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婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第二章_新しい村へ

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元助手の名前

「利益関係の追記をお願いします」


 春の第2月6日、朝。


 アウレリアとルカは、王立魔法植物学会の事務局で、昨日出した原資料閲覧申請の控えを差し出した。


 補足するのは一つ。


 共同申請者ルカ・フェルナーは、ガスパルの五年前の研究助手エミル・フェルナーの実弟である。


 日誌の存在は書かない。


 エミル本人から、外部へ明かす許可をまだ得ていないからである。


「閲覧申請は、いったん保留してください。利益関係を確認する独立担当者が、再開の可否と条件を決めるまで、原資料を見ません」


 事務官は補足書を読み、元の申請書とひもで綴じた。受領時刻、頁数、保留状態を記し、控えへ同じ印を押す。


 続いて、王立農政会議へ「農議六三三号二七」の補足書を提出した。


 政策提案の共同提出者が元助手の近親者であること。


 提案に使った村資料と測定値を変更しないこと。


 審議側が必要と判断すれば、ルカの説明参加を制限できること。


 こちらも日誌には触れない。


 受領官は原提案の写し番号と照合し、補足書を追綴した。


「これで、昨日の不開示が消えるわけではありません」


 農政会議を出たところで、ルカが言った。


「消すために訂正したのではありません」


「はい」


 二人の距離は、昨夜と同じ半歩分だった。


 * * *


 エミルへの面会依頼は、同日午前に書留便で送った。


 訪問者はアウレリアとルカの二人。


 目的は、日誌写しの作成、保管、利用許可と、五年前の出来事の確認。


 面会も資料利用も断れる。拒否の事実を学会、学院、農政会議へ通知せず、アウレリアとルカから不利益な取扱いを求めない。ルカの共同研究契約上の扱いにも影響させない。


 日誌を持参してよいかも、別の回答欄で尋ねた。


 王都南門から定期馬車で半日。書留便の往復には、研究継続用の信託から配達料を払った。村の市場箱や水車箱は使わない。


 翌七日の夕方、署名入りの返書が届いた。


 面会に同意する。


 日誌を封印したまま持参してよい。


 訪問日は第2月8日午後。


 訪問先は、自宅ではなく、エミルが働く農具修理場の相談室。


 確認したい質問を、先に一覧で送ること。


「お兄様らしいですか」


「以前より慎重です」


「あなたより?」


 口にしたあと、アウレリアは言葉の棘に気づいた。


 ルカも気づいたはずだが、反論しなかった。


「今は、そうです」


 アウレリアは質問一覧を二部作り、一部をその日の最終便で送った。


 もう一部は、訪問時の照合用である。


 その夜、二人は共同研究契約の追補書も作った。


 研究判断へ影響し得る家族関係、金銭関係、過去の所属を、知った時点で相手へ申告する。申告内容を確認するまで、どちらも関係作業の中止を求められる。家族の資料を外部提出するときは、独立した倫理担当者の確認を受け、当事者だけで採否を決めない。


 追補は第二月七日以降に適用し、過去の不開示を遡って契約違反にはしない。すでに起きた不開示は、前夜に作った記録に残す。


「現契約を、続けますか」


 アウレリアが尋ねた。


「続けたいです。ただし、ローゼンベルク嬢が中止を選ぶなら従います」


「共同研究です。わたくし一人の選択にはしません。追補条件で継続することへ、双方が同意できるかを尋ねています」


「同意します」


 アウレリアも署名した。


 追補書は同文二通を作り、一通ずつ保管した。


 * * *


 八日朝、二人は南門発の定期馬車へ乗った。


 往復運賃と一泊分の宿代は、日誌と公表論文の照合に必要な共同研究調査費として信託から支払う。事前上限を決め、領収書と旅程を研究出納へ残す。


 学会が負担するのは、ミューレと王都の往復、王都滞在だけである。今回の寄り道を学会費へ混ぜなかった。


 日誌の木箱はルカの施錠鞄にある。


 乗車前、二人で新封印番号を確認した。馬車を降りるまで箱は開けず、休憩時にもルカが手元から離さない。


 王都を離れるほど、冬小麦の畑が増えた。


 ミューレより芽は密だが、畑の端に、葉色の薄い筋が混じっている。


 アウレリアは気づいた地点を旅程帳へ記した。道中の目視であり、土壌も管理歴も確かめていないため、異常報告には数えない。


 半日の馬車を降りた町では、農具を叩く音が通りへ響いていた。


 修理場の看板には、フェルナーの名がない。


 雇われ職人として働いているのだろう。


 相談室へ入ると、作業着姿の男性が立ち上がった。


 二十八歳。


 焦げ茶色の髪と琥珀色の瞳はルカとよく似ている。だが、日に焼けた頬と、節の太い手は、学院の研究助手より畑と作業場に馴染んでいた。


「エミル・フェルナーです」


「アウレリア・ローゼンベルクです。本日は、ご自身の意思で面会に同意されていますか」


「はい。質問一覧も読みました。途中で答えるのをやめてもいい、と書いてありました」


「いつでも中止できます」


 修理場の責任者からは、午後の相談室利用とエミルの離席について書面許可を得ていた。相談室には時間単位の定額使用料を払い、エミルには失う勤務時間への固定補償を支払う。


