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婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第二章_新しい村へ

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最後のリンゴ園・後編

「一か所だけなら、試してもいい」


 春の第3月27日、朝。


 ゲルトは麦穂亭の食堂へ来ると、挨拶もせずに言った。


 灰色の顎髭は、親指で何度も撫でた跡が一方向へ寝ている。断る理由と、試す理由を、丘を下りるまで比べ続けてきたのだろう。


「一か所とは、どの範囲ですか」


「まだ何も決めてない」


「では、決めるところから始めます」


 アウレリアは白紙を三枚出した。


 一枚目は、リンゴ園で行う小区画観察の説明。


 二枚目は、土壌採取と月眠り苔移植の同意。


 三枚目は、エマの帳面の限定利用に関する確認だった。


「帳面まで実験に入れるのか」


「入れません。別の同意です。最後の一本に関係する頁だけを番号で指定して複写し、木の識別と過去の開花日を確認したいと考えています。原本は持ち出しません。記録作成者はエマさん、原本所持者兼利用許諾者はゲルトさんと記します。公表は、あなたが複写を確認した後です」


「断ったら?」


「帳面を使わず、現在からの記録だけで観察します」


 ゲルトは三枚を、時間をかけて読んだ。


「苔は、どこから持ってくる」


「リンゴ園の石垣です。リナが雨後に光ると記録していた場所を、昨日、あなたの許可を得て外から確認しました。月眠り苔の候補ですが、旧温室のM1とは別か、自然由来かは未確認です」


 石垣の苔は、一続きの群落だった。


 そこから分けた三片を三つの標本とは数えない。まして、条件付き合格に必要な独立群にも含めない。


「移す量は、輪郭面積の八分の一未満に限ります。専用の手袋と採取具を使い、採取前後の範囲を図と輪郭記録枠で記録します。石垣側も観察を続け、減少が広がれば中止します」


「輪郭記録枠?」


「輪郭を紙へ写す枠です。絵と寸法を残します」


「最初からそう言え」


 ゲルトは、三枚すべてへ署名した。


 許可された帳面の頁は、ゲルト立ち会いでマルタが複写した。原本と写しを一頁ずつ照合し、ゲルトが写しの末尾へ署名する。複写作業は時間と対価を定めた一日契約にし、マルタには中止権も明記した。


 写しにも許可頁の番号を記し、利用は、この園の小区画観察と木の識別に限定した。第三者への再提供は禁止。公表前に、ゲルトが該当箇所を確認する。写しは第一観察室の施錠棚へ置き、閲覧者をアウレリアとルカに限る。観察終了後は、ゲルトが返却か廃棄を選ぶ。


