消された五年間
「僕の兄です」
ルカがそう告げたあと、王都の往来だけが変わらず騒がしかった。
春の第2月5日、夕方。
アウレリアは、学会宿の玄関まで残り半区画の場所で立ち止まっていた。
「お兄様の名前は」
「エミル・フェルナー。五年前まで、ガスパル教授の研究助手でした」
五年前。
ミューレに王都の学者が来た年。
ガスパルの論文が発表された年。
ルカの指が論文頁で止まった理由が、ようやく一つの形になった。
「どこまで知っていたのですか」
「ここでは話せません」
「質問へ答えてください」
「答えます。そのために、人目のない部屋へ移りたい」
正しい提案だった。
正しいことが、腹立たしかった。
アウレリアは返事をせず、宿へ向かって歩き出した。
* * *
学会宿の面談室は、事務官へ申請すれば二人以上で使える。
利用者名、開始時刻、終了時刻を記し、退室後に係員が机と窓を確認する。宿泊室へ第三者を入れるより、資料を広げるには安全だった。
ルカは自室から、油布に包まれた薄い木箱を持ってきた。
箱には、彼の個人印を押した封蝋が三か所ある。
「ミューレを出る前、第1月30日の夜に私物箱から取り出しました。油布と木箱の状態を確認し、封印番号と時刻を自分の手帳へ記録しました。出発後は、衣類箱とは分けて手元の鞄に入れています」
「立会人は」
「いません。存在を誰にも話していませんでした」
「では、第1月30日より前の保管状態を証明できるのは、あなたの証言だけですね」
「はい」
ルカは言い訳をしなかった。
箱を机へ置き、封印番号を読み上げる。アウレリアは触れず、自分の紙へ番号と現在時刻を記した。
「開けても?」
「わたくしに尋ねることではありません。所有者は誰ですか」
「兄です。五年前、僕へ保管を託しました。同じ被害を受ける研究者が現れたときは、内容を明かしてよいと言われています。ただし、公開や譲渡まで無制限に許されたわけではありません」
「わたくしが該当すると、あなた一人で判断したのですか」
「はい」
それも、記録すべき判断だった。
ルカは封蝋を切った。
中には、布で別々に包んだ二冊の薄い帳面が入っていた。
表紙に、エミル・フェルナーの名。
その下に、「実験日誌抜粋写し」とある。
「原本ではありません」
「いつ作られた写しですか」
「兄の説明では、研究室を追われる直前の三日間です。助手用原本の日付と頁番号を付け、必要箇所を手で写した。僕は作業に立ち会っていません」
「原本との照合者は」
「兄だけです」
「紙と墨の年代確認は」
「していません」
「五年間、内容を書き換えていないことを示す第三者記録は」
「ありません」
日誌写しは、存在しただけで真実にはならない。
作成者の記憶違い。
転記誤り。
後からの書き込み。
兄を守りたいルカ自身の利害。
すべてを検討する必要がある。
それでも、二冊を目の前にしたとき、アウレリアの胸に最初に生まれたのは、研究上の慎重さではなかった。
「あなたは、最初からミューレとお兄様の研究が関係すると知っていたのですか」
声を平らに保ったつもりだった。しかし、膝の上で組んだ指には力が入り、手袋の縫い目が食い込んだ。疑われて傷ついた記憶があるからこそ、疑う根拠を曖昧にはできなかった。
「知っていた、とは言えません。兄の写しに試験地名はありません。旧水車、斜面のリンゴ園、六区画という記述から、北東部のどこかだと疑っていました」
「だから、辺境行きへ同行した」
「理由の一つです」
「わたくしには、確かめたい仮説があるとだけ言いました」
「その時点では、それ以上を話せば兄の情報を許可なく――」
「共同研究契約を結ぶ前は?」
ルカが黙った。
「ガスパル論文と村記録の不一致を見つけた、第1月18日の夜は?」
「話すべきでした」
「学会へ原資料閲覧を申請する前は?」
「話すべきでした」
「では、なぜ今日まで黙っていたのですか」
声が硬くなる。
