勇者様との結婚を、断りたいのです
「勇者レオンよ。よくぞ魔王を討ち果たした!」
謁見の間に、国王アルベルトの声が響いた。玉座へ続く赤い絨毯の上では、レオンと生還した仲間たちが並んで片膝をついている。三年前に王都を発った勇者一行は全員では戻れなかったが、それでも魔王を討ち、奪われていた北方の町々を取り戻して帰ってきた。
勇者の隣には、剣士や治癒術師に混じって一人の騎士がいた。王国近衛騎士団に籍を置くユリウス・ベルン。三年前、王家から勇者一行へ加えられ、そのまま魔王討伐まで戦い抜いた男である。
玉座の横には第一王女エレノアが立っていた。帰還した一行を迎える王女として穏やかに微笑みながら、国王の言葉を聞いている。
「そなたたちの働きによって、この国は救われた。亡くなった者たちにも、王国として最大限の礼を尽くそう。そしてレオン、そなたには約束どおり爵位と北方領を与える」
「ありがたき幸せにございます」
レオンが深く頭を下げると、重臣や貴族たちから拍手が起こった。国王は満足そうに頷き、そのまま隣に立つエレノアへ視線を向ける。
「そして、もう一つの約束もあるな。魔王を討ち、英雄として帰還した暁には、我が娘エレノアとの婚姻を進める。三年前の話を、ようやく果たせそうだ」
今度は先ほどより大きな拍手が謁見の間を満たした。「まことにめでたい」「勇者殿が王家に入られるなら民も喜びましょう」と祝いの声まで上がり、国王も上機嫌にそれを受け止めている。
レオンは顔を上げ、エレノアを見た。エレノアも彼を見返し、王女として微笑む。レオンが頭を下げると、エレノアも一礼を返した。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
国王はそれを了承と受け取ったらしい。そのまま勇者一行への褒賞の話を続け、謁見の間は祝賀の空気に包まれていった。
◇
「第一王女殿下!? アライ嬢、あなた最近どうなってるんです!」
翌日の午後、ミダス・リーガロウの大声が法律事務所いっぱいに響いた。向かいに座るシャーロットが顔をしかめ、その隣では深くフードを被った女性が少し居心地悪そうに肩を縮めている。
第一王女エレノアである。王家の馬車で乗りつけたわけではなく、途中でシャーロットの馬車へ乗り換え、付き添いも侍女一人だけにして、できる限り人目を避けて来ていた。
「公爵令嬢、聖女様、その次が第一王女! この調子なら次は国王ですよ! その次は神ですか!? 神託の契約不履行でも持ってくるんですか!?」
「先生。身分を隠して来ていただいた意味がなくなるので、まず声を落としてください」
「ああ、それもそうだ! ロイド、窓を閉めて! それから一番高いお茶を!」
ロイドは窓へ向かいながら、「一番高い茶葉は先生が先週飲み切られました」と淡々と答えた。ミダスは一瞬だけ黙り、すぐに指を一本立てる。
「では二番目! 第一王女殿下に三番目を出したなんて後で知られたら、うちの格に関わります!」
そのやり取りを見ていたエレノアが、思わず小さく笑った。張り詰めていた肩から少しだけ力が抜ける。
「シャーロット様から伺っていた通りの方なのですね」
「どういう紹介だったのか非常に気になりますが、今は仕事を優先しましょう!」
ミダスは机の上を片づけ、紙とペンを用意した。
「王位継承、領地、王家の財産、国家間条約。何でしょう? できれば金額の大きい順でお願いします!」
シャーロットが無言で睨むと、ミダスは咳払いして姿勢を正した。
「もちろん、ここで話していただいたことを勝手に外へ漏らしたりはしません。王女様がこちらへ来たことも、ご相談内容も同じです。そこはご安心を」
その言葉を聞いて、エレノアの表情が少し変わった。膝の上で重ねていた手に力を込め、しばらく迷ってから口を開く。
