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婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第二章_新しい村へ

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温室の屋根と木工職人

「この設計では、最初の強風で屋根が飛びます」


 春の第1月29日、午前8時。


 テオは旧温室の前で、アウレリアが徹夜せずに作った修理図を返した。


 袖には朝から削った木屑が残り、短い鉛筆を耳へ挟んでいる。図面の線より、実際の柱が出す音を信用する職人の姿だった。


「風圧は計算に入れています」


「王都の基準で。ここの風は丘から斜めに下りてきます。屋根の南側へ潜って、持ち上げるんです」


「では、留め具を増やします」


「腐った柱に?」


 アウレリアは黙った。


 テオは昨日の契約どおり、一般作業員より先に温室を調べていた。


 長い棒の先で梁を叩き、音の違う箇所へ赤い布を結ぶ。地面には縄を張り、屋根や硝子が落ちる可能性のある範囲を立入禁止にした。


 候補群落M1の周囲には、アウレリアとルカが保護区域を設けた。木札だけでなく、苔から十分に離して低い柵を置き、足を入れない印を四方へ付ける。


 外周作業の二人は、テオが安全とした南側から枯れ枝を運び出していた。手袋と底の厚い靴を着け、硝子片は長い柄の挟み具で木箱へ入れる。


 リナは温室から離れた日陰で、温度計の目盛りを読んでいた。


「22と、半分」


「目盛り一つが一度です。半分なら、どう記録しますか」


「22・5度」


「時刻と場所も先に書いてください」


「はい、先生」


「先生ではありません」


「じゃあ、悪女さま?」


 外周作業の女性が吹き出した。


 アウレリアは訂正の言葉を探し、見つけられなかった。


「ローゼンベルクさんで結構です」


「長い」


「短くする必要はありません」


 リナは観察用紙へ「ローゼンベルク先生」と書いた。


 名前の記録は正確に、と注意するべきだろうか。


 ()()()()()()だった。


 * * *


 安全調査の結果、建物全体の修復には、当初の見積もりの三倍近い木材と、新しい硝子が必要だとわかった。


 北東の柱は、表面より内側の腐食が深い。中央の梁は屋根材を外すまで荷重を支えられない。北側に残った硝子も、枠が歪んでいるため、そのまま使えば割れる可能性が高かった。


「全体修復は見送ります」


 アウレリアは言った。


 テオが目を瞬く。


「もっと反対するかと思いました」


「根拠がありますから。ただし、温度と湿度を管理できる区画は必要です」


「南西の端なら、基礎と柱が使えます。温室全体の三分の一より小さいですけど」


 テオは見取り図へ四角を描いた。


 危険な中央部から切り離し、南西側へ独立した壁を一枚作る。屋根は低くし、丘からの風が抜ける向きに傾斜させる。割れていない硝子を外して寸法ごとに選別し、足りない部分は木枠付きの半透明油布で補う。


 残る建物が崩れても巻き込まれないよう、南西区画には独立した支持枠を組み、旧骨組みとの間へ隙間を空ける。危険な残存部分は、修理後も立入禁止のままにする。


「油布では光量が安定しません」


「全部を油布にするんじゃありません。上の一列だけです。風が強い日は内側から板を当てられるようにします」


「板を当てれば、日照条件が変わります」


「屋根が飛べば、もっと変わります」


 正論だった。


「変えた時刻と範囲を記録します」


「そうしてください」


 さらに、テオは入口の位置を東から南へ移した。


「なぜです?」


「東は雨の後にぬかるみます。泥を運び込むと、床の湿度も変わるでしょう」


 アウレリアの図面には、日照と作業動線はあった。ぬかるみはなかった。


 一年間、学院の温室で鉢を見てきた。


 だが、温室そのものを使える状態に保つ知識は、ほとんど持っていなかった。


「設計者の欄へ、あなたの名前を加えます」


「俺は学校を出てませんよ」


「この変更を考えたのは、あなたです」


「公爵令嬢の図面に、村の大工の名前を?」


「職業と身分は、梁の強度に影響しますか」


 テオはしばらくアウレリアを見た後、木炭のついた指で自分の名を書いた。


 アウレリアも隣へ署名した。


 修理範囲、材料費、作業日数、専門職賃金、危険時の中止条件を別契約へ記す。信託資金の残額と照合し、全体修復を行わないことも明記した。


 テオとアウレリアは同文二通へ署名し、一通ずつ保管した。外周作業の二人も、地上での資材運搬と選別を行う追補契約へ同意した。高所、屋根の下、立入禁止区域には入らない。


