最後のリンゴ園・前編
「その苗を植えても、育ちません」
春の第3月30日、朝。
アウレリアが告げると、ゲルトは土を掘る手を止めた。
土壌調査へ署名した日から、ゲルトが研究者への警戒を解いたわけではない。説明を聞くことと、二十年以上守ってきたリンゴへ口を出させることは、彼の中では別だった。
水路では肩を並べて働いた。その距離の近さを、園の中まで踏み込んでよい許しだと、アウレリアは無意識に取り違えていた。
水車が回り始めた翌日。
彼は共同水路へ背を向け、丘の上のリンゴ園で一人、若い苗を植えていた。
低地へ届いた水は、ここまで上がってこない。ゲルトの横には、共同井戸から運んだ二つの桶がある。
「見ればわかる」
ゲルトは灰色の顎髭へ土のついた親指を当て、短く答えた。それから、話は終わったとばかりに鍬を振り下ろした。
「では、なぜ植えるのですか」
「俺の畑だ」
「それは理由ではありません」
「お前に話す理由もない」
会話は三往復で行き止まりになった。
少し離れた場所で、ルカが額へ手を当てる。
ニーナは何か言おうとしてやめた。祝福事故の後、彼女は人の畑で先に口を出さないと決めている。
アウレリアはリンゴ園を見渡した。
丘の斜面に、成木が十七本。半数は枝先が枯れ、残る木も葉が小さい。
生きている若木は五本。そのうち古い年の札があるのは二本、今春の札は三本だった。ほかに、前年以前の札が残る枯死苗跡が四つある。
それでも、ゲルトは新しい苗を三本用意している。
幹には、小さな金属札が結ばれていた。年を示す数字のほか、花、雪、虫、皿のような記号が刻まれている。古い札ほど線は不揃いで、新しいものほど文字が増えていた。
接ぎ木された枝にも、色の違う紐がある。
アウレリアには、その意味がわからない。
ゲルトは水を与える前に札を確かめ、苗の位置を少しずらした。でたらめに植えているわけではなかった。
「土を測る許可をいただけますか」
「苗には触るな」
「触りません。周辺魔力と土の水分を、地表から測るだけです。採取は別に同意を得ます」
ゲルトは返事をしなかった。
「許可がなければ、測りません」
アウレリアが待つと、鍬の音が止まった。
「地面に穴を開けないなら、勝手にしろ」
「確認します。非採取測定と、位置と既存札の書き写しだけです。木と苗には触れません。記録は公表せず、写しをあなたへ返します」
「穴を開けないならな。写しは物置へ置け」
「面倒な女だ」
「よく言われます」
携帯魔力計は、当朝に三種類の校正石で確認してある。
園内略図へ、成木十七本、生きた若木五本、枯死苗跡四つ、未植栽苗三本の仮番号を振る。木へ新しい札は付けず、既存札、紐、位置を写し取った。記号の意味は未解読と記す。
斜面の上、中、下。成木の根元から同じ距離と高さで、三回ずつ測る。表示値と補正値を記し、土の表面水分、日照、傾斜も残した。
園内三地点の周辺魔力量は、いずれも低い表示だった。
ただし、同日、同地形の対照はない。春の第二月に採取して測った畑の土壌魔力とも比較できず、園の順位や土壌値は出せなかった。三地点で三回ずつ測ったのも、機器のばらつきを見る反復であり、九つの独立地点ではない。
「低いですね」
ルカが声を落とす。
「ええ。ただし、本日の園内三地点では、表面水分の差と周辺魔力量が同じ並びにはなりませんでした。それ以上は言えません」
斜面の下側は水分が比較的残っている。それでも、周辺魔力量は低かった。
一往復で運べる水は二桶。新しい苗だけでなく、弱った成木にも与えるなら、朝夕に何度も坂を下りる必要がある。水路を延ばすには高低差が足りず、別の汲み上げ方法が要る。
数字だけを見ても、継続が難しいことは明らかだった。
成木の幹には、古い接ぎ木の跡がある。一本の木へ、形の違う枝が何種類も継がれていた。
「これは、あなたが?」
「触るなと言った」
「見ているだけです」
「なら、黙って見ろ」
ゲルトは三本目の苗を穴へ下ろした。
穴の縁から見える範囲でも、細い根が底で曲がっている。土も硬かった。
「その植え方では、根が傷みます」
「毎年やってる」
「毎年植えた六本のうち、四本が枯れています」
ゲルトの手が止まる。
「数えたのか」
「見ればわかります」
先ほどの言葉を返したつもりはなかった。
だが、ゲルトの顔が険しくなった。
