歌うキノコは何を覚えている
「このキノコは、37時間前の声を覚えています」
春の第二月九日、朝。
麦穂亭の物置で、透明覆いの中の薄紫色の傘が震えた。
「赤い鍋には黄色い靴下」
二日前、マルタが試験用に読んだ言葉だった。
覆いの外では、赤茶色の髪を布で包んだ本人が、前掛けの腰へ両手を当てている。
「もっと役に立つ言葉にすればよかったですね」
「意味のない文だったから、別の会話と混同せず確認できました」
「慰められている気がしません」
キノコは、最後の一言まで歌った。
アウレリアは再生時刻を記録する。傘が開いてから四十五時間。最初の試験文を聞かせてから37時間12分。
昨夜までは、同じ言葉を湿度が上がるたびに三回再生した。今朝の声は小さく、途中で音が濁っている。
「記憶というより、襞に残った振動を魔力で再生しているのでしょう」
ルカが携帯魔力計を覆いへ近づけた。琥珀色の目が目盛りを追い、傘が震えた瞬間だけ上がった値を読み上げる。
「ですが、同じ音が薄くなっています。再生するたびに失われるなら、永久には残りません」
「保持時間と再生回数を分けて調べます」
「その前に、朝食です」
マルタの鍵束が鳴った。
「キノコは37時間前の言葉を覚えていても、お嬢様は今朝食べたかどうかを忘れますから」
アウレリアは反論しようとして、空腹に気づいた。
* * *
近隣の公認検査所から、井戸水の結果が届いたのは正午だった。
検査項目の範囲では、飲用基準を外れる濁り、毒性魔力反応、既知の有害胞子は検出されなかった。控え容器の封印番号、採取時刻、採取者も、送付記録と一致している。
ただし、薄紫色のキノコは検査所の既知種一覧にない。
井戸水へ影響がないことと、キノコが安全であることは同じではなかった。
「井戸は使えるのか」
短い灰色の顎髭を撫でながら、ゲルトが尋ねた。
「水受けの修理と洗浄後、もう一度採水します。二回目も基準内なら、飲用停止を解除する案を出します」
「キノコは」
「食べません。吸い込みによる影響が不明なので、胞子を散らしません。観察分以外は覆ったまま管理処分します」
「何もわからんのと同じじゃないか」
「いいえ。水に既知の危険が見つからなかったこと、乾くと歌わないこと、三歩を越える音は本日の条件では拾わなかったことはわかりました」
アウレリアは掲示板の紙を指した。
「わからないのは、名前、胞子の来た場所、保持時間の上限、食べた場合と吸い込んだ場合の安全性です。わかった範囲と、まだわからない範囲を分けます」
ゲルトは納得した顔をしなかった。
それでも顎髭から手を離し、掲示を最初から読み直した。
* * *
発生源の手掛かりは、テオが持ってきた古い板にあった。
袖についた木屑を払い、井戸裏から外した水受けの支えを机へ置く。板の裏側には、濡れた藁と同じ紫色の細い筋が付いていた。
「この板、旧醸造小屋の棚だったものです」
「いつ井戸へ使いましたか」
「三年前です。水受けの脚が割れて、間に合わせで」
旧醸造小屋は、麦穂亭の北にある空き家だった。六年前まで果実酒を造り、屋根が抜けてから物置として使われている。
マルタが宿の古い仕入れ帳を持ってきた。醸造用の藁を最後に買った年と、棚を解体した年が記されている。
リナは、泥の地図を抱えて空き家までの道を示した。雨の日に水が流れる印が、醸造小屋の裏から井戸の北側へ続いていた。
「板、藁、水。三つとも醸造小屋から来た可能性があります」
アウレリアは言った。
「ですが、可能性だけで小屋を発生源とは決めません」
所有者の許可を取り、成人二人以上で入る。崩れた屋根の下へは近づかず、床板を剥がさない。目視できる範囲だけを確認する。
