聖女、畑を巨大化させる
「祝福は使いません」
春の第3月1日、夕方。
四日間の乗合馬車を降りたニーナは、挨拶より先にそう宣言した。
「まだ、使うなとは言っていません」
麦穂亭の前で待っていたアウレリアは答えた。
「でも、手紙には祝福を使わずに学びたいと」
「書かれていました。訪問を許可した返事も、その条件で送りました」
第2月24日の朝に出した返信は、四日かけて王都へ届いた。ニーナは受け取った翌朝、同じ街道を乗合馬車で発ち、第三月一日の夕方にミューレ村へ到着した。
学院には行き先と滞在期間を届け出ており、道中は定期便の御者とほかの乗客が一緒だった。
「では改めて。ようこそ、ミューレ村へ」
「はい。よろしくお願いします。ローゼンベルク様」
ニーナは大きな鞄を両手で抱えている。
「何を持ってきたのですか」
「着替えと記録用紙と、土壌学の本です」
「衣服を減らしすぎていませんか」
ルカが尋ねた。
「本は代用できないとローゼンベルク様から教わりました」
アウレリアはルカを見た。
「誤った知識が伝わっていますね」
「帰路でも観察すると言いましたよ」
ニーナには意味がわからなかったらしく、二人を交互に見ていた。
* * *
翌朝、ニーナが最初に学んだのは、魔法ではなく契約の更新だった。
第二月二十五日で切れていたリナの見習い契約を、本人、母マルタ、アウレリアの三者で更新する。期間は第三月二日から三十日まで。勤務は日中一時間以内。活動場所は麦穂亭と第一観察室の安全区域。
従前と同じ定額賃金と支払日で、記録の不備による減額はない。危険場所と夜間は禁止され、本人の意思でいつでも辞められる。
「研究を始める前に毎回ここまで書くんですか」
ニーナが驚く。
「人に働いてもらうなら必要です」
「学院では先生に言われたら手伝っていました」
「だからこそ必要なのです」
アウレリアは契約書の一通をリナへ、もう一通をマルタへ渡し、雇用主用を自分の書類箱へ収めた。
それから、ニーナへ村の仮地図と土壌調査票を見せる。
「今日行うのは結果返却の準備です。区画ごとの補正値、区画内のばらつき、聞き取り履歴を照合します」
「土に祝福を使わなくてもできることがたくさんあるんですね」
「むしろ使う前にすることが多いのです」
午前中、ニーナは番号を三度書き間違えた。
一度目は、赤い区画を「悪い畑」と書いた。
二度目は、九十六採取点を九十六標本と数えた。
三度目は、泥の地図に星がある場所を、常に湿っていると断定した。
そのたびに線を引いて訂正し、理由を余白へ書いた。
「わたし何もわかっていなかったんですね」
「今、三つわかるようになりました」
ニーナは顔を上げた。
「怒らないんですか」
「訂正できる段階の間違いです。消さずに残してください」
「はい」
返事は少し明るくなった。
* * *
問題は、昼前に起きた。
調査結果を返すため、アウレリアたちは共同畑の端へ向かった。
そこでは、植え替えたばかりのカボチャ三株が、葉を垂らしていた。所有者の中年女性は、村へ来た直後の外周整理から作業を手伝っている人物だった。
「朝は、もう少しましだったんです」
女性が土を握る。
「昨日の風で根が動いた可能性があります。土の水分と根元を確認します」
アウレリアはしゃがみ、株元へ触れた。
根は抜けていない。土は表面だけ乾き、少し下には水分が残っている。
「すぐ枯れる状態とは限りません。日よけを置き、夕方まで――」
「わたしなら、元気にできます」
ニーナが言った。
「まず、使用前の状態を記録します」
「でも、待っている間に枯れたら」
ニーナの指先へ、淡い金色がにじんだ。助けを期待する所有者の視線を受けると、使わないという選択が、見捨てることのように感じられるのだろう。
「待つことも観察です」
所有者がニーナを見た。
「聖女様の力なら、助かるんですか」
期待のこもった声だった。
ニーナの表情が揺れる。
「はい。少しだけなら」
「フローレス嬢」
止めるより早く、淡い金色の光が広がった。
ルカが携帯時計を開く。さすがの速さだ
「開始、午前十一時二十四分。対象はカボチャ三株。中心は中央の株。距離を取ってください」
アウレリアは周囲の村人を下がらせ、祝福の広がりへ目印を置いた。
「十秒で止めてください」
八秒。
カボチャの葉が持ち上がる。
十秒。
ニーナが手を下ろそうとした瞬間、地面の蔓が足首へ絡んだ。
体勢を崩し、光が途切れない。
「手を閉じて。呼吸を止めないで」
アウレリアが蔓を踏み、ニーナの腕を支えた。
光が消えたのは、開始から十七秒後だった。
祝福が届いた範囲は、中心から四歩ほど。
三株のカボチャは柵を越えるほど蔓を伸ばし、黄色い花を一斉に開いた。根元には、握りこぶしほどだった実が、荷車の車輪ほどに膨らんでいる。
同じ範囲の雑草も、アウレリアの腰まで伸びていた。
一本がルカの記録板へ巻きつく。
「記録を取らせる気がないようですね」
