【第16話】三度目の星夜祭
──翌朝。
宿の外から、賑やかな話し声が聞こえてくる。
光瑠はゆっくりと目を覚ました。
……眠ってしまっていたのか。
はっとして、ベッドへ視線を向ける。
イヴは変わらず、静かな寝息を立てていた。
光瑠は小さく息をつく。
そっと、握っていたイヴの手を離した。
今日は星夜祭だ。
だが今夜、あの厄災が起きることはもうない。
光瑠はイヴの寝顔を静かに見つめる。
まだ目を覚ます様子はない。
「ゆっくり休んでくれ。」
小さく呟くと、光瑠は部屋を後にした。
宿の一階へ降りると、グレンが豪快に笑いながら声をかけてきた。
「よう兄ちゃん! おはようさん! ……って、もう昼過ぎだけどな!」
光瑠もつられて小さく笑う。
「おはようございます。」
「昨日はうちの娘、イリアが世話になったみたいだな。」
「風邪でも引いてたら、今日の星夜祭に行けなくなるところだった。」
「本当にありがとうな。」
光瑠は胸を撫で下ろす。
良かった。
どうやらイリアは今回も風邪をひかなくて済んだようだ。
「イリアを助けたのは、イヴだよ。」
「ああ。魔法であっためてくれたのは、青い嬢ちゃんだって聞いてる。」
光瑠は静かに頷く。
「でもな。」
「イリアは、兄ちゃんと嬢ちゃん、二人に助けてもらったって言ってたぜ。」
グレンはニカッと笑った。
光瑠は少し目を見開く。
そして、小さく笑う。
「……そっか。」
「グレン。」
「悪いけど、もう少し部屋を使わせてもらってもいいかな。」
「イヴがまだ休んでるんだ。」
「ああ、もちろんだ。」
「もう一泊分くらいサービスしてやるよ。ゆっくりしていきな。」
光瑠は深く頭を下げた。
「ありがとう。」
礼を告げると、宿の外へ向かった。
「そういや兄ちゃん。」
「名前はなんて言うんだ?」
グレンが呼び止める。
そうか。
この世界のグレンには、まだ名乗っていなかった。
光瑠は穏やかに微笑み、振り返る。
「光瑠。」
「星川光瑠だ。」
「ヒカル……か。」
「いい名前だな!」
グレンは笑顔で光瑠の背中を見送った。
光瑠は『旅人の隠れ家』を出て、三番街の騎士団詰所へ向かった。
自分が望む答えは返ってこないと、分かっていた。
それでも、確かめずにはいられなかった。
騎士団詰所へ到着し、扉を開く。
見覚えのある受付の女性が、カウンター越しに顔を上げた。
「どうされましたか?」
「……人を探しているんです。」
「お名前や特徴を教えていただけますか?」
光瑠は一つ一つ伝えていく。
女性は資料へ目を通し、小さく首を横へ振った。
「申し訳ありません。」
「現在のところ、その方に該当する保護情報や目撃情報は届いておりません。」
「……そうですか。」
光瑠は小さく頭を下げ、詰所を後にした。
やはり、有理栖はまだ見つかっていなかった。
今は、明日の捜索報告を待つしかない。
分かっていた。
それでも、心のどこかで期待してしまっていた。
光瑠は静かに空を見上げる。
「有理栖……」
小さく呟くと、『旅人の隠れ家』への道を歩き出した。
宿へ戻り、光瑠は静かにイヴの部屋の扉を開けた。
ベッドへ目を向ける。
イヴが身体を起こしていた。
「イヴ……!」
イヴはゆっくりと光瑠へ視線を向ける。
だが、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい。」
光瑠は何も答えず、静かに歩み寄る。
ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
「具合はどう?」
「まだ苦しい?」
「少しだるいけど……大丈夫……」
イヴは俯いたまま、小さな声で続けた。
「カインが来ていなかったら……」
「命を落としていた。」
「私も……あなたも。」
「私は……」
「ノクトと二人なら、誰にも負けないと思っていた。」
「……でも。」
光瑠は拳を強く握る。
「違う。」
「昨日は俺一人じゃ、戦うことすらできなかった。」
「イヴがいて。」
「ノクトがいて。」
「カインが来てくれて。」
「誰か一人でも欠けていたら、俺たちはここにはいなかった。」
光瑠はゆっくりと拳をほどく。
「みんなが力を貸してくれたから、俺たちは生きてる。」
布団を握るイヴの手に力が入る。
俯いたまま、唇をきゅっと結んだ。
その瞳は、わずかに潤んでいた。
コンコン。
「入ってもいいかしら?」
「ああ、どうぞ。」
光瑠が返事をすると、ドアが静かに開く。
グレンの妻が、バスケットを抱えて微笑んでいた。
「主人がね、『疲れてるみたいだから、持っていってやれ』って。」
「これ、よかったら食べて。」
バスケットの中には、焼きたてのパンや果物、それに『旅人の隠れ家』自慢の焼きたてのパイが並んでいた。