 どちらも信託の共同研究調査費から出し、回答内容、証言、資料権利への対価にはしない。エミルが途中で拒否や中止を選んでも減額しない。使用料と時間補償は、面談前に金額と支払日を記した同文書面で確認した。


 エミルは弟を見た。


「お前はそれを自分にも書いたか」


「書いていない」


「なら、あとで書け」


 声は穏やかだったが、ルカは小さくうなずいた。


 兄は、弟が秘密を守ったことを褒めなかった。


 * * *


 最初に、面談記録の範囲を決めた。


 アウレリアが質問し、ルカが時刻と回答を記す。ルカの家族関係が記録へ影響しないよう、エミルが各回答を読み、訂正できる。面談後、その日の記録を三人で照合する。


 公開、学会提出、農政会議提出、学院倫理審査への提供は、面談同意と別である。


「まず、木箱を確認してください」


 ルカが施錠鞄から箱を出した。


 エミルは新封印番号と、木箱の角の傷を見た。


「箱は、五年前に私が渡したものです。傷も覚えています。ただし、この封蝋は違います」


「第1月30日と、今月5日にルカが付け直しました」


 旧封蝋片の小袋、開封記録、再封印記録を順に見せる。


 エミルは、物理的な写本二冊は自分の所有物だと申告した。


 五年前、保管のためルカへ預けたが、所有権を譲ったつもりはない。


 同じ被害を受ける研究者が現れた場合、本人へ内容を見せることは許した。公表、複写、第三者提出までは許していなかった。


 ルカの説明と一致する。


 ただし、兄弟二人の一致は、第三者による確認ではない。


 エミル本人の証言と、エミル本人が作った写本も、独立した二つの証拠にはならない。


 * * *


 エミルの同意を得て、三人で封を開いた。


 新しい封蝋片も番号付きの別袋へ入れる。


「この写しは、いつ、どのように作りましたか」


「王国暦六二八年、秋の第1月5日から7日までの夜です」


 エミルは、一冊目の表紙を開いた。


「助手用の実験日誌原本を、研究室で見ながら手で写しました。全部ではありません。ミューレを含む六区画の測定、収量、除外指示、私が書いた研究題目案に関係する頁です」


「複写に立ち会った方は」


「いません」


「原本と照合した方は」


「私だけです」


「写し終えたあと、原本は」


「秋の第1月8日朝、ガスパル教授へ提出しました。学院研究棟南側の教授室です。教授が施錠棚の上から二段目へ入れました」


「その後、見ましたか」


「十一日に助手契約を解除されるまで、見ていません。今もそこにあるかは知りません」


 原本の現在位置は、確認できなかった。


 学会事務局が「保管部署を照会中」と回答した理由ともつながるが、教授室にあると断定はできない。


「原本は、あなたの所有物ですか」


「物理的な帳面は学院の研究費で買われ、研究室の記録として管理されていました。私個人の所有だとは主張しません」


「元の測定値と記述の作成者は」


「測定は私と現地補助者。記録は主に私です。区画ごとの収量帳は、農家と水車管理者が持っていました。研究室へ提出した集計表は私が作りました」


「研究成果の名義と公表前確認について、契約はありましたか」


「ありません。助手は教授の指示に従うものだ、と言われていました」


 物理帳面の所有。


 測定と記録の作成。


 研究成果の著者名。


 公表権。


 同じ一つの権利ではない。


 五年前の研究室では、その区別が書面にされていなかった。


 * * *


「収量の集計を変える指示は、誰から受けましたか」


「ガスパル教授です。口頭でした」


「他に聞いた人は」


「同じ研究室の助手が一人、教授室の入口にいました。名前は、本人の許可なく言いません」


 新しい証言候補は現れた。


 けれど、名前も意思も未確認である。証人として数えない。


「指示の内容は」


「作付けを減らした二区画と、途中放棄した一区画は、管理条件が変わったとして総収量の主表から外す。残る畝は、作付けを継続した畝当たりへ換算する。短期増収の効果を、管理失敗で薄めるな、と」


