより前の噂を放っておいたことも、わたしの選んだ沈黙です」
ニーナは深く頭を下げた。
「ローゼンベルク様。申し訳ありませんでした」
謝罪は、アウレリアを無傷だったことにしない。
ニーナ一人へ、婚約破棄の責任を負わせるものでもない。
それでも、あの夜に途中で切れた言葉が、一年後、自分の選んだ終わりまで届いた。
「受け取ります」
アウレリアは答えた。
「ありがとうございます、フローレス嬢」
* * *
「次に、祝福の記録について話します」
ニーナは証言台の水を一口飲んだ。
「学院へ来たころのわたしは、花が咲けば成功だと思っていました。何秒使ったか。どこまで届いたか。使った後に土や自分の体がどうなったか。書いていませんでした」
ガスパルから、祝福は国のために必要だと言われたこと。
疲れるのは未熟だからで、怖がらせる書き方を避けた方がよいと言われた記憶があること。
ただし、その会話は二人きりで、記録も第三者の確認もないこと。
ニーナは、そこまでを分けて述べた。
「先生の言葉だけが理由ではありません。記録しなければ、すばらしい力だと信じたままでいられました。具合が悪くなったことを書けば、祝福を取り上げられる気がして、わたしも書かない方を選びました」
「指導を受けた学生へ、全責任を負わせるべきではない」
ガスパルが席から言った。
議長が発言許可のない声を制する。
ニーナは、教授の方を見た。
「はい。安全な記録方法を教える責任は、指導する方にもあったと思います」
声は震えていた。
それでも、視線を伏せなかった。
「でも、自分が選ばなかったことまで、先生の命令だけにはしません。わたしは怖くて、確かめませんでした」
ミューレでは、未記録の日を後から推測で埋めないと教わった。
書き忘れた欄へは、「未記録」と書いた。
三秒の試験では、使用直後に指先が冷え、二時間後に消えた。
「これは、三秒なら誰でも安全という意味ではありません。今回のわたしに、今回の条件で起きたことです」
以前なら、ニーナは「大丈夫でした」と笑っただろう。
今は、大丈夫という言葉の範囲を、自分で狭くできる。
「祝福を捨てたいのですか」
許可を得た傍聴人が尋ねた。
「いいえ」
ニーナは、はっきり答えた。
「使うなら、使わなかった日も書きます。助かった人だけでなく、疲れたわたしも記録へ入れます。祝福を信じるために、都合の悪いことを見ないのはやめます」
* * *
議長が、アウレリアへ証言の意思を尋ねた。
彼女も昨夜、公開範囲を決めていた。
「わたくしは、フローレス嬢の比較鉢への祝福を止めました。記録が不足していることも指摘しました。その判断は、今も必要だったと考えています」
一年前の祝賀会でも、同じことを言った。
ただし、あのときは謝罪の直後へ「記録の必要性は訂正しない」と付け足した。
間違っている部分まで認めれば、正しい謝罪になると思えなかったからだ。
「ですが、わたくしは皆の前でフローレス嬢を止め、その後も、二人だけで話す場を自分から作りませんでした」
ニーナに記録方法が教えられていたか。
祝福の後に体調を崩していないか。
なぜ実験へ手を伸ばしたのか。
先に尋ねることはできた。
「科学的に正しい説明なら、聞いた人へ正しく届くと思っていました。届かなければ、相手が理解していないのだと」
アウレリアは、自分の手を握りしめた。
「それは誤りでした。内容を変えなくても、場所と順序と言葉は選べました。危険を止めたことを理由に、傷つけた伝え方まで正しいことにはできません」
ニーナへ向き直る。
「あの場で謝っただけで、あなたが安全に学び直せる場所を用意しなかったことを、謝罪します」
頭を下げる。
静かな時間が流れた。
「受け取ります」
ニーナの声がした。
「でも、記録が必要だと言ったことは、謝らないでください」
「はい。そこは謝りません」
傍聴席のどこかで、小さな笑いが起きた。
ニーナも笑った。
「そういうところは、変わりませんね」
「変える部分と、変えない部分を記録しておきます」
今度は、笑いが少し広がった。
許し合えば、すべてが元に戻るわけではない。
元に戻す必要もなかった。
以前より正確に話せる二人として、これからを始めればいい。
* * *
公開記録室を出ると、アウレリアたちの帰りの馬車まで一時間を切っていた。
ルカが荷物を持ち、ニーナが玄関まで見送る。
「次に会うときは、わたしも共同研究者として話せるでしょうか」
「記録の利用条件と役割を決めてからです」
「はい」
ニーナは、うれしそうにうなずいた。
そこへ、学会事務官が駆けてきた。
手には、三通の面談申込書があった。
「公開証言を聞いた元研究助手からです。自分の記録も、作成者名とともに確認してほしいと」
一通目は、ガスパルの病害研究。
二通目は、乾燥地用薬草の栽培試験。
三通目は、豊穣加速法の原型研究。
どれも、公表論文の著者欄に申込者の名はなかった。
アウレリアは、馬車の時刻と三通の受付番号を見比べた。
「申込書原本を学会で保全し、本人へ不利益が及ばない連絡方法を確認してください。研究記録は、所有者と利用条件を確かめるまで預からないでください。面談は、帰村後に日程を決めます」
今日、急いで会ってはならない。
声を上げた人に、今度は研究者の都合で急がせないために。
王都を出る馬車の中で、三通の写しはアウレリアの膝にあった。
三泊四日で、夏の第1月1日夕方にミューレへ戻る予定である。
沈黙が終わるとき、最初に聞こえるのは告発ではない。
消されていた名前を、持ち主のところへ戻してほしいという声だった。
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