【第9話】変わり始める未来
廊下を歩きながら、ノクトがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、ヒカル。」
「ちなみに今日の夜は何を食べたの?」
「えーと……。」
光瑠は少し考える。
「実は、俺は部屋で倒れて気絶してたんだ。」
「頭をぶつけて出血して、イヴに治療してもらって……。」
ノクトの視線が、光瑠の頭へ向く。
当然、今は傷一つ残っていない。
「それで『安静にしていなさい』って言われて。」
「イヴがパンとチーズを買ってきてくれたんだ。」
「三人で部屋で食べたよ。」
ノクトは顎に前足を添え、考え込む。
「ふーん……」
「じゃあ、ヒカルが見た今日とは、もう流れが変わり始めてるってことか。」
光瑠は静かに息を呑んだ。
確かに、未来では三人で部屋で食事をしていた。
だが今は、宿の食堂へ向かっている。
未来と同じではない。
だったら――
明日の星夜祭も。
何も起こらない未来へ変わることだって、あるのかもしれない。
……そうであってほしい。
「おお、兄ちゃんたち! さっきはびっくりしたぜ。大丈夫だったのかい?」
グレンが明るく、それでいて心配そうに声をかける。
「グレンさん……」
光瑠は思わず足を止めた。
喉の奥が熱くなり、言葉が続かない。
「そういや兄ちゃん。」
グレンは首を傾げる。
「俺の名前、教えたっけか?」
光瑠は言葉に詰まった。
未来で聞いた――
そんなこと、説明できるはずがない。
「えっと、その……」
困ったように視線を泳がせる光瑠を見て、グレンは豪快に笑った。
「はっはっは! まあ、細けぇことはいいか!」
「それより腹減ってるだろ?」
「良かったら家内の料理でも食べていかないか?」
「今日は特別に宿泊費とセットってことにしていいからよ。」
グレンはにかっと笑った。
ノクトはしっぽを嬉しそうに揺らす。
「ヒカル。」
「せっかくだし、ありがたくいただこうよ。」
光瑠はグレンを見つめる。
未来では、もう二度と見られないと思ってた笑顔だった。
「……ありがとうございます。」
三人は宿の食堂へ向かった。
席についてしばらくすると、一人の女性が湯気の立つ料理を運んできた。
「青い髪の綺麗なお嬢さんに、喋る黒猫ちゃん。」
「それからーー」
女性は光瑠を見て、くすりと微笑む。
「ちょっと元気のないお兄さん。」
「あなた達のことね。」
そう言うと、温かな料理を三人の前へ丁寧に並べていく。
「うちの旦那がね。」
「元気の出るものを作ってやってくれって言うもんだから。」
「普段は宿では出していない、特別メニューよ。」
そう言って、女性は優しく微笑んだ。
光瑠はゆっくりとテーブルへ視線を落とす。
そこには、色とりどりの料理が並んでいた。
焼きたてのパン。
香草の香りが漂うスープ。
こんがりと焼かれた肉料理。
色鮮やかな野菜の付け合わせ。
どれも湯気を立て、美味しそうな香りを漂わせている。
その中には、星夜祭の日、
グレンにレシピを教わりながら、一緒に作った料理も並んでいた。
見覚えのある料理が、胸を締めつける。
「……いただきます。」
光瑠は静かに手を合わせると、ゆっくりと料理を口へ運んだ。
「……美味しい。」
思わず言葉が漏れる。
明日、自分がレシピを教わりながら作った料理よりも。
その中で、一口食べた瞬間、思わず手が止まる料理があった。
リンゴのような甘い香りの果物を使ったパイだ。
口いっぱいに優しい甘さが広がる。
「……これ。」
これは――
グレンに教わっても、最後まで再現できなかった味だ。
光瑠は振り返り、他のテーブルを片付けているグレンの妻へ声をかけた。
「あの……」
「このパイって、明日の星夜祭の看板メニュー……なんですか?」
グレンの妻は光瑠の皿を見ると、優しく微笑んだ。
「ええ、そうよ。」
「よく分かったわね。グレンから聞いたの?」
光瑠はパイへ静かに視線を落とす。
「いいえ。」
「……何となく、そう思ったんです。」
グレンの妻は少し不思議そうに首を傾げる。
「ふふっ、不思議な子ね。」
「このパイは毎年、星夜祭だけの特別メニューなの。」
「みんな毎年楽しみにしてくれてるのよ。」
そう言って、どこか誇らしげに微笑んだ。
光瑠はその笑顔を見つめる。
――この笑顔も。
明日は、失われるはずだった。
食事を終え、三人は席を立った。
光瑠はグレンの妻へ向き直り、小さく頭を下げる。
「ご馳走さまでした。」
「とても美味しかったです。」
グレンの妻は光瑠の顔を見ると、ふわりと微笑んだ。
「ふふふ。」
「?」
光瑠は不思議そうに首を傾げる。
「良かった。」
「少し元気が出たみたいで。」
光瑠は思わず目を瞬かせた。
「さっきより、ずっといい顔をしてるもの。」