「発表論文は、六区画すべてが九割以上へ戻ったとしています」


「だから異議を出しました。除外した三区画まで、回復区画のように読める。総作付面積を示さず、継続畝当たりだけを使えば、村全体の収穫が減ったことが消えると」


「教授の返答は」


「政策を止めれば、翌年の食料が減る。長期影響は追加研究で確かめればいい、と」


「あなたは、追加研究を提案した」


「はい。題目案も出しました」


 エミルは二冊目の末尾を指す。


「翌日、記録管理違反、命令不服従、測定値改変を理由に、助手契約を解除されました。無断で写しを作ったことは事実です。けれど、測定値は変えていません」


「正式な処分書は」


「原本を学院へ返しました。控えはありません」


 学院の人事記録と倫理記録を照会する必要がある。


 エミルの証言だけで、処分理由は確定しない。


 * * *


「復讐したいですか」


 アウレリアが尋ねると、エミルはしばらく黙った。


「五年前なら、したかった」


 作業場の向こうで、金槌の音が続いている。


「今は、私の名前が論文へ戻るだけなら、ここで農具を直している方がましです」


「では、なぜ面会を」


「弟の手紙に、元助手の近親者だと申告して、閲覧を止めたと書いてありました」


 エミルはルカを見る。


「私のとき、研究室では、教授の名前があれば手続きはいらないと言われた。止まって確かめる人がいるなら、話してもいいと思った」


「望む結果は何ですか」


「若い助手が、教授に逆らっただけで記録ごと消されない規則です」


 エミルの声は静かだった。


「原記録を教授一人の部屋へ集めない。助手も写しを持てる。著者名と貢献を公表前に確認する。異議を出した人を、同じ教授だけで処分できない。私の復職より、そちらを先にしてください」


 復讐ではなかった。


 自分と同じ目に遭う者を、次に作らないための希望だった。


 アウレリアは、五年前の元助手を、失敗した研究者としてではなく、これからの規則を提案する人として見た。


「日誌の今後の利用について、選んでください」


 アウレリアは用途を分けた書面を出した。


 二人が全頁を閲覧し、村記録と公表論文へ照合する。


 独立した研究倫理担当が決まった後、写し一部を封印提出する。


 学会で一部を引用する。


 公衆へ全文を公開する。


 名前を出して証言する。


 エミルは一つずつ読んだ。


 最初の二項目に同意した。


 学会での引用と全文公開は、今は不同意。


 名前を出した証言は、独立した聞取者、全文記録、本人校正、住所非公開を条件に同意した。


「あとで変えられますか」


「提出済み記録の回収可否は手続きごとに違います。これからの利用は止められます。今日の回答を、将来すべての利用への同意にはしません」


 エミルは署名した。


 ルカへ与えた保管許可も書面化した。写本二冊はエミル所有。ルカは保管者。アウレリアは所有者の許可範囲で閲覧できる。第三者寄託、複写、提出は、今回選んだ条件に従う。


 紛失や水濡れ、封印破損があれば、新しい閲覧を止め、エミルへ書留で報告する。


 面談記録は三人で読み、エミルが二か所を訂正した。訂正前の語を消さず、線と理由を残す。


 日誌は旧封蝋片と当日の封蝋片を別袋に入れ、新番号で再封印する。三人が番号と時刻を確認した。


 新封印番号と時刻まで保管記録へ追記してから、完成した同文三部へ署名し、各自が一部ずつ持った。


 封印した木箱はルカの施錠鞄へ戻した。修理場を出る前に三人で、封印番号、箱の傷、鞄の錠を照合した。


 * * *


 帰り際、エミルが弟を呼び止めた。


「守ることと、隠すことを同じにするな」


「わかってる」


「昨日までは、わかってなかっただろ」


「……はい」


 ルカが兄へ頭を下げた。


 アウレリアは、その謝罪を自分へのものとして受け取らなかった。


 信頼が戻ったわけでもない。


 それでも、帰りの宿へ向かう道で、ルカは半歩後ろではなく、隣を歩いた。


 アウレリアは止めなかった。


 翌九日朝、二人は定期馬車へ乗り、午後に王都へ戻った。


 乗車前と王都到着後にも、二人で封印番号、箱の傷、鞄の錠を照合し、旅程記録へ残した。


 学会まで、あと六日。


 元助手の名前は、今度こそ、本人が選んだ条件とともに記録された。


 名前を載せることは、名誉を飾るだけではない。誰が考え、誰が測り、誰が責任を負えるのかを残して、成果を権威ある一人の所有物にさせないために必要だった。


お読みいただき、ありがとうございます。


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