「昨日はイリアを助けてくれたそうね。」
「本当にありがとう。二人とも。」
「いえ、そんな……」
光瑠は照れくさそうに頭を下げる。
その時、グレンの妻がイヴの顔を見て目を丸くした。
「あら?」
「まあ、こんなに可愛い子を泣かせたら駄目よ?」
「な、泣いてません。」
イヴは慌てて顔を背ける。
グレンの妻はくすっと笑った。
「ふふっ。辛い時くらい、女の子はもっと男の子に甘えたっていいのよ?」
「だ、大丈夫ですから。」
イヴは顔を隠すように布団を寄せる。
部屋の張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます。」
「……あの。」
「カルラよ。」
「そう呼んでちょうだい。」
「ありがとうございます、カルラさん。」
カルラは優しく微笑んだ。
「それじゃ、ごゆっくり。」
そう言ってカルラは部屋を後にした。
光瑠はバスケットをテーブルへ置き、中を覗き込む。
イヴはそんな光瑠の背中を静かに見つめていた。
ふと、その手が目に入る。
あの手――
昨夜、自分の手を優しく握ってくれていた。
呪術に苦しみ、
うなされていた時も。
あの手の温もりだけは、ぼんやりと覚えていた。
イヴの視線は光瑠の手から、自分の手へと移る。
そっと自分の指先を握りしめた。
『君を、絶対に未来へ連れていく!』
昨夜の光瑠の言葉が脳裏をよぎる。
……
イヴの頬が、ほんの少しだけ熱を帯びた。
「イヴ。」
光瑠に名前を呼ばれ、イヴははっと顔を上げた。
視線が重なる。
「……え?」
慌てるように布団を握り直す。
「な、何?」
「ノクトは……大丈夫なのか?」
イヴは胸元のネックレスに嵌められた紫色の宝石をそっと撫でた。
「……大丈夫。」
「今は眠っているだけみたい。」
「昨日は魔力を使いすぎたもの。」
「回復には、もう少し時間がかかると思う。」
「そうか……」
光瑠はネックレスへ視線を落とした。
無事なら、良かった。
前回の『今日』――
目の前で消えていくノクト。
砕け散った紫のネックレス。
それを見つめ、涙を流すイヴ。
あの光景だけは、二度と見たくない。
しばらくの沈黙が、部屋を包んだ。
その静けさを破るように、宿の外から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
子どもたちのはしゃぐ声。
露店を組み立てる音。
祭りの準備に追われる人々の賑やかな声。
光瑠は窓の外へ視線を向ける。
「すっかり星夜祭一色だな。」
「イヴは星夜祭って、行ったことはあるの?」
イヴも静かに窓の方を見る。
「ええ。」
「ここ数年は毎年来ていたわ。」
「でも、今年はやることがあったから、元々お祭りに行く予定ではなかったの。」
光瑠はイヴの横顔を見つめる。
その顔はどこか寂しそうにも見える。
「……本当は、今年も行きたかった?」
イヴは窓の外を見つめたまま、小さく微笑んだ。
「……少しだけね。」
イヴは光瑠へ向き直る。
「でも、今日はもう外へは出られそうにないわ。」
小さく笑った。
光瑠は少し考え込む。
やがて、何かを思いついたように小さく笑う。
「よし。」
「ちょっと待ってて。」
そう言うと、光瑠は部屋を飛び出した。
「えっ……?」
イヴは不思議そうに首を傾げていた。
光瑠はグレンの元へ向かった。
ロビーでは、グレンとカルラ、イリアが忙しそうに星夜祭の準備を進めていた。
「あ、お兄ちゃん!」
イリアが笑顔で駆け寄ってくる。
「イリア、準備を手伝ってるのか。」
「偉いな。」
光瑠は優しくイリアの頭を撫でた。
「グレンさん。」
「今日、この後少しだけキッチンを借りてもいいかな?」
「ん?」
「キッチン?」
グレンは首を傾げる。
光瑠は事情を説明した。
グレンは腕を組みながら何度も頷く。
「なるほどな。」
やがて豪快に笑った。
「はっはっは!」
「そういうの、嫌いじゃねぇ。」
「残ってる食材も好きに使ってくれ。」
「お兄ちゃん!」
イリアは目を輝かせながら光瑠を見つめる。
「お姉ちゃんのお部屋は私に任せて!」
「お兄ちゃんはこっちのこと、気にしなくていいからね!」
光瑠は少し驚いたように目を丸くした。
「ありがとう、イリア。」
光瑠はもう一度、優しくイリアの頭を撫でる。
「じゃあ、お願いな。」
「うん!」
イリアは元気よく頷き、二階へ駆け上がっていった。
「ごめんなさいね。」
「手伝ってあげたいんだけど……。」
カルラは準備の手を止めることなく、申し訳なさそうに微笑む。
「いや、十分だよ。」
「キッチンを貸してもらえるだけで、本当に助かる。」
光瑠はキッチンへ向かった。
静かに袖をまくり、準備を始めた。
──その頃。
イヴはベッドの上で静かに窓の外を眺めていた。
バタン!