「現在の土壌では新しい苗を植え続けても無駄です。まず原因を調べ、回復を待つべきです」
ルカが、わずかに息を吸う音がした。
ニーナは目を伏せた。
ゲルトは鍬を地面へ置いた。
「無駄だと?」
「生存率から判断すればそうです」
「これはエマの木だ」
初めて聞く名前だった。
「品種名ですか」
「俺の妻だ」
風が、枯れた枝を鳴らした。
「あいつが二十年かけて選んだ。霜に耐えた木の種を取り、甘い実の枝を継いで、病気に負けた木は外した。学校なんぞ出てない。だが、毎年、自分の手で確かめた」
ゲルトは苗の根元へ土を寄せる。
「あいつが死んだからって、木まで終わったことにする気はない」
アウレリアは、ようやく自分の言葉が切ったものを理解した。
苗の生存率について言った。
けれど、ゲルトには、亡き妻の二十年を無駄だと言ったように聞こえたのだ。
「研究の価値を否定したわけでは――」
「研究?」
ゲルトが笑った。
「お前は、今ここで数字を三つ測っただけだ」
反論できなかった。
「帰れ」
「ですが、苗の根を――」
「帰れ!」
怒声が丘へ響いた。
アウレリアは測定器をしまった。
ここで正しい植え方を説明しても、聞かれる状態ではない。正しい内容なら届くと思うのは、以前の自分と同じだった。
「本日の測定記録は、許可なく公表しません」
「二度と来るな」
ゲルトは振り返らなかった。
* * *
丘を下りる間、誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、ニーナだった。
「ローゼンベルク様は、苗がかわいそうだと思ったんですよね」
「現在の条件で植えれば、高い確率で枯れます」
「それを、そのまま言ったんですね」
「事実です」
「はい。でも、事実を聞いたゲルトさんが何を失うかは、聞かなかった」
責める声ではなかった。
だからこそ、言葉が残った。
ルカが続ける。
「苗を植える目的を、最初に聞きました」
「答えてもらえませんでした」
「三往復で諦めましたからね」
アウレリアは足を止めた。
「では、どう尋ねればよかったのですか」
「今度は、答えを得るためではなく、話してもらうために考えましょう」
簡単な助言ではなかった。
測定器には、相手が話したくなる言葉までは表示されない。
* * *
麦穂亭へ戻ると、マルタは事情を聞いて大きく息を吐いた。
「よりによってエマさんの木を無駄って言ったんですか」
「木の研究を無駄とは言っていません」
「それを私に説明しても仕方ないでしょう」
アウレリアは黙った。
「エマさんは、亡くなる前の日まで帳面を付けてましたよ」
「帳面?」
「天気、花が咲いた日、実の数、虫、病気、味。二十年分。字を習ったのは大人になってからで、最初の頃は絵ばかりでしたけどね」
「その記録はどこにありますか」
「ゲルトさんの園の物置です。見せてもらえた人は、ほとんどいません」
アウレリアは、朝の自分の言葉を思い出した。
今ここで数字を三つ測っただけだ。
そのとおりだった。
エマが二十年見た土と木を、アウレリアは一朝で判断した。
「もう一度、話をしたいです」
「二度と来るなと言われたんでしょう」
「はい」
「なら、まず何を言うか決めてください。<帳面を見せてほしい>から始めたら追い返されますよ」
研究資料が欲しい。
その気持ちは、確かにあった。
けれど、それを先に差し出せば、また同じ間違いをする。
アウレリアは白紙を一枚取り出した。
謝罪文を書くためではない。
自分が何を傷つけたのか、まず正確に理解するためだった。
紙の左には、自分が確認した事実を書く。
園内三地点の周辺魔力の表示が低い。苗の生存率が低い。水運びが続かない。
右には、自分が確認せずに決めつけたことを書く。
土壌を採取していないのに、周辺魔力と生存数だけで土壌原因まで決めつけたこと。
苗を植える目的。エマの研究。ゲルトが守ろうとしているもの。
木を守る方法を考えるには、今朝測った数字だけでなく、二十年間どの枝を残し、なぜ次の苗へつないだのかを知る必要がある。研究の対象は土だけではなく、そこで続いてきた選択だった。
右側は、ほとんど空白だった。
アウレリアは、その空白を自分の推測で埋めなかった。
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