「皆がそう言っていた」ので、皆さんに聞いてみましょう
「多いですねえ」
ミダス・リーガロウは、机の上に積まれた紙束を嫌そうに見つめていた。先日の婚約破棄騒動から五日。シャーロットは、自分を陥れた噂について正式に調査を依頼していた。
「令嬢十二人、令息七人、学院職員三人、商会四つ。ほかにも、噂を理由にアライ公爵家との取引を止めた家がございます」
「多い! 私は弁護士ですよ!? 王都中の人間を一人ずつ訴えて回る仕事じゃないんです!」
ミダスが両手で頭を抱えると、シャーロットは黙って契約書を持ち上げた。そこに書かれた《成功報酬二割》を見た途端、ミダスは姿勢を正した。
「誰が嫌だと言いました? 仕事量について率直な感想を述べただけです! さあ、始めましょう!」
シャーロットは何も言わず紅茶へ口をつけた。ミダスは咳払いを一つして紙束から調査記録を抜き取り、机の上へ三枚並べる。
「教科書を隠した。茶会から締め出した。階段から突き落とそうとした。大広間で殿下が並べた、あなたの悪事三点セットです。どれからいきましょうかねえ」
「どれもしておりません」
「知ってますよ。あなたが犯人だったら成功報酬が減るでしょうが」
シャーロットが冷たい目を向けたが、ミダスは気にせず一枚目を持ち上げた。エミリアの教科書が一時的に見つからなくなったこと自体は事実だったが、シャーロットが隠したところを見た者は一人もいない。
それにもかかわらず、学院では大勢が「シャーロットが隠した」と知っていた。ミダスは壁際から黒板を引っ張り出し、《シャーロットが教科書を隠した》と書く。
「目撃者が一人もいない事件を、なぜか全員が知っている。面白いですねえ」
ミダスは噂を話した令嬢の名前をその下に書き、調査記録を見ながら線を伸ばした。
「この令嬢は友人から聞いた。友人は別の令嬢から聞いた。その令嬢は侍女から聞いた。侍女は学院職員から聞いた。ここまで全員、自分では何も見ていません」
さらに遡ると、学院職員は食材を届けに来た商人から聞いていた。そこでミダスの手が止まり、黒板を二度見する。
「……食材商?」
シャーロットも顔を上げる。
「学院の外から野菜を持ってきた人間が、どうして学院内で起きたはずの嫌がらせを知ってるんでしょうねえ」
ミダスは調査記録へ戻り、食材商の証言を探した。そこには、王太子付きの従者から聞いたと書かれている。
ニコラス・ヘルム。
その名前を黒板へ書くと、ミダスは口元を緩めた。
「アライ嬢。片っ端から請求書を送るのは後です」
「何をなさるのです?」
ミダスは黒板いっぱいに伸びた線を指した。
「『皆さん』を集めましょう!」
◇
三日後、王立学院はシャーロットに関する噂について、正式な事実確認の場を設けた。王太子の婚約破棄にまで使われた話が、どれも目撃者のいない噂だったため、学院側も放置できなくなったのである。
ミダスが提出した名簿をもとに、在学生と職員には出席が求められ、学院へ出入りする商人にも事情聴取への協力が要請された。そうして一室に集められた十数人の前で、ミダスは待ちかねたように両腕を広げる。
「ようこそ皆さん! 本日は皆さんが大好きだった、シャーロット・アライ嬢の噂話をしましょう!」
学院側が用意した真面目な事情聴取の場は、開始数秒でミダスの劇場になった。誰も喜んでいなかったが、本人だけは上機嫌で最初の令嬢へ調査記録を見せる。
「あなたは三月十四日の昼食時、『シャーロット嬢がエミリア嬢の教科書を隠した』と三人に話した。間違いありませんね?」
「……はい。でも、私は友人から聞いただけです」
「素晴らしい! では、その友人に聞きましょう!」
次の令嬢も自分では見ておらず、侍女から聞いたと答えた。侍女は学院職員から、学院職員は商人から聞いている。ミダスは証言が出るたびに黒板へ名前を書き足し、線でつないでいった。
ところが途中で、一人の令嬢が青ざめた顔で手を挙げた。
「……教科書の話なら、私かもしれません。エミリア様が教科書を探しているところを見たんです。その少し前に、シャーロット様がエミリア様を嫌っていると聞いていて……だから、もしかしたらシャーロット様が隠したのではないかと」