「お姉ちゃん!」
勢いよく部屋のドアが開き、イリアが元気いっぱいに飛び込んでくる。
「イ、イリアちゃん……?」
イヴは目を丸くした。
「お兄ちゃん、今キッチンでお料理してて……」
「あっ!」
イリアは慌てて両手で口を塞ぐ。
「……これ、秘密だった。」
「と、とにかく!」
「このお部屋の飾り付けは、私に任せてね!」
イリアはえへん、と胸を張る。
イヴは不思議そうに首を傾げた。
夕暮れが街を優しく染め始めた頃――
一階からカルラの声が響く。
「イリア〜。そろそろ行くわよ〜。」
「はーい!」
「お姉ちゃん、私行かなきゃ!」
「そろそろお兄ちゃんも来ると思うから。」
イリアはドアの前でくるりと振り返る。
「あとは若いお二人で楽しんで。」
そう言い残し、元気よく部屋を飛び出していった。
……どこでそんな言葉を覚えたのかしら。
イヴは思わず小さく笑った。
イリアが去った後、イヴは静かに部屋を見渡した。
壁には色とりどりの星の飾り。
窓辺には小さな旗が揺れ、部屋のあちこちには花の装飾が飾られている。
まるで、星夜祭の街並みがそのまま部屋へ運ばれてきたようだった。
思わず頬が緩む。
コンコン。
「お待たせ。」
「おお!イリア、頑張ってくれたんだな。」
光瑠が部屋へ入ってくる。
両腕には、大皿がいくつも抱えられていた。
「えっ……」
イヴは思わず目を見開いた。
光瑠はテーブルへ料理を並べていく。
「『旅人の隠れ家』の露店で出すメニューを、いくつか作ってみたんだ。」
「少しでも、お祭り気分を味わえたらと思って。」
「本家の味には及ばないけどね。」
「料理……できるのね。」
そういえば、この世界ではまだ話していなかったんだ。
「一応、数少ない俺の取り柄なんだ。」
イヴは並べられた料理を見つめる。
どの料理も湯気を立て、美味しそうな香りが部屋いっぱいに広がっていた。
「全部……私のために?」
光瑠は照れくさそうに頭を掻く。
「まあ……そんなところ。」
イヴは昼の会話を思い出す。
『……本当は、今年も行きたかった?』
『……少しだけね。』
別に、どうしても星夜祭へ行きたかったわけじゃない。
確かに毎年参加していた。
ただ今年は行かないものだと思っていただけ。
イヴは料理を並べていく光瑠の姿を見つめる。
「……バカね。」
ふっと笑い、小さく呟く。
「え? 何か言った?」
光瑠はきょとんと首を傾げた。
イヴは小さく首を横へ振る。
「いいえ。」
そして、優しく微笑む。
「……ヒカル。」
光瑠の手が止まる。
「ありがとう……」
その一言に、光瑠は静かに目を見開いた。
『ヒカ……ル……』
昨日、呪術に苦しみながら、掠れる声で呼ばれた名前。
今はもう、その声に苦しみはない。
穏やかな笑顔で、自分の名を呼んでくれた。
視界が潤み、景色がぼやける。
光瑠は何事もなかったかのように、そっと目元を擦った。
「まだ食べる前なのに、お礼は早いって。」
その時だった。
「そうだよ、イヴ。」
聞き慣れた声が部屋に響く。
「まずはヒカルの料理の腕を確かめるのが先だね。」
光瑠はハッとイヴの胸元へ視線を落とした。
ネックレスの紫色の宝石が、淡く輝き始める。
紫色の光は次第に強さを増し、ネックレスから魔力が足元へ広がっていく。
やがて紫の魔力が渦を巻く。
光が静かに弾け、その中心から一匹の黒猫がゆっくりと姿を現した。
その姿に光瑠は目を見開く。
「ノクト……!」
イヴは安堵したように微笑んだ。
「おはよう、ノクト。」
「うん、おはよう。イヴ。」
ノクトは光瑠へと視線を移す。
「ヒカル、ただいま。」
光瑠は思わず笑みをこぼした。
「ああ、おかえり! ノクト!」
ノクトは軽やかにテーブルへ飛び乗る。
「うーん、いい匂いだ。」
料理を覗き込み、尻尾をゆらりと揺らした。
「全部、ヒカルが作ったの?」
「ああ。料理には少しだけ自信があるんだ。」
ゴォーン……
日没を告げる鐘の音が、街中へ静かに響き渡る。
星夜祭の始まりを告げる鐘だ。
光瑠は窓の外へ視線を向ける。
窓の向こうでは、色とりどりの灯りが少しずつ街を彩り始めていた。
光瑠はイヴとノクトへ向き直り、笑みを浮かべる。
「さあ。」
「俺たちも星夜祭を始めよう。」
三人は食卓を囲んだ。




