悪女の帰還
「婚約解消は、春の第1月211日付で正式に承認された」
父オスカーの私信を、アウレリアは二度読んだ。
王国暦六三三年、春の第1月24日。ミューレ村へ届いた王家の認証写しには、国王、ラウレンツ王家、ローゼンベルク公爵家の承認印がそろっていた。
王太子が祝賀会で行った宣言は、正式手続きより前の不適切な公表と記録された。婚約は二十一日をもって解消し、アウレリアの持参財と相続上の権利に変更はない。
承認まで一年を要したのは、王家側の公表責任、贈答品と持参財の返還範囲、公式記録の文言を両家が別々に協議したためだった。どの条件も婚約の継続を望んだ結果ではなく、曖昧な責任をアウレリアへ残さないための調整だったと、父の添付書は説明していた。
オスカーが命じていた、正式解消までエリオットへ接触しないという制限も、同日で終わる。
ただし私信の最後には、こうあった。
接触できることと、接触する必要があることは別だ。
「お父上らしいですね」
ルカが言った。
「先日も同じ感想を聞きました」
「同じ人が書いた手紙ですから」
アウレリアは、王家の認証写しを鍵付き書類箱へ収めた。
今すぐエリオットへ会いに行く必要はない。
けれど王都で政策資料を正式に提出するなら、農政会議へ出席している彼と話す可能性はあった。
それを避けるために、村の記録を遠回りさせるつもりもなかった。
* * *
資料利用の回答期間は、第1月29日に終わった。
同意は、一括では集めなかった。
市場組合は、客名と店別売上を除いた開催集計の使用を認めた。
水車共同管理者は、個人名を外した運転時間、停止理由、製粉量の月別集計を認めた。
ガスパルの論文と比べられる三つの区画については、所有者が収量帳の閲覧を認めてくれた。見せるのは必要な頁だけで、村人の名は区画記号に置き換える。
残る三区画は、作付縮小と放棄を示す集計への使用だけを認めた。収量値の直接比較には使わない。
ゲルトは、エマの帳面から、豊穣加速法導入前後の開花と収穫を記した指定頁だけを許可した。エマの名とゲルトの許諾を表示し、発表後は写しを返す条件である。
リナは、泥の地図を王都へ送らなかった。
「今回は、畑の収量の話なんですよね」
「はい。水分と通行範囲を確かめる補助にはなりますが、資料の限界も含めて説明すると、発表の主題が分かれます」
「じゃあ、置いていきます」
役立つかもしれない資料を、すべて持ち出す必要はない。
リナ自身が選び、マルタも同意書へ不同意と書いた。アウレリアは理由を尋ねて変更を促さず、村に残す資料選定記録へ「不使用」と記した。学会へ送る目録には、泥の地図の存在も載せなかった。
第1月30日、許可された写しの番号、所有者、利用範囲、返却条件を一覧にし、学会へ公的便で発送した。第2月5日の期限より前に届く日程である。
原本は一冊も箱へ入れなかった。
* * *
春の第2月1日朝、アウレリアとルカはミューレ村を出発した。
イルザとテオは、第一観察室の入口で手順を読み上げた。二人で入り、水や病気、漏れがないかを確かめる。危険があれば鉢を動かさず施錠し、マルタへ知らせる。
留守にする前と、同じ手順だった。
「毎日、同じ時刻帯。見ていない欄は埋めない」
イルザが言う。
「屋根か排水に異常があれば、俺の判断で立入禁止にする。研究の都合で入らない」
テオが続けた。
再訓練の確認書には、二人とアウレリアとルカが署名している。短期契約の賃金も、帰村予定日まで信託の別勘定へ確保した。
「問題ありません」
アウレリアが言うと、マルタが眉を上げた。
「寂しいとは言わないんですか」
「四日目の夕方には王都へ着き、学会後に帰ります」
「帰るんですね」
その問いの意味を、アウレリアは少し遅れて理解した。
「はい。戻ります」
追放先へ戻るのではない。
自分の仕事と生活がある村へ帰る。
口にしてみると、その違いは思ったより大きかった。
* * *
三泊四日の旅を終え、第2月4日の夕方、馬車は王都の北門を通った。
一年前に見た街路と同じはずなのに、人の数も、建物の高さも、音の多さも落ち着かなかった。
学会が用意した宿へ着く前に、馬車は王立エルデ学院の正門前を通る。
掲示板には、臨時研究会の発表予定が張り出されていた。
アウレリア・ローゼンベルク。
ミューレ村における豊穣加速法導入後の長期記録。
門前にいた学生の一人が、馬車の紋章を見て囁いた。
「温室の悪女が帰ってきた」
別の学生が答える。
「でも、あの人の辺境報告、学会で読むんだろ」
「苔で村を治したって話?」
「治したとは書いてないらしい」
悪評も残っている。
成果は、すでに成果以上の物語へ変わり始めている。
アウレリアは馬車の窓を開けた。
「月眠り苔で村を治した事実はありません」
三人の学生が飛び上がった。
「一部条件で、土壌魔力低下を緩やかにする可能性を報告しました。内容審査は未了です」
「す、すみません」
「訂正していただければ結構です」
馬車が進み出す。
向かいに座るルカが、口元を手で隠していた。
「何ですか」
「伝え方を選ぶようになりましたね」
「以前なら、どのように言ったと思いますか」