ミダスは黒板へ《隠したかもしれない》と書いた。
「あなたは、そう言ったんですね?」
令嬢が頷くと、ミダスはすぐにその話を聞いた次の人物へ向き直った。
「あなたは?」
「シャーロット様が隠したらしい、と聞きました」
ミダスは《隠したらしい》と書き、その次の人物へ視線を移す。
「私は……シャーロット様が隠したと聞きました」
ミダスは黒板に三つの言葉を縦に並べた。
《隠したかもしれない》
《隠したらしい》
《隠した》
「たった三人で、推測が事実になりました!」
部屋の誰も笑わなかったが、ミダスは楽しそうだった。最初の令嬢が「そんなつもりでは……」と俯くと、ミダスは責めるでも慰めるでもなく、黒板の最初へ戻る。
「さて、まだ終わってません。この方は、なぜ最初からアライ嬢を疑ったんでしょう?」
理由は単純だった。すでに「シャーロットはエミリアを嫌っている」という噂を聞いていたからだ。その出所をさらに遡っていくと、何人かを経由した末に王太子付きの従者の名前が出た。
ニコラス・ヘルム。
ミダスはその名前を大きな丸で囲んだ。
続いて茶会の噂を追うと、こちらも似たようなものだった。エミリアがある茶会へ招かれなかったという事実に、「シャーロットが嫌っている」という噂がくっつき、いつの間にか「シャーロットが招待を取り消させた」に変わっていた。
「ちなみに、茶会の主催者はどなたです?」
部屋の後方にいた令嬢がおずおずと手を挙げる。
「私です」
「なぜエミリア嬢を招かなかったんです?」
「……面識がなかったからです」
ミダスは数秒黙り、黒板へ《面識がない》と大きく書いた。
「アライ嬢、一切関係ないじゃないですか!」
「私に言われましても」
シャーロットが困ったように答えると、ミダスは「まったくです!」と自分で同意して次の資料を持ち上げた。
階段の件も大差なかった。階段でシャーロットとエミリアが話しているところを遠くから見た者が、エミリアが一歩後ろへ下がったのを見て「揉めていた」と話した。それがすでに広まっていた二つの噂と混ざり、最後には「階段から突き落とそうとした」まで育っていた。
どの噂を遡っても、途中に同じ話が出てくる。「シャーロットはエミリアを嫌っている」。そして、その話を複数の場所で流していた人物も同じだった。
ニコラス・ヘルム。
黒板いっぱいに伸びた線が、一つの名前へ集まっていた。ミダスは数歩下がってそれを眺めると、満足そうに振り返った。
「いやあ、驚きましたねえ。『皆がそう言っていた』! 私もてっきり、何十人もの方が別々にアライ嬢の悪事を目撃したのかと思いましたよ。ところが一人ずつ聞いてみれば、皆さん同じ噂をぐるぐる回していただけだった!」
ミダスは三本の線が集まった名前を指で叩く。
「しかも一番最初まで戻ってみれば、皆さんどころか一人じゃないですか!」
誰も答えなかった。ミダスはその沈黙を楽しむように一度見回してから、扉へ手を向ける。
「というわけで、次の聞き取り対象者です。どうぞ!」
学院職員に呼ばれていたニコラス・ヘルムが入ってきた。部屋に集められた顔を見て眉をひそめ、黒板を見た瞬間にはっきりと表情を強張らせる。
「これは何の真似だ」
「あなたの作品発表会ですよ!」
ミダスが嬉しそうに黒板を示すと、ニコラスはすぐに、自分は教科書を隠していないし、茶会にも関与していない、まして階段から誰かを突き落とそうとしたことなどないと否定した。
「ええ、知っています。聞きたいのはそこじゃありません。あなたは『シャーロット嬢がエミリア嬢を快く思っていない』という話を、複数の人間にしましたね?」
ニコラスはしばらく黙っていたが、やがて「噂として聞いたことを話しただけだ」と答えた。ミダスがその相手を尋ねると、今度は「覚えていない」と目を逸らす。
「なるほど! 三回も話したのに、聞いた相手だけ綺麗に忘れた! でしたら結構、こちらで調べました!」
