最後のリンゴ園・中編
「帳面を見せてください、とは言いません」
春の第3月21日、朝。
リンゴ園へ続く坂道の下で、アウレリアはゲルトへ告げた。
園の境界を越えてはいない。
手には、前日の測定記録の写しと、一枚の手紙だけを持っている。
「二度と来るなと言ったはずだ」
「ですからここから先へは入りません。記録の写しを返しに来ました」
アウレリアは紙を道端の平らな石へ置いた。
「昨日、わたくしは苗を植えることを無駄だと言いました。苗の生存数と周辺魔力だけを見て、植える目的も、エマさんが二十年続けた仕事も聞かなかった」
ゲルトは黙っている。
「土壌を採取していないのに、土が原因だと決めつけました。研究上も誤りです。そして、あなたが守ろうとしているものを、知らないまま価値がないように扱いました。申し訳ありません」
「帳面が欲しいから謝るのか」
「いいえ。見せていただけなくても、謝罪は変わりません」
その答えを、アウレリアは昨夜から何度も確かめた。
記録を読みたい気持ちはある。
だが、謝れば資料が手に入るという取引にしてはいけない。
「手紙には同じ内容を書きました。返事は不要です」
アウレリアは頭を下げ、坂へ背を向けた。
「待て」
ゲルトの声が止める。
「昨日の数字はエマの木が駄目だと言ってるのか」
「いいえ。園内三地点の周辺魔力表示が低かったことしか示していません。木の価値も、土壌の状態も、それだけでは判断できません」
「最初から、そう言え」
「はい」
ゲルトは石の上の写しを取り、長い間、数字を眺めた。
「昼過ぎに麦穂亭へ来い」
それだけ言い、丘へ戻っていった。
許されたのが謝罪なのか、記録の説明なのかは、まだわからなかった。
アウレリアは、自分に都合よく解釈しなかった。
* * *
昼過ぎ、ゲルトは木箱を抱えて麦穂亭へ現れた。
箱の中には、大小二十七冊の帳面が入っていた。
布で綴じたもの。革表紙のもの。紙の端が煤で黒くなったもの。古い冊子ほど薄く、絵が多い。
「二十年分では?」
「一年で二冊使った年もある」
ゲルトは最も古い一冊をテーブルへ置いた。
「ここで読むだけだ。持ち出すな。写すな。勝手に人へ見せるな」
「承知しました。原本はあなたの所持品です。閲覧以外は行いません」
ルカもニーナも席から離れた。許可を得たのはアウレリア一人だけである。
マルタは食堂の奥へ客を案内し、窓からの風が帳面へ当たらないよう閉めた。
アウレリアは手を洗い、水気を拭き、ゲルトの前で最初の頁を開いた。
文字は、ほとんどなかった。
丸い木の絵。枝の先に花が三つ。雲の下に斜めの線。虫らしい黒い点。皿の横に、笑った顔と渋い顔。
「この斜め線は雨ですか」
「そうだ。二本なら小雨、四本なら一日中。黒い点は虫食い。皿は味見した日だ」
「笑った顔は甘い?」
「甘いだけじゃない。エマが、もう一度食べたいと思った実だ」
数値ではない。
だが、記号の定義があり、同じ意味で繰り返されている。
頁の右上には、木の位置を示す簡単な地図がある。金属札に刻まれた花、雪、虫、皿の記号と一致していた。
ゲルトの説明では、雪は遅霜に耐えた木。
花は、開花数の多かった木。
虫は、害虫被害を受けた木。
皿は、味を残したい木。
色紐は接ぎ穂を採った母木を示し、二色を結んだ枝は、台木と接ぎ穂の組み合わせを表しているという。帳面内で反復する記号とは照合できたが、色褪せた紐と初期の記号には意味の確定できないものも残った。
「これは、個体識別票です」
「難しい名前を付けるな」
「では、木を間違えないための札です」
「最初からそう言え」
昨日と同じ言葉だった。
けれど、声の硬さは少し違った。
* * *
閲覧を続ける前に、アウレリアはゲルトへ説明時間の対価を申し出た。
「自分の妻の話をして、金を取れと言うのか」
「帳面の所有権や研究利用の対価ではありません。毎日同席し、記号を説明していただく時間への相談料です」
ゲルトは断ろうとしたが、最終的に六日間だけの短期契約へ署名した。受け取った相談料は、園の水運びを手伝う者へ使うと言った。
第三月二十一日を初日として、二十六日まで六日間、閲覧は続いた。