一年前のアウレリアなら、正しい質問を並べれば十分だと思っただろう。
今は、自分が何に傷ついているかも言葉にしなければならない。
「わたくしは、あなたを共同研究者として契約しました。契約書に利害関係の開示条項はありません。それでも共同研究者なら、研究判断へ影響する関係は共有すべきだと考えていました。それなのに、あなたは、わたくしが村人へ資料の利用目的を説明している横で、自分の最も大きな利害関係を隠していた」
「はい」
「わたくしの研究を、お兄様の証拠を探すために利用しましたか」
「利用したくないと思いながら、利用しました」
否定されるより痛かった。
「あなたの測定値は」
「変えていません」
「都合のよい地点を選びましたか」
「選んでいません。選定基準は事前に二人で決め、候補九群も同じ手順で記録しました」
「村記録の照合で、見せなかった資料は」
「ありません」
「その回答を、今のわたくしは、以前と同じようには信用できません」
ルカは目を伏せた。
「当然です」
謝罪を求めていたわけではない。
けれど、当然だと受け入れられると、怒りの置き場所がなくなった。
* * *
「兄は、研究室を追われました」
ルカは、帳面へ手を置かずに話し始めた。
五年前、エミルはガスパルの助手として、豊穣加速法の試験地を巡回した。
導入直後の収穫は増えた。
しかし、その後に周辺魔力が下がり、次の作付けでは発芽遅延と収量低下が出た。
エミルは遅れて現れる変化を追うため、観察期間の延長と、総作付面積を含む収量比較を求めた。
ガスパルは、作付けを減らした区画と途中放棄した区画を「管理条件の変更」として主集計から外すよう指示した。
「兄が拒んだあと、原本は研究室へ提出させられました。発表された論文では、兄の名が謝辞からも消え、六区画すべてが導入前の九割以上へ戻ったと書かれた」
「それは、お兄様の説明ですね」
「はい。日誌写しと一致しますが、兄の説明と兄が作った写しが一致しても、独立した二つの証拠にはなりません」
ルカは一冊目を開いた。
頁の上部には、原本頁番号と写した日付がある。
アウレリアは、まず最初の頁を、席を立たずに読んだ。
試験地記号は、G一からG六。
旧水車からの距離。
斜面の向き。
作物。
測定時刻。
ミューレの旧図と似ている。
だが、似ているだけでは同一地と断定できない。
次の頁には、加速法導入後の収穫増加。
さらに数頁後には、周辺魔力の低下と、翌作の発芽遅延。
欄外に、本文と同じ筆跡で短い文があった。
総面積ではなく、作付けを継続した畝当たりへ統一せよ。
誰の指示かは、文だけではわからない。
署名もない。
「この文は、誰の指示ですか」
「兄は、ガスパル教授の口頭指示を書き留めたと言っています」
「証明はできません」
「はい」
二冊目の最後には、研究題目の案があった。
豊穣加速法使用後に生じる遅発性地脈魔力低下の観察。
著者予定欄は、エミル・フェルナー。
その下に、指導者ガスパル・ヴァルモン。
実際に発表された題目は違う。
著者はガスパル一人だった。
研究題目の案も、本人が後から書ける。
それでも、ミューレの記録とガスパル論文の間にある五年間の空白へ、初めて人の名前が入った。
* * *
「なぜ、守ったのですか」
アウレリアが尋ねた。
「日誌をではありません。秘密を」
「兄は、研究倫理違反の責任を負わされました。写しの存在を早く出せば、保管場所を探られ、兄がまた嘘つきと呼ばれると思った。ガスパル教授の管理下で出せば、消えるとも考えました」
「わたくしも信用できなかった」
「最初は」
「いつから信用したのですか」
「失敗を卒論へ書いたときです」
それは、一年以上前だった。
「なら、その後の沈黙は説明できません」
「怖かったんです」
ルカの声が、わずかに揺れた。
「兄を守る理由が、話さないための言い訳に変わっていました。あなたが村で信用を得るほど、今さら言えば失うものが増えた。だから、原資料が見つかってから話そうと先延ばしにした」
