歌うキノコは秘密を守らない
「温室の悪女は、豆を三杯おかわりした」
井戸の裏から、甲高い歌声が聞こえた。
春の第二月七日、朝。
水桶を持った村人たちが、同時にアウレリアを見た。
「事実ですか」
ルカが尋ねる。
「昨夜の煮込みなら、二杯です」
「そこが重要なんですね」
別の傘が、今の発言を一字も変えずに歌った。
「昨夜の煮込みなら、二杯です」
「訂正を聞いていますね」
「感心している場合ではありません」
井戸の裏には、前日までなかった薄紫色のキノコが並んでいた。傘は親指ほどの大きさで、縁が細かく波打っている。
一つが震えるたび、別の傘から少しずつ調子の外れた声が出た。
「呪いだ」
誰かが言う。
「あの令嬢が来てからだぞ」
別の声が続く。
すると二つのキノコが、それぞれの言葉を節に乗せて繰り返した。
「呪いだ」
「あの令嬢が来てからだぞ」
広場が静まり返る。
「今の二文は、発言から再生まで十秒以内です」
アウレリアは記録帳を開いた。
「疑われている最中ですよ」
「だから調べます。わたくしが来たことと、キノコが現れたことの前後関係だけでは、原因と断定できません」
「それ、村の人に伝わりますかね」
伝わっていない顔が、十以上並んでいた。
* * *
第一観察室の空試験は、第2月5日の夕方から6日の夕方まで行った。
二十四時間の温度と湿度は許容範囲。屋根へ一定量の水を流しても漏れはなく、テオが留め具へ荷重をかけても緩みは出なかった。
アウレリアとルカは、マルタ立ち会いで麦穂亭の醸造庫から二十四鉢を搬出した。封、鉢番号、土の湿り気、葉色を確認し、第一観察室の配置図へ一鉢ずつ記録する。
既存十八鉢と補完六鉢は棚を分け、温室移動後の環境値も、それ以前の観察と混ぜずに記録を始めた。
搬入には南側の扉を使った。北西のM1保護柵と排水に変化がなく、旧温室の残存部分が立入禁止のままであることも確認した。
その作業の間、井戸の水受けから細い漏れが続いていた。
植物の研究以前に、飲み水の安全が確かでなければ暮らしは続かない。珍しいキノコの正体を急ぐより先に、井戸を使ってよいかを分けて確かめる必要があった。
石の継ぎ目からこぼれた水が、裏手に積まれた古い藁を濡らしている。キノコは、その湿った範囲だけに生えていた。
「昨日はキノコがなかったと、確かに言えますか」
アウレリアが尋ねると、リナが手を上げた。
「朝の水汲みのときはなかった。夕方は見てない」
「時刻は?」
「朝の鐘が鳴った後。パンを焼く前」
正確な時刻ではないが、生活の順序として記録できる。
マルタは眉間へ皺を寄せた。
「昨夜、水受けの横で、リナが『温室の悪女は、豆を三杯おかわりした』と言いました。勤務ではなく、私と一緒に水を汲んでいただけです」
「豆を三杯って言ったの、お母さんだよ」
「あなたが三杯と言ったのよ」
「二杯と半分だった」
「半分は一杯に数えます」
親子の論争を、二つのキノコが順番に歌い始めた。
「二杯と半分だった」
「半分は一杯に数えます」
村人の一人が吹き出した。
緊張が、少しだけほどける。
「引き抜いて燃やせばいい」
ゲルトが人垣の後ろから言った。
「井戸の近くです。胞子や地下の菌糸の範囲、水への影響を確認する前に散らすべきではありません」
「なら、いつまでしゃべらせる」
「今日中に、現時点で調べられる再生条件と、安全な除去範囲を確認します」
「今日中にわからなかったら?」
「わからないと掲示します。正式検査が済むまで井戸水は飲用を止め、東の共同湧水を使ってください。運搬が難しい家には人手を手配します」
断言できないことをできるとは言わない。
その答えに、ゲルトは不満そうだったが、キノコを踏もうとはしなかった。
* * *
実験は、井戸から離れた湿った藁の端で行った。
成人は手袋と口元の覆いを着け、専用器具だけを使う。井戸の利用者を柵の外へ離し、リナは菌体、藁、水へ触れず、保護柵の外で時刻だけを記した。一時間後には勤務を終え、ルカが記録を引き継いだ。
生えている傘を四区画に分け、境界へ目印を置く。地下では同じ菌糸につながっている可能性があり、四つの独立した標本とは扱わない。今回は探索的な観察である。
一歩、三歩、五歩の距離から、同じ話者が同じ高さと声量で文を読む。同程度の長さの無意味な文を三つ用意し、距離の順番を変えて三回ずつ試した。