「植物に意図はありません。切らずに外してください」
ニーナは青い顔で、その場へ膝をついた。
アウレリアは土より先に彼女の意識、脈、呼吸、体温を確かめ、水を少しずつ飲ませた。
「吐き気は?」
「少し。ごめんなさい。止めるつもりでした」
「横になってください。反省は休んだ後です」
マルタを呼び、ニーナを麦穂亭へ運ぶ。その日は作業を禁止し、成人が交代で様子を見た。
その後で、祝福区画を縄で囲った。
使用時刻。実時間十七秒。対象三株。推定範囲は中心から四歩。立ち位置、天候、直前の土の水分。ニーナの体調。
測定器は当朝校正済みだった。祝福範囲の内外で、周辺魔力量を同じ高さ、同じ時刻に三回ずつ測り、表示値と補正値を残す。範囲内は、範囲外より低かった。
所有者の同意を得て、範囲内外の土も同じ深さ、重量、容器で採取した。春の第二月に作った区画記録は採取時刻と地点が違うため、参考値として分ける。使用直前の同地点前値がなく、今回の祝福だけを原因とは断定できなかった。
巨大な実へ支えと転がり止めを置き、立入柵を設けた。水分、内部組織、魔力反応を調べる標本は成人だけが採り、第一観察室の施錠棚へ保管する。安全が決まるまで、試食、販売、飼料化、堆肥化を禁止した。
「助かったんじゃないんですか」
所有者が、太すぎる蔓を見る。
「急成長で茎の一部が裂け、雑草管理の負担も生じました。説明と同意なしに祝福を使った、こちらの責任です。苗、見込まれた収穫、片づけ費を信託から補償します。金額と支払日、観察のため残す範囲と期間、最終処分を相談し、書面にします」
女性は怒鳴らなかった。
だが、喜びもしなかった。
その日のうちに金額と支払日を合意し、補償金を支払って番号付き受領書を得た。
大きいことと、良いことは同じではない。
* * *
翌朝、吐き気と熱がなく、意識、脈、呼吸が平常だと確認した後、ニーナは畑へ戻ってきた。
作業着と手袋を着けているが、鎌は持っていない。
「何をするのですか・・」
「雑草を取ります」
「祝福で?」
「使いませんし、できません」
今度の言葉は、朝より小さかった。
けれど、迷いはなかった。
「土をこれ以上使わないで、できることをします。記録も書きます。カボチャの持ち主にも、改めて謝ります」
「補償は管理者であるわたくしが先に支払い、あなたの労働とは分けます。記録と除草を行うなら、期間、勤務時間、賃金、中止権を定めた短期契約にします」
「怒らないんですか」
「怒っています」
ニーナの肩が縮む。
「訪問条件に反し、使用前記録も、危険の説明も、所有者の同意もなく使ったこと。十秒で止められると思い込み、安全な姿勢を取らなかったこと。所有者の期待へ、確かめていない効果を約束したこと」
「はい」
「ですが、失敗を顧み、次の行動を選ぼうとしている点は別に評価します」
所有者は、巨大株の周囲の小区画だけを三日間残すことに同意した。競合による追加損失も補償へ含める。これは独立反復も未処置対照もない探索的経過で、因果比較には使わない。
追加競合損失に関する補償の追補書と、ニーナの三日間、一日一時間までの有給作業契約へ、それぞれが署名した。無理があれば即時中止する。
アウレリアは新しい観察用紙を渡した。
「まず、巨大化した雑草の本数と高さを数えます。所有者が許した小区画だけ残し、経過を記録します」
「全部抜かないんですか」
「失敗からも、限界を明記して記録できることはあります」
ニーナは用紙を受け取り、最初の欄へ時刻を書いた。
今後は、所有者への説明と書面同意、使用直前の測定、監視者、退避範囲、安定した停止姿勢、体調基準を満たす計画がなければ祝福を使わない。ニーナも規則へ署名した。
力を封じるための規則ではない。使う条件、止める条件、断る条件を、ニーナと畑の持ち主が自分で選べるようにするための記録だった。
三日間の作業中、ニーナは一度も祝福を使わなかった。
腰まで伸びた雑草を一本ずつ数え、名前のわからない草は特徴を用紙へ描いた。麦穂亭へ戻ってから、有給の一時間内にいるリナへ絵を見せ、名前を尋ねた。
一時間の勤務を終える頃には、白い手袋が土で茶色くなっていた。
「魔法を使わない方が、時間がかかりますね」
「はい」
「でも、何をしたか覚えています」
ニーナは、泥の付いた自分の手を見ていた。
道具を洗い、根元へ必要な水を運ぶだけで、共同井戸との間を何度も往復する必要がある。一時間を超える分は、成人の有給作業員が引き継いだ。畑へ続く古い水路は途中で詰まり、その先の水車も止まったままだった。
「手で運ぶだけでは、続きませんね」
ニーナの言葉に、アウレリアは黙って水路を見た。
巨大なカボチャは、まだ畑の中央で不格好に転がっている。
失敗は消えていない。
だからこそ、そこから始めるしかなかった。
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