「勇者レオン様との婚姻について、ご相談があります。その婚姻を……断りたいのです」
「お受けしましょう!」
あまりにも早かった。エレノアが目を瞬き、シャーロットも怪訝そうにミダスを見る。普通なら事情を聞き、面倒さを数え、報酬を確認してから動き始める男が、今日はすでに依頼書を引き寄せていた。
「先生。まだ事情をほとんど聞いておりませんが」
「詳しい事情はこれから聞けばいいんですよ! 第一王女殿下の婚姻問題です。燃えない弁護士がいますか!」
「先生は昨日、王族絡みの案件は手続きが増えるから面倒だとおっしゃっていましたよね」
「昨日の私は昨日の私! 今日の私は今日の私です!」
シャーロットはしばらく黙ってミダスの顔を眺めた。妙に機嫌がいい。それも、まだ依頼料の額すら聞いていない。
「……何かあります?」
「ありませんよ?」
返事だけが妙に速かった。
ミダスはその視線から逃げるようにエレノアへ向き直る。
「では理由から伺いましょう。勇者殿が嫌いなんですか?」
「いいえ。嫌いではありませんし、むしろ尊敬しております。この国のために三年間戦い、多くのものを失って帰ってこられた方ですから」
「では他に想い人がいる?」
「……はい」
今度はミダスのペンが止まった。
シャーロットも驚いたようにエレノアを見る。エレノアはしばらく俯いていたが、ここまで来て隠しても仕方がないと思ったのか、ゆっくり顔を上げた。
「誰です?」
ミダスが身を乗り出すと、エレノアは一度だけ侍女を見た。侍女が静かに頷くのを確認してから、小さく息を吸う。
「ユリウス・ベルン。昨日、レオン様とともに帰還した近衛騎士です」
ミダスの眉が跳ね上がった。
「勇者一行の!?」
「はい。もともとは私の護衛を務めていた方です。三年前、レオン様の一行へ王家から騎士を出すことになり、ユリウスが選ばれました」
エレノアはそこで言葉を切った。先ほどまでよりもずっと慎重に、誰にも聞かせたことのない話を一つずつ置くように続ける。
「出征される前から、互いに想い合っておりました。ただ、私は王女で、ユリウスは騎士です。父上の許しもなく公にできる関係ではありませんでしたから、誰にも話さず……三年間、手紙だけを交わしてきました」
ミダスは目を輝かせた。
「三年間!? 魔王討伐中ずっと!? いやあ、それはまたずいぶん立派な秘密を持ってきましたね王女様!」
「先生、嬉しそうに言う話ではありません」
シャーロットにたしなめられても、ミダスは勢いを落とさない。
「だって話が全然違ってくるでしょう! 『勇者殿とは何となく結婚したくありません』と『実は三年間想い合っている男がいます』では、相談の重さがまるで違います!」
エレノアは少し頬を赤くしながらも、否定しなかった。
「昨日、ユリウスが無事に帰ってきたのを見て……本当に嬉しかったのです。三年間、それだけを願っていました。なのに、その同じ場所で父上からレオン様との婚姻を告げられました」
謁見の間で何も言わず頭を下げた自分を思い出したのか、エレノアの指が膝の上で強く組まれる。
「ユリウスも、あの場にいました。レオン様のすぐ後ろに」
今度はシャーロットも何も言わなかった。
「レオン様を嫌っているわけではありません。むしろ国を救ってくださった恩人です。それでも私は、ユリウス以外の方と結婚したくありません」
ミダスは何度も大きく頷き、その勢いのまま紙へ書き込んでいく。
「よし、非常に分かりやすくなりました! 王女様には恋人がいる。しかも昨日、婚姻を告げられた場所にその恋人もいた。これはなかなか酷い絵面ですねえ!」
「先生」
「事実を整理してるだけですよ!」
ミダスは悪びれずに続けた。
「で、王様はこの件をご存じない?」