そう言って優しく微笑む姿は、まるで本当の母親のようだった。
不安はある。
だが、確かに少しだけ心が軽くなったような気がした。
「それにね?」
グレンの妻はいたずらっぽく微笑む。
「隣でずっと暗い顔をしていたら、女の子は不安になっちゃうものよ?」
そう言って、イヴへ視線を向ける。
「……ね?」
不意に話を振られたイヴは、一瞬だけ目を丸くした。
「……別に。」
そう答えると、そっと視線を逸らす。
グレンの妻はくすりと笑った。
「ふふっ。」
「そういうことにしておきましょうか。」
俺は……。
そんなに酷い顔をしていたんだろうか。
光瑠はそっとイヴへ目を向ける。
イヴは気まずそうに視線を逸らしたままだ。
「……心配かけた。」
光瑠が小さく呟く。
イヴは少し間を置いてから答えた。
「……別に。」
「気にしてないわ。」
「また食べに来てちょうだいね。」
グレンの妻は手を振って見送る。
三人は食堂を後にした。
食堂を出た光瑠は、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「なあ。」
「ちょっと星を見てもいいか?」
ノクトはにっこりと笑う。
「もちろんさ。」
「食後すぐに寝転がるのは良くないしね。」
光瑠は小さく笑みを浮かべると、宿の外へ歩き出した。
夜空を見上げる。
無数の星々が、まるで宝石を散りばめたように静かに瞬いていた。
「……綺麗だ。」
自然と、その言葉が口をつく。
胸を締めつけていた不安が、ほんの少しだけ和らいでいく。
少し離れた場所では、イヴとノクトが何も言わずにその背中を見つめていた。
ノクトがイヴの足を前足でつついた。
「ねぇ、イヴ。」
「いつの間にヒカルと仲良くなったの?」
「……は?」
イヴは怪訝そうに眉をひそめる。
「別に、仲良くなってなんか――」
その時だった。
「……っ!」
胸の奥が熱くなる。
次の瞬間――
頭の中へ、見覚えのない光景が流れ込んできた。
頭から血を流し、倒れる光瑠。
必死に治療を施し、ベッドへ運ぶ自分。
三人で囲んだ、パンとチーズの夕食。
そして――
『不安に思える夜の闇も、星を包み込む優しい色だって、俺は思うよ。』
胸の奥が、じんわりと温かさで満たされていく。
「……え?」
イヴは思わず胸元へ手を当てた。
「イヴ。どうしたの?」
ノクトが足元からイヴを覗き込む。
イヴは小さく息を整えた。
「……なんでもない。」
胸元からそっと手を離し、光瑠の背中へ視線を向ける。
星空を見上げるその横顔は、どこか寂しげだった。
「……それより。」
「彼の言っていた黒髪の男。」
「赤い欠片のネックレス、って言っていたわね。」
「うん。」
ノクトも光瑠へ視線を向け、小さく頷く。
「僕たちの探し物が、見つかるかもしれないね。」
イヴは静かに夜空を見上げた。
光瑠がしばらく星空を眺めていると、
遠くの通りから、小さな影がこちらへ歩いてくるのが見えた。
ふらふらと、おぼつかない足取り。
月明かりに照らされ、その姿が少しずつ近づいてくる。
それは、有理栖よりも少し幼い、小さな女の子だった。
「へっくしっ……」
小さなくしゃみが、静かな夜へ溶ける。
少女は全身ずぶ濡れのまま、小さな肩を震わせていた。
服の裾からは、ぽたぽたと雫が石畳へ落ちている。
「どうしたの? 大丈夫かい?」
光瑠は腰を落とし、女の子へ優しく声をかけた。
「へっくしっ。」
「水路で遊んでたら、落っこちちゃって……。」
少女は鼻をすすりながら答える。
「それは大変だったね。」
「おうちはどこ?」
少女は小さな指で、『旅人の隠れ家』を指さした。
光瑠は思わず目を見開く。
「……もしかして、イリア?」
「え?」
少女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「……うん。」
「イリアだけど。」
不思議そうに首を傾げた。
「どうして、お兄ちゃんが私の名前知ってるの?」
答えられない。
光瑠は言葉を飲み込んだ。
「お、お父さんが心配して待ってるんだ。」
その瞬間――
光瑠の脳裏に、明日のグレンの言葉が蘇る。
『実はな。今日の星夜祭でうちも露店を出す予定なんだが、娘が熱を出しちまってよ。』
――熱。
光瑠ははっとイリアを見る。
全身ずぶ濡れの服。
寒さで震える小さな肩。
「イリア。」
「体を冷やしちゃまずい。」
「とにかく早く家に入ろう。」
「……うん。」
「寒い……。」
イリアは小さく頷いた。
光瑠はイリアの手を引いて『旅人の隠れ家』へ向き直る。
「待って。」
イヴは静かにイリアの前へ歩み出た。
そしてしゃがみ込み、小さな体へそっと手をかざす。
「動かないでいてね。」
「――イグナ。」
右手に炎のような紅い光が灯る。
