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婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第二章_新しい村へ

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恩師を疑うということ

「わたしの体調記録を、学会で使えますか」


 蜂蜜色の髪を肩から払い、ニーナは胸元で握りかけた手を開いた。恩師への疑いを口にする怖さより、次の誰かが同じ負担を知らずに祝福を使うことの方を恐れている顔だった。


 王都へ戻った春の第2月9日、夕方。


 学会宿でアウレリアを待っていたのは、ニーナ・フローレスの手紙だった。


 臨時研究会の発表予定を見たこと。


 ミューレ村で祝福を使った日の観察帳を、自分で保管していること。


 豊穣加速法と祝福の安全を調べるなら、役に立つかもしれないこと。


 ただし、人前で体調を話すのは怖いので、使う前に相談したいこと。


 最後に、面会を断っても構わないと書かれていた。


「明日の午前、学院の面談室を予約したそうです」


 ルカが同封紙を確認する。


「本人が所有する記録でも、学会利用は別の同意が必要です」


「会って、用途を分けて説明しましょう」


 共同研究契約の追補後、最初の新しい資料相談だった。


 二人の間に残る傷が消えたわけではない。


 それでも、利害関係を尋ね、所有者の意思を確かめてから進む。決めた手順を、次の相手へ適用することはできた。


 * * *


 翌十日午前、王立エルデ学院の学生相談棟。


 ニーナは蜂蜜色の髪を一つに結び、厚い観察帳を胸へ抱えていた。


 一年前より背筋が伸びている。


「ローゼンベルク様。フェルナーさん。来てくださって、ありがとうございます」


「こちらこそ、資料の相談をありがとうございます。最初に確認します。この帳面は、どなたの所有ですか」


「わたしです。紙も自分で買いました。ミューレから帰った後も、祝福を使った日と、使わなかった日の体調を書いています」


 日付、使用場所、対象、予定時間、実時間、食事、睡眠、体温、吐き気、手の震え、翌朝の状態。


 村で覚えた項目が続いていた。


 書き忘れた日は、空欄を埋めず「未記録」とある。


「全頁を見せる必要はありません」


 アウレリアは用途を分けた説明書を出した。


 研究者二人だけが閲覧する。


 学院の安全記録と照合する。


 学会で匿名集計を使う。


 症状の具体的記述を引用する。


 氏名を公表する。


 ニーナは最初の二項目だけに同意した。


 学会利用、症状引用、氏名公表は、照合結果を見て後で決める。


 いつでも閲覧を止められる。すでに作った照合記録は、当初許可した内部確認の範囲で保管する。今後の利用停止と、取得済み記録の扱いを分けて書いた。


「フェルナーさんも見るんですよね」


「はい。ですが、嫌ならローゼンベルク嬢だけにできます」


「二人で見てください。一人だけだと、見落としがあってもわからないから」


 ニーナは署名し、アウレリアとルカも説明者として署名した。


 * * *


 最初に確認したのは、ミューレのカボチャ事故だった。


 王国暦六三二年、春の第3月2日、午前11時24分。


 祝福は予定十秒、実時間十七秒。


 対象はカボチャ三株。推定範囲は中心から四歩。


 使用後、ニーナに吐き気と疲労。意識、脈、呼吸、体温、水分を確認し、当日は作業を止め、成人監視下で休養。翌朝に症状消失を確認した。


 アウレリアたちは、巨大株の処分を終えた春第三月六日、事故報告を学院安全審査室へ公的便で送っていた。


 正本には、使用条件、土壌記録、補償、処分、再発防止規則。


 付属資料として、ニーナが署名した使用直後から翌朝までの体調記録三頁。


 アウレリアの鍵付き書類箱には、送付一式の認証写し、頁目録、封印番号がある。学院から返送された受領書には、正本一部、付属資料七点、総頁数が記されていた。


 学院安全審査室の配架簿では、春第3月10日に正本一式を受領し、安全上の受付処理後、12日に健康記録室へ一括移送していた。移送票には、同じ文書番号、封印番号、付属資料七点、総頁数が記されている。