「存じません。父上に話せば、ユリウスが近衛騎士を外されるかもしれないと思い、これまで言えませんでした」
「なるほど。王女様だけの問題じゃない。下手に動けば相手の人生まで吹き飛ぶわけですね」
エレノアは小さく頷いた。それから、さらに困ったように視線を落とす。
「それだけなら、父上に覚悟を決めて申し上げるべきなのでしょう。ですが……レオン様のことがあります」
ミダスのペン先が、ごくわずかに止まった。
「父上からは、レオン様もこの婚姻を強く望んでおられると聞いています。私との未来を励みに三年間戦ってこられたのだと」
「……なるほど」
ミダスは口元へ手を当てた。何かを堪えているようにも見える。
エレノアは気づかずに続ける。
「昨日、レオン様は傷だらけで戻ってこられました。一緒に旅立った方々も、全員が帰ってきたわけではありません。その方へ『私は別の男性を愛していますので、あなたとは結婚できません』などと……帰還した翌日に、どう申し上げればよいのでしょう」
「しかも、その別の男性は勇者殿と一緒に魔王を倒して帰ってきた仲間」
ミダスが付け加えると、エレノアはますます申し訳なさそうな顔をした。
「はい。レオン様を侮辱するつもりはありません。ですが、このまま黙ってユリウスを諦めることも、私にはできません」
ミダスは椅子から勢いよく立ち上がった。
「なるほど! 王女様には秘密の恋人がいる! しかし国王陛下は知らない! 勇者殿は婚姻を望んでいると聞かされている! 恋人の騎士には迷惑をかけたくない! 勇者殿も傷つけたくない! 王様の面子もできれば潰したくない!」
机をぐるりと回り込み、最後にエレノアの正面で止まる。
「王女様。ずいぶん豪華な条件を並べましたねえ!」
「……やはり、難しいでしょうか」
「誰がそんなこと言いました?」
ミダスは満面の笑みで依頼書を引き寄せた。
「お受けすると最初に言ったでしょう! こちらが着手金! 婚姻を正式に取り下げられた場合はこちらが成功報酬! 王家との追加交渉が発生した場合には、その分を別途協議! いやあ、これはやりがいがありますねえ!」
シャーロットが目を細める。
「先生。やはり妙に乗り気ではありませんか?」
「第一王女殿下の人生がかかってるんですよ! 燃えて当然でしょう!」
「先生が依頼人の人生だけでそこまで燃えたところを、私はあまり見た記憶がありません」
「人聞きの悪いこと言わないでください!」
エレノアは二人のやり取りを見比べながらも、依頼書を読み、しばらく考えた末に署名した。
「お願いいたします、リーガロウ先生」
「お任せください!」
ミダスは依頼書を両手で受け取り、机の端へ丁寧に置いた。まるで高価な証券でも扱うような手つきだった。
「では次に、国王陛下が勇者殿へ何を約束したのか確認しましょう。昨日のお言葉では爵位と領地、それに婚姻。どこまで正式な約束になっているかで、こちらの動き方も変わります」
エレノアはそこで何かを思い出し、侍女へ目を向けた。
「それでしたら、見ていただきたいものがあります。今朝、父上の執務室で確認したものです」
侍女が鞄から一通の文書を取り出した。ミダスが開くと、上部には王家の紋章、その下には国王アルベルトの署名と王印まで押されている。
《魔王討伐成功時の褒賞》
《王国貴族位の授与》
《北方領の下賜》
《第一王女エレノアとの婚姻》
ミダスは最後の一行を二度読んだ。それから、なぜか口元を押さえる。
「先生。今、笑いました?」
「まさか。王家の正式文書ですよ? 私は今、大変真剣です」
「その顔で言われても説得力がありません」
ミダスは褒賞書を机へ置いた。その顔は、どう見ても困っている人間のものではなかった。
むしろ――ひどく楽しそうだった。