 完成するのは、条件をそろえて観察するための器だけではない。村にある材料で組み、テオが直せる構造にしておけば、研究者が去ったあとも住民の手で維持できる。


 木材、油布、釘は村の在庫と近隣の商人から購入し、再利用する硝子も一枚ずつ状態を記録する。購入先と金額は領収書と公開帳へ残した。費用は信託の小規模研究費の範囲内だった。


「完成は何日後ですか」


「材料が村で揃えば、五日。雨が降れば延びます」


「四日には?」


「なりません」


「理由は?」


「三日目に、組んだ枠の歪みを一晩置いて見るからです。急いで硝子を入れて割れたら、最初からやり直しになる」


「五日でお願いします」


 待つことも手順の一つらしい。


 * * *


 修理は、予定どおりには進まなかった。


 二日目、外した硝子の三枚に細い亀裂が見つかった。


 三日目、丘から強い風が吹き、午前の作業を中止した。


 四日目、注文した釘の寸法が違っていた。


 アウレリアはそのたびに予定表を書き直した。


 以前なら、遅れを取り戻すため作業時間を延ばしただろう。


 今回は、亀裂のある硝子を除外した。強風の日は三人の同意を得て、一日限りの追補契約を作り、麦穂亭で資材一覧と図面の整理へ切り替えた。同じ勤務時間と賃金である。リナの見習いは休みにした。釘はテオが工房に残していたものを買い取り、不足分だけ正しい寸法で再注文した。


 毎日の終了時にはM1の柵、排水、資材置場を確認した。北西側へ木材や硝子を置かず、群落への踏み込みや流出水の変化がないことも記録する。


 支出と変更理由は、毎夕、麦穂亭の公開帳へ追加した。


 最初は遠巻きに見ていた村人も、三日目には足を止めるようになった。


「本当に払ったのか」


 誰かが外周作業の男性へ尋ねる。


「七日経ってないから、まだだ」


「じゃあ、わからんだろ」


「昼飯の時間には、ちゃんと帰された」


 それは信用と言うには小さすぎる会話だった。


 けれど、小さいことを積み上げる以外に方法はなかった。


 * * *


 修理開始から七日目、春の第二月五日の夕方。


 その日の作業は正午に終えた。夕方、全員が最終確認と最初の週払いのため、温室前へ集まった。


 旧温室の南西側に、新しい扉が付いた。


 建物全体の三分の一にも満たない、小さな区画である。


 屋根には古い硝子と新しい油布が並び、壁の木材も色がそろっていない。王立学院の温室と比べれば、不格好だった。


 それでも、扉は滑らかに開閉した。


 雨樋へ流した水は、詰まらず排水溝へ落ちる。風上側の留め具も、テオが一本ずつ確かめた。


「完成です」


 テオが言う。


「まだです。二十四鉢は麦穂亭の醸造庫へ残し、空の状態で昼夜の温度と湿度を測ります。屋根へ散水して漏れを調べ、留め具の荷重試験も行います。完了するまで搬入しません」


「そう言うと思った」


 最終確認の後、アウレリアはマルタ立ち会いで現金箱を開けた。


 テオと外周作業の二人には、屋外作業と強風日の屋内作業を合わせた七日分を支払う。リナには、休みにした強風日を除く六時間分を支払った。全員が金額を確かめ、番号付きの受領書へ署名した。公開帳へ載せるのは、番号と支出額だけである。


「本当に、予定より二日遅れても減らさないんですね」


 外周作業の女性が言った。


「契約どおり働いた分です。遅れの理由も記録されています」


 広場で疑っていた者たちが、少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。


 リナが、新しい扉の横へ木札を掛けた。


 第一観察室。


 アウレリアが提案した名前ではない。


「温室一号区の方が正確です」


「みんなで見つける部屋だから、観察室」


 リナは譲らなかった。


 テオも、外周作業の二人も、第一観察室に賛成した。


「正式記録では南西修復区とします」


「木札は?」


「……第一観察室で構いません」


 夕日が、継ぎ合わせた硝子へ反射した。


 その光を見て、麦穂亭から来たマルタが小さく息を呑む。


「ここが明るいの、久しぶりに見たわ」


 アウレリアは温室ではなく、マルタの横顔を見た。


 建物の一角が使える形になっただけで、土が回復したわけではない。


 収穫も増えていない。


 それでも、村に来た日の夕方とは違う声が、温室の周りにあった。


「今夜から空の環境試験を始めます」


 アウレリアが告げると、リナが手を上げた。


「先生、私も書く」


「勤務は一時間までです」


「一時間で書く」


「それから、先生ではありません」


 誰も、その訂正には賛成しなかった。


お読みいただき、ありがとうございます。



続きが気になりましたら、ブックマークでアウレリアたちの歩みを見守っていただけるとうれしいです。

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