試験に使う文は、マルタが決めた。
「赤い鍋には黄色い靴下」
「意味がわかりません」
「だから秘密にならないんです」
合理的だった。
本日の条件では、三歩以内で読んだ文が数秒から一分後に再生された。五歩では、三回とも再生されなかった。別の場所や個体でも同じ範囲になるとは限らない。
湿度の比較には同じ形の透明覆いを使った。一方だけを換気し、乾燥材を菌体へ触れない位置に置く。もう一方は湿った布を離して置き、覆いの中の湿度を実測した。湿度の低い区画は傘が震えず、高い区画は繰り返し歌った。
比較のため、目に見える傘のない湿った藁へ同じ文を読んでも、音は返らなかった。少なくとも、濡れた藁だけで起きる現象ではない。
さらに、歌っている傘の周囲を厚い布で囲うと、声は外へほとんど届かなくなった。
「周辺の振動を取り込み、魔力で再現している可能性があります。ただし、昨夜の言葉を今朝再生した例があります。保持時間の上限は不明です」
アウレリアは傘の表面を拡大鏡で見る。
細い襞の間に、水滴が並んでいた。当朝に三種の校正石で確認した携帯魔力計は、傘が震える直前だけ、ごく小さく上昇する。表示値と補正値を分けて記録した。
「このキノコ自体が言葉を理解している証拠はありません。意味ではなく音を再現しているだけです」
「じゃあ、呪いじゃない?」
リナが尋ねる。
「少なくとも、誰かが今朝かけた呪いだと示す証拠はありません。種類の同定には、胞子と菌糸を調べる必要があります」
井戸水は、ルカが簡易検査を行った。色、匂い、濁り、検出できる魔力反応に昨日との差はない。
ただし、それだけで飲用の安全を証明したとは言えない。井戸は飲用停止とし、東の共同湧水を使う。水は採取時刻、採取者、地点を記し、封をした二本の容器へ入れた。一方を近隣の検査所へ送り、もう一方は控えとして施錠保管する。
壊れた水受けと濡れた古藁は、発生を助けた環境条件の候補だった。胞子がどこから来たかはわからない。
テオとは水受けの仮修理について短い追加契約を交わし、作業料と材料費を記録した。藁は胞子を散らさないよう湿った布で包んで、井戸から離れた蓋付き箱へ移す。
生えている一部は観察用に残し、防水性の透明覆いと立入柵で囲った。作業後は器具と手を洗浄する。
「全部なくさないんですか」
村人が尋ねた。
「水の検査結果と、乾燥後に再び発生するかを確認します。残す場所と期間は掲示します」
「また仕事を募集する?」
「定時観察が必要なら、有給で募集します」
今度は、露骨に顔を背ける者はいなかった。
* * *
夕方、麦穂亭の掲示板には、調査結果の写しが貼られた。
本日の条件では三歩以内の音が再生され、五歩では再生されなかったこと。湿度の高い区画だけが歌い、厚い布で音を抑えられたこと。四区画は独立標本ではなく、再現確認が必要なこと。少なくとも一晩は音を保持した例があるが、上限は不明であること。
井戸水の簡易検査では変化がなかったが、正式な結果まで飲用を止め、東の共同湧水を使うことも記した。
断定できない点も、そのまま書いた。
「悪女の呪いではなかったらしい」
掲示を読んだ男が言う。
覆いの中に残したキノコが、かすかな声で歌った。
「悪女の呪いではなかったらしい」
今度は、広場に笑いが起きた。
ルカがアウレリアの隣で呟く。
「噂の訂正としては、掲示板より優秀かもしれません」
その言葉も、少し遅れて歌になる。
「噂の訂正としては、掲示板より優秀かもしれません」
「フェルナー。今後、井戸の近くでは不要な発言を控えてください」
「ローゼンベルク嬢も、今朝二杯と訂正しましたよね」
「事実の修正は必要です」
「温室が直ったとき、うれしそうだった」
歌声が続いた。
アウレリアはルカを見る。
「今のは、誰の発言ですか」
「昨日の夕方、水受けの横でマルタさんに聞かれて、同じ言葉を答えました」
「わたくしは笑っていません」
「顔の話はしていません」
キノコが、妙に明るい節で繰り返す。
「顔の話はしていません」
村人たちの笑い声が大きくなった。
秘密を守らないキノコは厄介だった。
けれど、その日の広場には、アウレリアが村へ来てから初めて聞く笑い声が満ちていた。
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