 健康記録室の受入簿にも、同日、同じ番号と点数で正本一式を受け入れた担当者の署名があった。体調記録三頁は、健康記録室へ届いた時点の頁目録に含まれていた。


 ガスパルが秋に出した安全意見書は、ミューレで祝福が再使用された事実を挙げていた。


 つまり、事故報告そのものは学院へ届いている。


「学院側の記録も見たいです」


 ニーナが言った。


「健康情報です。フローレス嬢本人が、閲覧先と同席者を指定してください」


 ニーナは、学院健康記録室へ本人閲覧を申請した。


 アウレリアとルカの同席は、今回一回、照合目的だけに限定する。複写はしない。


 記録室の担当官は身分証と署名を確認し、閲覧票へ時刻を記した。


 * * *


 ニーナの健康記録箱には、入学時検査、定期検査、医務室受診票が日付順に綴じられていた。


 祝福使用に関する別冊索引には、四件の受付番号がある。


 一件目は、学院花壇での小規模使用。


 二件目は、卒論補完用の二十秒条件。


 三件目は、ミューレのカボチャ事故。


 四件目は、ミューレから帰還後、学院実習園で行った監視付き使用。


「四件とも、覚えています」


 ニーナの観察帳にも、同じ日付があった。


 最初の保管箱には一件目と二件目がある。


 三件目の位置には、安全審査室から移された事故報告正本の表紙と、土壌・処分記録だけが綴じられていた。


 頁目録には、体調記録三頁とある。


 実物はない。


 四件目も、使用計画と祝福時間はあるが、当日夜と翌朝の体温、脈、症状を記した二頁がなかった。


「別の箱へ移した可能性があります」


 アウレリアが言う。


 ニーナが、ほっとしたようにうなずいた。


「そうですよね。医務室の記録だから、そちらに」


 担当官は、健康記録室が受け入れた後の再移管台帳を調べた。


 移管記録はない。


 次に、四件目について医務室の原票保管簿を確認する。受付番号があり、「健康記録室へ原票送付済み」と記されている。


 健康記録室の受入欄にも同じ受付番号があり、使用計画と体調原票二頁を受け入れた頁数確認印があった。


 未提出ではない。


 別部署保管でもない。


 頁目録と受領総頁数があるため、最初から体調頁が付いていなかったとも考えにくい。


「綴じ間違いは?」


 ニーナが尋ねた。


 三人で、前後の番号を持つ箱を担当官に確認してもらう。個人情報があるため、アウレリアたちは中身を見ない。担当官が頁番号と受付番号だけを照合した。


 見つからなかった。


 * * *


 貸出台帳では、三件目と四件目を含む別冊が、前年秋の第一月九日から十一日まで、魔法植物学科主任室へ貸し出されていた。


 請求者欄は、ガスパル・ヴァルモン。


 受取人欄は、主任室事務員。


 返却時、箱数と表紙目録の点数確認には印がある。各付属資料の頁数までは照合していない。


 その後にも、健康記録室の担当交代と、書庫移転が一度あった。


 ガスパル本人が頁を抜いた証拠はない。


 主任室事務員、記録室担当者、移転作業者が箱へ触れた可能性もある。


 貸出前に欠けていた可能性を完全には除けない。


 確認できるのは、受領時の頁目録に存在した体調記録が、現在の指定保管場所にないことだった。


「削除された、とは言えますか」


 ニーナの声が小さくなる。


「記録一式から欠落しています。意図的に抜かれたか、誤って失われたかは未確認です」


「でも、使った時間と植物の成長は残っていて、具合が悪くなった頁だけが、二回ともない」


「はい。その偏りは確認すべきです。ただし、二件だけで誰かの意図を断定はできません」


 ニーナは自分の観察帳を開いた。


 カボチャ事故の頁には、吐き気、強い疲れ、手の冷え。


 学院実習園の頁には、使用後二時間の発熱、翌朝まで続いた頭痛。


「ガスパル先生は、祝福は国のために必要だと言いました」


 空色の瞳が、文字の上で揺れる。


「疲れるのは、わたしがまだ使い方に慣れていないからだって。怖がらせるような書き方をしない方が、祝福を必要な人へ届けられるって」


「その言葉を、記録した人はいますか」


「いません。二人で話したことです」


「では、現時点ではフローレス嬢の記憶です」


「はい」


 ニーナは、以前ならその言い方を冷たいと感じただろう。


 今は、自分で観察帳の余白へ書いた。


 記憶。第三者確認なし。


「信じたいです」


 ニーナは言った。


「わたしを学院へ連れてきてくれたのは、先生です。祝福を怖がらず、才能だと言ってくれました」


 アウレリアは、急いで否定しなかった。


「恩を感じることと、記録の欠落を確認することは両立します」


「疑うのは、裏切りではないんでしょうか」


「疑いだけで有罪にするのは誤りです。疑問を見なかったことにするのも、記録への裏切りです」


 ニーナは長く黙った。


 それから、健康記録室の担当官へ向き直る。


「欠けている頁について、保全と調査を申請します」


 申請は、誰かを犯人と名指しするものではない。


 現在の箱を封印し、頁目録、受領書、移管台帳、医務室送付簿、貸出台帳、書庫移転記録を別々に保全する。


 当時の担当者へ、同じ質問項目で聞き取りを行う。


 ニーナの個人観察帳は本人所有のまま、今は提出しない。必要になれば、利用範囲を改めて決める。


 アウレリアとルカは、閲覧同席者として確認した事実だけへ署名した。


「学会で話しますか」


 アウレリアが尋ねる。


「今日は決めません」


「承知しました」


「でも、目を逸らしません。先生を信じたいなら、先生に都合の悪い記録も見なければいけないと思います」


 それは、恩師を捨てる決断ではなかった。


 自分の目で恩師を確かめる決断だった。


 * * *


 健康記録室を出ると、学会事務局の使者が待っていた。


 臨時研究会の追加議題通知である。


 提案者、ガスパル・ヴァルモン。


 議題名。


 月眠り苔の農地有害植物指定について。


 アウレリアは通知の日付と審議範囲を確認した。


 ニーナが疑問から目を逸らさないと決めた同じ朝、ガスパルは、月眠り苔を王国の農地から排除しようとしていた。


お読みいただき、ありがとうございます。


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