【第8話】明日の記憶
気がつくと、光瑠は鏡の前に立っていた。
鏡には、自分の姿が映っている。
「え……」
ゆっくりと周囲を見渡す。
木造の壁。
見覚えのあるベッド。
小さな机。
――『旅人の隠れ家』の部屋。
「まさか……」
光瑠は震える手で、もう一度鏡を見つめた。
「……っ!」
あの時の記憶が、一気に押し寄せる。
魔狼の牙。
グレンの死。
全身を引き裂かれる激痛。
「あ……」
「うわあああああっ!!」
ドタドタドタッ――
廊下を駆ける足音が近づいてきた。
「どうしたの!」
バンッ!
ドアが勢いよく開かれる。
光瑠の悲鳴を聞きつけたイヴが、部屋へ飛び込んできた。
「大丈夫。落ち着いて。」
イヴは光瑠の肩へ、そっと手を添えた。
「うわあああああっ!!……ああ……」
光瑠は荒い息を繰り返しながら、震える両手を見つめる。
恐る恐る、自分の胸へ手を当てた。
ドクン。
ドクン。
鼓動がする。
「……俺……」
「体が……生きてる……?」
「ねぇ……」
イヴは心配そうに光瑠を見つめていた。
「ヒカル〜。大丈夫〜?」
光瑠はゆっくりとドアへ目を向ける。
そこには、不安そうな表情を浮かべたノクトが立っていた。
同時に――
背中へ、じんわりとした温もりを感じる。
振り向くと、イヴが心配そうな表情で光瑠の背中へそっと手を当てていた。
「イヴ……?」
「それに……ノクト?」
ノクトはゆっくりと光瑠の元へ駆け寄った。
「ヒカル……一体何があったんだい?」
光瑠は震える息を整えようとするが、頭の中は混乱したままだった。
「せ、星夜祭で……!」
「狼の魔物が現れて……!」
「街の人たちが……」
「グレンさんも……!」
「黒髪の男がいて……!」
「あいつが……狼を操ってて……!」
「俺も……襲われて……!」
「なのに……」
「どうして俺は……生きてるんだ……?」
ノクトは首を傾げた。
「ヒカル……何を言ってるんだい?」
イヴが静かに続ける。
「星夜祭は明日の夜よ?」
光瑠は目を見開いた。
「明日って……一体、何を言って……」
そんなはずがない。
光瑠はふらつく足で窓へ駆け寄り、勢いよくカーテンを開けた。
夕日が街を朱色に染めている。
昨日見たはずの光景が、目の前に広がっていた。
「なにが……どうなってるんだ?」
光瑠はふらつく足取りで部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、一階の入口へ向かう。
荒い息のまま、受付のカウンターへ視線を向けた。
「おお、兄ちゃん。どうしたんだ?」
「……っ!」
光瑠の呼吸が止まる。
そこには――
グレンが立っていた。
何事もなかったかのように。
「グレン……さん……?」
グレンは不思議そうな顔で光瑠を見つめる。
「なんだ? そんな幽霊でも見たような顔して。」
「グレンさん!」
光瑠は弾かれたように駆け寄った。
震える瞳が、グレンの姿を追う。
首がある。
右腕もある。
血の跡はどこにもない。
間違いない。
グレンは、生きている。
「グレンさん……」
掠れた声が漏れる。
「俺……良かった……」
光瑠は震える手で、グレンの右腕へそっと触れた。
温かい。
確かな、人の温もりだった。
その瞬間――
張り詰めていた糸が切れた。
「……っ!」
光瑠はその場へ崩れ落ち、堪えていた涙を溢れさせた。
「おいおいおい、どうしちまったんだよ、兄ちゃん。」
突然泣き崩れた光瑠に、グレンは戸惑いを隠せなかった。
イヴとノクトも慌てて一階へ駆け下りてくる。
「すみません。」
イヴはグレンへ軽く頭を下げた。
「少し取り乱しているだけです。部屋へ連れて戻ります。」
「ヒカル〜。」
ノクトは心配そうに光瑠の隣へ座り込む。
「おじさんも困ってるよ〜。」
「一緒に部屋へ戻ろう?」
それでも光瑠は、グレンの右腕を離そうとしなかった。
まるで、離せばまた失ってしまうとでもいうように。
グレンは困ったように苦笑する。
「兄ちゃん……?」
イヴは光瑠の肩を支え、ノクトも反対側へ回る。
二人に支えられながら、光瑠はようやくグレンの腕から手を離した。
そのまま部屋へと戻っていく。
――
部屋に戻ると、しばらく沈黙が流れた。
「少し落ち着いたかい?」
ノクトが静かに口を開く。
光瑠は何度か深呼吸を繰り返し、小さく頷いた。
「ああ……すまなかった。」
イヴは椅子へ腰掛けたまま、まだ心配そうな眼差しで光瑠を見つめている。
「さて、ヒカル。」
ノクトは真剣な表情になった。
「一体、何があったの?」
光瑠は俯いた。
話そうとしても、喉が詰まる。
信じてもらえるはずがない。
いや――
自分自身でさえ、何が起きたのか理解できていなかった。
「……俺にも、分からない。」
その一言を絞り出すのが精一杯だった。
「大丈夫。ゆっくりでいいから話してごらんよ。」
光瑠は一度目を閉じ、乱れた呼吸を整える。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「明日の星夜祭。」
「夜の広場のステージで、狼の魔物が現れる。」
「俺は……それを見た。」
「見たって……?」
ノクトは目を丸くする。
「明日の夜のことを……?」