テオとルカが同行し、マルタは入口で入退室時刻を記録した。
小屋の奥には、乾いた酒樽が六つ並んでいた。
どの樽にもキノコはない。
棚を外した壁にも、紫色の筋は見つからなかった。
「外れですかね」
テオが言った。
「発生していないことも結果です」
アウレリアは窓際で足を止めた。
割れた窓の下に、古い藁束が一つ残っている。表面は乾いていたが、縄の内側に薄紫色の粒が付着していた。
触れずに拡大鏡で見る。井戸裏の傘から採った胞子と、色、形、大きさが似ている。
同じ種類だと確定するには比較培養が必要だった。
だが、少なくとも「前日、アウレリアと一緒に村へ来た呪い」ではない。藁束は何年も前からここにある。
「胞子は昔から小屋にあり、棚板か藁と一緒に井戸へ運ばれた。水受けが漏れ、十分に湿って傘を出した――今のところ、その仮説が最も合います」
「お嬢様が来たから生えたわけじゃない?」
入口の外からリナが尋ねた。
「わたくしが来た時期と、水受けの漏れが増えた時期が重なった可能性はあります。ただし、胞子を持ち込んだ証拠はありません」
「そこは、きっぱり違うって言えばいいのに」
アウレリアは答えに詰まった。
「証拠の範囲では違います」
「少しだけ、きっぱりしました」
* * *
比較培養には、井戸裏、醸造小屋の藁、対照として新しい藁から、許可を得た最小量だけを使った。
密閉せず通気膜を付けた三つの箱を第一観察室とは別の物置へ置く。月眠り苔の鉢、一般苗、飲食物とは道具も棚も分けた。
同じ量の水を与え、温度と湿度をそろえる。
井戸裏と古い藁の箱では、翌朝に薄紫色の菌糸が見えた。新しい藁では変化がない。
三日目、二箱に親指ほどの傘が開いた。
同じ声、同じ文、同じ距離で試す。どちらも音を取り込み、湿度が上がると再生した。
井戸裏由来と古い藁由来が、少なくとも同じ特徴を持つことは再現した。二箱は元をたどれば同じ古い藁に由来する可能性があり、独立した二地域の標本とは数えない。
保持時間は、最長四十一時間八分。再生は五回目から語尾が欠け、七回目には意味のある音列にならなかった。
乾燥させた傘は歌わず、再び湿度を上げても元の声を再生しなかった。
「正式な種名は、王都の菌類標本庫と照合するまで未確定です」
アウレリアは集まった住民へ説明した。
「それでは呼びにくい」とマルタが言う。
「村での仮称なら付けられます。ただし正式名と混同しない表示が必要です」
「歌うキノコでいいだろ」
テオが言った。
誰も反対しなかった。
仮称、歌うキノコ。
食用禁止。胞子を吸わない。素手で触れない。湿った古材と藁を井戸や食料庫へ持ち込まない。
観察用一箱だけを期限付きで残し、残りは検査所の指示に従い、湿らせたまま封じて管理処分する。
「役に立たないんですか」
リナが残念そうに尋ねた。
アウレリアは、湿度を上げると歌い、乾けば黙る傘を見た。
「正確な測定器にはなりません。ですが、乾いているはずの場所で歌えば、湿気が増えた合図にはなるかもしれません」
「何を歌わせます?」
ルカが尋ねる。
マルタが即答した。
「蔵を調べてください、です。黄色い靴下はやめます」
笑いが起きた。
原因を突き止めても、キノコは安全な食べ物にも、完全な記録装置にもならなかった。
それでも、呪いと呼ばれたものには、昔の藁と漏れた水という来歴ができた。
わからないものを恐れないのではない。
どこまでわかり、何を避ければよいかを、一つずつ増やしていく。
それが、この村でアウレリアが初めて最後まで解いた問題になった。
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