「――シルファ。」
左手には、薄緑色の風の魔力が静かに渦を巻いた。
二つの魔法がゆっくりと溶け合い、淡い金色の光となってイリアの身体を優しく包み込む。
濡れていた服から、白い湯気がふわりと立ち上る。
冷え切っていた身体へ、じんわりと温もりが戻っていく。
「わぁ……。」
イリアは目を丸くした。
「あったかくて……気持ちいい。」
しばらくして、魔力の渦はゆっくりと消えていく。
「うわぁ! お洋服、乾いてる!」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
光瑠は、乾いた服とすっかり温まったイリアを見て目を丸くした。
「すごいな……ドライヤー要らずかよ。」
「どらいやーって、なぁに?」
イリアは不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもないよ。」
光瑠は苦笑した。
イリアは乾いた服を嬉しそうにぱたぱたと揺らす。
「お兄ちゃんもありがとう!」
その無邪気な笑顔に、光瑠も自然と微笑み返した。
イヴはそんな二人を見つめ、小さく口元を緩める。
イリアは光瑠とイヴの手を引き、『旅人の隠れ家』へ駆け込んだ。
「お父さーん! お母さーん!」
奥からグレンが慌てて飛び出してくる。
「イリアー! 遅かったから心配したぞー!」
「お父さん!」
イリアは光瑠とイヴの手を握ったまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「あのね!」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんがね!」
「魔法でお洋服乾かしてくれたの!」
「ほら!」
嬉しそうに服を広げて見せるイリア。
「ん? どういうことだ?」
グレンは不思議そうに首を傾げた。
「遊んでいたら水路に落ちちゃったらしくて。」
「ずぶ濡れになっていたところを、イヴが魔法で乾かしてくれたんです。」
「そうだったのか……。」
グレンはしゃがみ込み、イリアの服にそっと触れた。
続いて額や頬へ手を当て、体温を確かめる。
「……温かいな。」
ほっとしたように息を吐き、立ち上がった。
「こりゃ助かった。」
「ありがとな、嬢ちゃん。」
「兄ちゃんも。」
奥からグレンの妻が姿を現した。
「イリア〜、おかえりなさい。」
「あら?」
玄関でイリアが嬉しそうにぴょんぴょん跳ね回っている。
その様子に、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
グレンは苦笑しながら事情を説明する。
「まあ、そうだったの。」
そして、光瑠とイヴへ優しく微笑む。
「ありがとうねぇ、二人とも。」
グレンの妻は、イリアを挟んで両側で手を繋ぐ光瑠とイヴを見回し、くすりと笑った。
「なんだか、こうして見ると若い夫婦と子どもみたいね。」
「わかいふ……な、何を言ってるんですか!」
光瑠は顔を真っ赤にした。
思わずイヴを見る。
視線が合う。
イヴも一瞬だけ目を見開く。
「……。」
ほんの僅かに頬を染めると、何も言わず静かに視線を逸らした。
「若いっていいわね。」
グレンの妻は優しく微笑んだ。
「さあ、イリア。」
「明日は早いから、今日は早めに休みましょう。」
「はーい!」
イリアは名残惜しそうに光瑠とイヴの手を離す。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、おやすみ!」
元気よく手を振るイリアに、光瑠も小さく手を振り返した。
「……おやすみ。」
イヴも静かにそう返す。
イリアは満足そうに笑うと、両親と一緒に宿の奥へ消えていった。
三人は宿の階段を上り、それぞれの部屋の前で足を止めた。
「じゃあ、また明日。」
イヴは少しだけ振り返り、静かに言う。
「ああ。」
光瑠は小さく頷いた。
「今日はありがとう、イヴ。」
「……おやすみ。」
「ええ。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ〜、ヒカル〜。」
ノクトはしっぽをゆらりと揺らした。
互いに部屋へ入る。
扉が静かに閉まった。
部屋へ戻った光瑠は、静かにベッドへ横になった。
今日起きたこと。
グレンたちとの食事。
イリアとの出会い。
そして、自分だけが知る「明日」の出来事。
イリアは熱を出さずに済むかもしれない。
未来は、少しだけ変わり始めている。
だったら――
星夜祭の災厄も。
変えられるのかもしれない。
光瑠は胸の中で、そっと願う。
――どうか。
誰も死なない未来になりますように。
その願いを抱いたまま、光瑠は静かに目を閉じた。