光瑠は静かに頷いた。
「狼は指揮者を殺した。」
「そのあと、街中に何十匹もの魔狼が現れて……」
「祭りは、一瞬で地獄になった。」
部屋の空気が重く沈む。
イヴもノクトも、黙ったまま光瑠を見つめていた。
「たくさんの人が犠牲になったんだ。」
光瑠は拳を強く握り締めた。
部屋に重い沈黙が落ちる。
やがてイヴが静かに口を開いた。
「……見た、というのは。」
「一体、どこで見たの?」
光瑠は苦しそうに首を横へ振る。
「……俺にも分からない。」
「……だけど夢とは思えない。」
「痛みも。」
「匂いも。」
「血も。」
「全部、本物だった。」
イヴは目を閉じ、静かに思案する。
やがて、ゆっくりと目を開いた。
「……にわかには信じ難い話ね。」
光瑠はぐっと拳を握り締めた。
……当然だ。
明日の出来事を見たなんて。
そんな話を、簡単に信じられるはずがない。
「でも……」
イヴは真っ直ぐ光瑠を見つめる。
「あなたが嘘をついているようにも見えない。」
光瑠はゆっくりと顔を上げた。
真剣な眼差しのイヴと目が合う。
イヴはノクトへ視線を移した。
「ノクト、どう思う?」
「うーん……。」
ノクトは腕を組み、小さく首を傾げる。
「ヒカル。」
「明日は他に何が起きたのか、覚えてないかい?」
「例えば、祭りが始まる前の出来事とか。」
「人と話したこととか。」
「小さなことでもいい。」
「明日のこと……」
光瑠は目を閉じ、記憶を辿る。
「朝、宿を出たあと。」
「二人は俺を三番街の騎士団の詰所に連れて行ってくれた。」
「そこで有理栖のことを聞いた。」
「でも、その時点では見つかっていなかった。」
「ふむふむ。」
ノクトは小さく頷き、続きを促す。
「俺は宿へ戻って、店主のグレンさんの露店を手伝うことになった。」
「そして夜……星夜祭で騒動に巻き込まれた。」
「そこで、カインから聞いた特徴の、狼の魔物を操る黒髪の男に会ったんだ。」
「そいつは、赤い宝石の欠片をはめ込んだネックレスを身につけていた。」
ノクトの尻尾がぴくりと揺れた。
「……赤い宝石の欠片?」
イヴの表情が僅かに強張る。
膝の上で組んだ手に、静かに力がこもった。
「イヴ……」
ノクトはイヴを見つめる。
一瞬だけ視線を交わすと、再び光瑠へ向き直った。
「それで、見たものは全部かい?」
「あ、ああ……多分。」
光瑠は少し考え込む。
「……あ。」
何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、騎士団の詰所で別れる時。」
「イヴが俺に軍資金を渡してくれたんだ。」
「『仕事が見つかるまでの足しにして』って。」
「それに、身分証まで用意してくれて。」
イヴは目を見開いた。
「あれは嬉しかったな。」
「ありがとう。」
光瑠は苦笑する。
「……まあ、明日の話だから、まだ受け取ってないんだけどな。」
部屋に静寂が落ちる。
イヴは何も言わず、ゆっくりとローブの内側へ手を入れた。
取り出したのは、小さな皮袋。
そして、一枚の羊皮紙。
「それ……今日のうちから準備してくれてたんだな……」
「あ、でも。」
光瑠は苦笑する。
「まだ書いてないなら、俺を『保護下の放浪者』って書くのは勘弁してくれよ。」
イヴは驚いた表情のまま、手元の羊皮紙へ視線を落とした。
静かに首を横へ振る。
「……まだ誰にも見せていないのだけれど。」
そう言って、羊皮紙を光瑠へ差し出す。
「もう書いてしまったわ。」
「放浪者さん。」
光瑠はイヴの差し出した羊皮紙を、まじまじと見つめた。
文字は読めない。
だが、それは確かに――
未来でイヴから受け取ったものと、寸分違わぬ羊皮紙だった。
「これだ……。」
「俺は、これを受け取った。」
イヴは静かに羊皮紙へ視線を落とす。
「……偶然では説明できないわね。」
ゆっくりと顔を上げ、イヴはノクトへ視線を向けた。
「ノクト……。」
一拍置き、静かに言う。
「明日の星夜祭……私たちも行ってみましょう。」
ノクトは静かに尻尾を揺らした。
「うん。」
「僕も賛成だよ。」
「何が起きるのか、この目で確かめよう。」
ゴォーン……
一日の終わりを告げる日没の鐘が、街へ静かに響いた。
光瑠は静かに窓の外へ目を向けた。
夕日がゆっくりと地平線へ沈んでいく。
星夜祭は――明日の夜。
あれが夢だったとは思えない。
だが、夢でなければ――
どうして自分は、ここにいる。
どうして、今も生きている。
……いっそ、あれが悪い夢だったと言われた方が、どれほど楽だっただろう。
部屋は静かな沈黙に包まれていた。
誰も言葉を発しない。
イヴも。
ノクトも。
やがて、ノクトはぽんと前足を合わせた。
「……今日はもう考えてもしょうがないね。」
光瑠はゆっくりとノクトへ視線を向ける。
「まずは腹ごしらえでもしようよ。」
「お腹が空いてると、いい考えも浮かばないからさ。」
光瑠は思わず苦笑した。
イヴも小さく頷く。
「……そうね。」
「明日に備えるなら、体調も整えておかないと。」
光瑠は少しだけ迷うように俯く。
食欲などなかった。
それでも――
「……分かった。」
光瑠は小さく頷いた。
三人は静かに部屋を後にした。