証拠保護の判断には、理解できる部分がある。
共同研究者への不開示には、理解しただけでは済まない部分がある。
両方が同時に存在していた。
「申し訳ありません」
「今は、許すとは言えません」
「はい」
「共同研究契約も、何もなかったようには続けられません」
ルカの顔が強張った。
「ただし、今夜ここで解除もしません。怒りだけで研究と雇用を決めれば、以前のわたくしと同じです」
アウレリアは、新しい紙を出した。
日誌写し二冊。
物理的な写本の所有者はエミル・フェルナーであると、保管者ルカが申告。表紙名以外の確認は未了。元の研究データの帰属と公表権も未確認。
保管者ルカ・フェルナー。
第一月三十日以前の保管はルカ証言のみ。
本日、封印番号確認後に開封。閲覧者は二名。
アウレリアは一部頁を閲覧したが、転記も複写もしない。
学会、農政会議、第三者へ提供しない。
エミル本人へ、作成経緯、原本所在、利用意思を確認するまで証拠として提出しない。
「これで正しいですか」
「一か所、足してください」
ルカは紙の末尾を指した。
「保管者が研究上の利害関係を、共同研究者へ第二月五日まで開示しなかった」
自分に不利な一文だった。
アウレリアは、そのまま書いた。
「内部記録だけでは足りません」
アウレリアは、続けて翌朝の手続きを記した。
王立魔法植物学会には、原資料閲覧申請の手続きを一度保留し、共同申請者の一人であるルカが五年前の元助手の実弟であることを利益関係として追記する。独立した担当者が、申請を再開するか判断するまで閲覧しない。
王立農政会議には、「農議六三三号二七」の補足書として同じ近親関係を申告する。政策提案の資料と結論を変更するものではないが、ルカの関与を隠さず、審議側が扱いを判断できるようにする。
日誌の存在と内容は、エミルの同意を得るまで、どちらにも記さない。
「今日、殿下へ利益関係の申告を求めたばかりです」
「はい。自分には適用しないところでした」
「わたくしも、あなたの開示を待つだけでなく、質問すべきでした」
「それで僕の不開示が軽くなるわけではありません」
「軽くするために書くのではありません。次に同じ見落としをしないためです」
切った旧封蝋片は番号を書いた小袋へ入れ、日誌と一緒に木箱へ戻す。ルカが新しい封印番号を読み上げ、アウレリア立会いで再封印した時刻を記録へ追記した。
追記まで終えた記録へ二人で署名し、同文二部を一部ずつ持つ。アウレリアの一部は、自分の鍵付き書類箱へ収めた。
日誌はルカが保管を続ける。所有者から第三者への寄託許可を得ていないため、宿の金庫へは預けない。本人の施錠鞄で常に手元管理し、紛失・破損時の手順はエミル本人へ確認してから決める。
「お兄様は、今どこにいますか」
「王都の南門から定期馬車で半日です。故郷で農具を直し、畑を耕しています」
「明日、面会を求める書簡を送ります。訪問目的、二人で行くこと、日誌の利用を断っても不利益がないことを書きます」
「僕が書きます」
「共同で書きます。あなた一人の家族問題でも、わたくし一人の研究でもありません」
信頼は、元に戻っていない。
だからこそ、一人で決めない手順が必要だった。
退室時、二人は開始時刻と終了時刻を記し、机に紙片が残っていないことを係員と確認した。
廊下へ出ても、ルカはいつものように隣へ並ばなかった。
半歩後ろを歩いている。
アウレリアは、それを直すようには言わなかった。
証拠の来歴を確かめることは兄弟を疑うためではない。消された研究を、今度こそ誰にも崩されない形で本人へ返すためだった。
消されていた五年間は戻らない。
けれど、消された名前を確かめるための最初の頁は、ようやく開かれた。
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