 ようやく、探索的観察を始める準備が整った。


 * * *


 園の中には、最後の一本から十分離れた平らな場所を選んだ。


 木の根へ直接影響させる試験ではない。まず、園の土で月眠り苔が維持できるか、周辺魔力と水分がどう動くかを見るための小区画である。


 処置前の水分と土壌魔力に大差がない場所へ、同じ広さの区画を三つ置いた。位置を先に決めてから、札を引いて条件を割り付ける。


 一つ目は、石垣の月眠り苔候補を決めた面積と重量だけ移す区画。


 二つ目は、苔区と同じ被覆面積と厚さにそろえた、魔力を持たない繊維の保湿材区画。


 三つ目は、地表を変えない無処置区画。


 各条件は一つしかない。同じ斜面の近い場所で、地下の水や魔力が行き来する可能性もある。結果は区画固有の探索的な経過として扱い、苔の効果を証明するものにはしない。


「一つずつで、意味があるのか」


 ゲルトが尋ねる。


「大きな結論には使えません。ここで枯れる、広がりすぎる、乾燥するなどの危険を先に見つける意味はあります」


「最後の一本の根元へ、確かめていない苔を直接置かずに済みます。効果を急ぐより先に、木へ近づけてはいけない条件を見つけるための区画です」


 採取前に、土壌の持ち主であるゲルトと、採取者二名が袋の表示を確認した。


 三小区画から同じ深さ、重量で土を採り、日付、時刻、地点を記して封をする。採取具は区画ごとに洗い、残余土は別袋で保管した。


 携帯魔力計は当朝校正済みである。土壌魔力は同じ容器と順番で測り、表示値と補正値を残す。周辺魔力は、各区画の中央で同じ高さから三回ずつ測った。


 三回は機器のばらつきを見る反復で、独立した三標本ではない。


 土の水分、気温、日照、風、給水量も記録する。給水の基準と一回量は三小区画でそろえた。


 三小区画すべてに、同じ材質、深さ、形の粘土板を巡らせた。苔区では板の外へ伸びた部分も確認する。観察範囲の拡大や追加採取は、ゲルトの再同意なしには行わない。


 移植した苔は、同じ時刻、同じ日陰で色見本と比べると、学院の鉢より薄い色に見えた。種の同定結果ではなく、外観の記録に留める。


 アウレリアは予定表へ、朝夕の観察時刻を書き込む。


「一日に何回見る」


「朝夕二回です」


「昼に乾いたら?」


「臨時観察として時刻と状態を記録し、決めた基準を超えた場合だけ給水します」


「俺が先に見つけたら?」


「観察者として記録してください。相談時間には対価を支払います」


「自分の畑を見るだけだ」


「観察記録として報告していただく時間は、畑の手入れとは別です」


 ゲルトは不満そうだったが、短期の観察契約へ署名した。


 開始時には、園の成木十七本を同じ順路で確認した。開花はゼロ。最後の一本の枝番号七には固い蕾が一つあり、写真の代わりに輪郭と寸法を記録した。


 朝夕の定時観察は、アウレリア、ルカ、ニーナ、ゲルトが担当表どおりに行う。ニーナとも期間、時間、対価、中止権を定めた短期契約を結んだ。学院へ届けた滞在期間は夏の第一月十五日までで、帰路の日程も変えていない。


 * * *


 最初の三日間、目立った変化はなかった。


 苔区の表面水分は少し高い日があったが、保湿材区も同じように高い。無処置区は昼に乾きやすいものの、翌朝には差が小さくなる。


 周辺魔力は、三小区画とも測定のばらつきの中で上下した。


「何も起きませんね」


 ニーナが言う。


「三日ですから」


「卒論のときのわたしなら、祝福を使いたくなっていたと思います」


「今は?」


「観察用紙の空欄を埋めます」


 ニーナは温度計を読んだ。


 一週間後、同じ時刻と日陰で色見本に照らすと、苔の葉色は一段だけ濃い側へ移った。


 だが、移植直後の水分変化か、園の環境への適応か、魔力との関係かはわからない。


 二週間後、輪郭記録枠で測ると、苔区の縁が最大1・8センチ広がった。


 事前に決めた中止基準未満だった。けれど、増えたという一回の結果だけで、安全とも言えない。


 アウレリアは毎日、同じ文を書いた。


 観察継続。


 結論保留。


 待つことは、何もしないことではなかった。


 条件をそろえ、変化がなくても記録し、手を加えたい理由が焦りだけではないか確かめる作業だった。


 * * *


 夏の第1月14日、朝。


 観察開始から十八日目。


 ゲルトが、観察時刻より早く麦穂亭へ来た。


「咲いた」


 その一言で、アウレリアは記録用紙を持って立ち上がった。


 丘の一番上。


 幹の曲がった、エマが最後に選んだ木。


 葉の間に、白い花が一輪だけ開いていた。


 ほかの枝は、まだ固い蕾か、芽吹かなかった先端ばかりである。


 ゲルトは花へ触れず、少し離れた場所に立っていた。


「エマが、次の春に見ると言ってた花だ」


 声が震えている。


「開花日は夏の第1月14日。平年より遅いですか」


「寒い年は夏の初めまでずれた。14日は、二十年の中でも遅い方だ」


「では、遅延開花として記録します」


 アウレリアは時刻、気温、前日の天気、枝番号を記した。


「苔のおかげか」


 ゲルトが尋ねる。


 小区画は、この木から十分離れている。観察期間は十八日。根の範囲も、魔力の移動も確認していない。


「わかりません。苔の効果だとは言えません。この木が以前から蕾を作っていた可能性もあります」


「そうか」


 落胆ではなく、確かめるような返事だった。


「ただし、この園で今年初めて確認した一輪です。エマさんの帳面と同じ方法で記載し、なかったことにはしません」


 ゲルトは花を見たまま、片手で目元を覆った。


 肩が、一度だけ大きく揺れた。


 ニーナが泣きそうな顔をする。


 ルカは何も言わず、観察位置を測った。


 アウレリアも、慰めの言葉を探さなかった。


 一輪は、回復の証明ではない。


 来年も咲く保証はなく、実になる保証はさらにない。


 それでも、二十年の記録の続きを書ける一輪だった。


「ローゼンベルク」


 ゲルトが、初めて敬称も悪女も付けずに名を呼んだ。


「帳面を写していい。エマの名前を消さないなら、研究に使ってくれ」


「利用範囲と公表方法を、改めて書面にします」


「今は、はいと言えばいい」


 アウレリアは少し迷った。


「はい。ありがとうございます」


 ゲルトは涙を拭い、鼻を鳴らした。


「それから、この苗を植える穴を見ろ。今度は、無駄だと言う前にな」


「はい。まず、一緒に条件を確認します」


 丘の上で、一輪の花が朝の風に揺れていた。


 誰も、それを奇跡とは呼ばなかった。


 記録には、ただ、今年最初の開花と書かれた。


お読みいただき、ありがとうございます。


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