「根拠のない噂を広げるな、と」
「間違いではありません」
「今の方が、訂正されると思います」
それなら、変えた価値はあった。
* * *
翌朝、二人は学会事務局へ資料箱を届けた。
発送した資料目録は、第2月3日に期限内受領されていた。事務官とともに、目録、写し番号、封印、所有者、返却条件を照合する。資料箱の受領は、第2月5日午前九時十八分だった。
原データの閲覧申請も提出した。
対象は、ガスパルの五年前の論文に使われた六区画の試験地記録、収量定義、作付面積、除外記録、測定者一覧。学会規程に基づく確認であり、ガスパル個人の許可だけで拒否や開示を決めないよう求めた。
事務局の回答は、「原資料の保管部署を照会中」だった。
同日午後、アウレリアは王立農政会議の文書受付へ向かった。
ミューレだけでなく七農村から異常報告が届いているなら、学会発表だけでは遅い。原因を決めつけずとも、各地で同じ項目を残す共通記録様式と、豊穣加速法の新規導入を一時保留する基準を、政策資料として審議させる必要があった。
受付室の扉が開く。
金髪の青年が、二人の書記官を伴って出てきた。
エリオットだった。
一年前より少し痩せ、胸には王太子の徽章ではなく、農政会議視察参与の小さな徽章を付けている。
王命による半年間の会議出席と被害地視察を終えた後、エリオットは継続を願い出た。現在は採否の決裁権を持たない視察参与として、農村報告の整理と現地確認を担当している。
青い瞳がアウレリアを認め、足を止めた。
「アウレリア」
呼びかけたあと、彼は言い直した。
「ローゼンベルク嬢。戻っていたのか」
「学会の招待で、昨日到着しました」
アウレリアは礼をした。
胸の奥に、昔の痛みがまったくないわけではない。
けれど、その痛みはもう、彼の隣に立つ未来の形をしていなかった。
「婚約解消の認証写しは受け取りました」
「僕も受け取った。あの夜の公表は、間違っていた」
書記官がいる廊下で、彼は視線を逸らさなかった。
「謝罪については、正式な場を設けたい」
「本日は、その相談ではありません」
エリオットの口が止まる。
アウレリアは資料概要を差し出した。
「豊穣加速法を使った地域で、同じ形式の記録を取るための提案です。危険が疑われる場合、新しい導入をいったん止める基準も添えました」
アウレリアは、表紙に記した二人の名を指で示した。
「提案者は、わたくしとフェルナーです。殿下個人ではなく、農政会議の正式な資料として受け取ってください。誰が担当するのかも、記録に残していただきます」
「利益関係?」
「殿下は豊穣加速法を支持し、ガスパル教授の説明を根拠に、わたくしの研究姿勢を公に批判しました。提案を握り潰したと疑われても、特別に通したと疑われても困ります」
厳しい言葉だった。
それでも、以前のように人前で相手の誤りを並べるためではない。資料を、誰か一人の善意や罪悪感に預けないためだった。
エリオットは概要の表紙を見た。
「僕を信用していないんだな」
「手続きは、信用できる人だけがいるときのためにあるのではありません」
しばらくして、エリオットは書記官へ向き直った。
「通常の政策提案として受け付けてくれ。僕は関連する視察報告の整理と現地確認から外れる。正式な審議と採否判断には加わらず、利益関係の申告も付ける」
書記官はその場で受付簿を開き、資料名、提出者、頁数、写し部数を読み上げた。
受付番号は「農議六三三号二七」。
原資料ではなく、アウレリアとルカ名義の政策概要と、村の委任・個別同意の範囲で引用した記録、同意済み写しの所在一覧だけを受領する。閲覧が必要な場合は、資料所有者へ別途申請する条件も記された。
アウレリアは控えへ押された印を確認した。
「ありがとうございます、殿下」
「礼を言われることではない」
「正しい手続きを選んだことへの礼です」
エリオットは、わずかに苦い顔でうなずいた。
「学会で、君の発表を聞いてもいいだろうか」
「公開範囲の席であれば、わたくしに拒む権限はありません」
「相変わらずだな」
「以前より、少しは伝わるように話しているつもりです」
「……そうだな。以前より、僕には痛いほど伝わる」
復縁の言葉はなかった。
アウレリアも求めなかった。
二人の間に残ったのは、失われた婚約ではなく、受付番号の付いた一冊の政策資料だった。
* * *
学会宿へ戻る道で、ルカはほとんど話さなかった。
「疲れましたか」
「いいえ」
「では、何を考えていますか」
ルカは、五年前の原資料閲覧申請の控えを見た。
「原本の保管部署がわからないなら、見つからない可能性があります」
「写し、引用記録、当時の助手、試験地側の原本を追います」
「その前に、話すべきことがあります」
彼の声から、いつもの軽さが消えていた。
「五年前、ガスパル教授の助手だった人物についてです」
ルカは立ち止まる。
「僕の兄です」
琥珀色の目が、初めてアウレリアから逸れた。村で幾度も同じ机を囲んだ距離が、その一言で急に測り直される。
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