毎日二時間。ゲルトの説明を受けながら、二十七冊の全体構成と、札、接ぎ木、最後の一本に関係する頁を予備的に確認した。全冊を通読、解析したわけではなく、メモも取っていない。
その日の終わりに冊数と頁の状態を二人で確認し、ゲルトが木箱ごと園の物置へ持ち帰った。
三冊目から文字が増えた。
エマは天気を短い言葉で書き、花が開いた日、実が落ちた数、虫を見つけた枝、葉の斑点、収穫した実の重さを残していた。
味は、甘味、酸味、香り、硬さの四つに分けている。秤を手に入れる前は、大、中、小の木片を実と並べて描き、後の年に同じ木片で大きさを比べていた。
測定器がなくても、比較条件をそろえようとしている。
接ぎ木は、一年の結果だけで残していない。少なくとも三回実るまで見て、霜、病気、味のうち二つ以上に問題があれば、次の接ぎ穂には選ばなかった。
「正式な教育を受けていないと聞きました」
「字は、マルタの親父に習った。計算は市場で覚えた」
「この帳面は、長期観察資料として価値があります」
ゲルトの指が、頁の端で止まる。いつものように顎髭へ逃げず、紙から離れない。価値があると言われたのが帳面なのか、エマの二十年なのかを、聞き分けようとしていた。
「残した枝と失敗した接ぎ木を照合できれば、次の苗を選ぶ手順をゲルトさん一人の記憶だけにせず、村へ残せます」
「気を遣ってるのか」
「いいえ。欠測日はあります。雨量は記号で、正確な量ではありません。味の評価者も主にエマさん一人です。限界はあります」
ゲルトの眉が寄る。
「ですが、同じ木を識別し、同じ記号を使い、条件を二十年追っています。欠測も消さず、失敗した接ぎ木も残している。価値があるという判断に、気遣いは入れていません」
「一方、この帳面には土壌魔力の測定がありません。接ぎ木の違いと、天候、土、手入れの影響も完全には分けられない。園の魔力枯れの原因や、品種の性能を、この帳面だけで証明することはできません」
「褒めてるのか、けなしてるのか、わからんな」
「限界のない資料はありません。限界を書ける資料は、信頼できます」
ゲルトは何も言わなかった。
ただ、次の一冊を自分から差し出した。
* * *
二十年目の帳面は、途中で終わっていた。
最後の頁には、春の芽吹きが遅い三本と、枯れなかった一本が描かれている。
その下に、震えた文字があった。
来年は、この一本から枝を取る。
ゲルトなら、雪の札を覚えている。
「この文字は、いつ書かれたのですか」
「寝込む少し前だ。手が震えて、線が真っ直ぐ引けなくなってた」
「それでも、翌年の選抜の木を残したのですね」
「自分が見られなくても、木は次の春を迎えると言ってた」
ゲルトの声が、そこで初めて掠れた。
アウレリアは慰めの言葉を探さなかった。知らない喪失を、わかったふりで埋めるべきではない。
代わりに、頁の文字をもう一度、最初から読んだ。
「この一本は?」
アウレリアが尋ねる。
「まだ生きてる。丘の一番上、幹が曲がった木だ」
「未植栽の苗三本は、その木から?」
「あの枝を接いだ。台木は、エマが最後に選んだ種から育てた」
でたらめではなかった。
ゲルトは、エマが残した選抜を続けようとしている。
ただ、土地の急な衰えが、二十年かけた手順より速く木を奪っていた。
「先日の言葉を、言い直します」
アウレリアは帳面を閉じた。
「苗を植えることが無駄なのではありません。現在の園ではエマさんが選んだ苗を守れる条件が不足しています」
ゲルトは、すぐには答えなかった。
「同じに聞こえる」
「違います。苗を諦めるのではなく、植える範囲を小さくし、土と水の条件を記録して、守れる方法を一緒に探したいのです」
「また実験台にするのか」
「無断では行いません。帳面も、閲覧許可以上には使いません」
アウレリアは複写や研究利用の同意書を出さなかった。
今はまだ、頼む段階ではない。
「考えておく」
ゲルトは二十年目の帳面を木箱へ戻した。
拒絶ではなかった。
けれど、承諾でもない。
アウレリアは、その違いを急いで埋めなかった。
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