ミダスは机から一枚の記録を取り出した。最初の噂が流れる二日前、ニコラスはルシアンから、エミリアを愛しているもののシャーロットとの婚約があるため一緒になれないと相談されていた。その直後から、ニコラスは学院内で「シャーロットはエミリアを快く思っていない」と話し始めている。
追及されたニコラスは、ついに声を荒らげた。
「殿下は苦しんでいたんだ! 望んでもいない婚約に縛られていた! 私は殿下のために少し手助けをしただけだ! シャーロット嬢がエミリア嬢を快く思っていないと話しただけで、教科書も茶会も階段も私は何も言っていない!」
ミダスは黙って黒板へ戻り、《快く思っていない》と書いた。その横には《教科書を隠した》《茶会から締め出した》《階段から突き落とそうとした》という三つの噂が並んでいる。
「最初はこれだけだったんですよ。そこへ教科書がなくなった。茶会に呼ばれなかった。階段で二人が話していた。それを皆さんが少しずつ、こんな立派な事件に育ててくださった!」
部屋のあちこちで顔が伏せられた。やがて一人の令嬢が「でも、私は聞いたことを話しただけです」と小さく反論し、別の令嬢も悪意はなかった、皆が話していたから本当だと思ったのだと続ける。
「出ましたねえ、『皆』! 一人ずつ聞けば『自分は聞いただけ』! その前の人も『自分も聞いただけ』! 誰も嘘をついたつもりはない! 誰もアライ嬢を陥れたつもりもない!」
ミダスは黒板を勢いよく叩き、今度はシャーロットを指した。
「なのにこの方は学院中から人を虐める女だと思われ、商会との取引まで止まり、最後には婚約破棄の理由にまで使われた! 不思議ですねえ。誰も悪くないのに、被害だけはある!」
部屋が静まり返る中、ミダスは机から紙束を持ち上げ、四つの山に分けた。
「安心してください。全員に同じ責任を取れなんて言いませんよ。聞いて終わった人。推測を具体的な噂に変えた人。それを事実として大勢へ広めた人。そして、噂を根拠に実際の取引を止めた人。やったことが違うんですから、責任も違います」
ミダスは一番厚い束を持ち上げる。
「まず、聞いて終わっただけの方。金銭請求はしません。ただし今後この件について聞かれたら、『自分は確認していない噂だった』と訂正してください。以上!」
何人かが一斉に安堵した。立ち上がろうとした者までいたが、ミダスは学院職員を指して「事情聴取自体は終わってませんから座っていてください」と告げ、すぐに次の束を持ち上げる。
「次! 推測を事実のように話した方。学院を通じて訂正と正式な謝罪! さらに、面白がって何人にも広めた方については、名誉を傷つけた分の賠償も請求します。金額は後ほど!」
何人かの顔色が変わり、そのうち一人が「悪気があったわけでは……」と訴えた。
「良かったですねえ! 悪意がないことは金額を決めるときに考慮しましょう!」
ミダスはにっこり笑って、その束を机へ戻した。
そして最後に、一番薄い紙束を持ち上げる。
「さて。ニコラス・ヘルムさん」
ニコラスの肩が強張った。
「あなたは殿下から相談を受けた直後、アライ嬢がエミリア嬢を嫌っているという話を複数の場所で流した。その結果、その後に起きた無関係な出来事が、全部アライ嬢の悪意として解釈される土台ができた」
「だから私は、教科書も茶会も階段も知らないと言っている!」
「ええ。ですから、その三件を作った責任まであなたに押しつける気はありません」
ニコラスの顔に一瞬だけ安堵が浮かぶ。ミダスは紙を一枚めくった。
「あなたが実際にやった分だけ請求します」
ニコラスの安堵が消えた。
「虚偽の風評を意図的に流したことによる名誉への損害。学院生活への影響。婚約関係への影響。そしてアライ公爵家が信用を回復するために負担する費用。現在確認できている範囲で、金貨四百八十枚」
「よ、四百八十枚!? そんな金額、払えるわけがない!」
ニコラスが椅子から立ち上がると、ミダスは不思議そうに首を傾げた。
「まだ暫定ですよ」
「増えるのか!?」
「減ると思ってたんですか!?」
ミダスは目を丸くしたまま、今度は商人たちの方へ勢いよく振り向いた。
「そして商会四社! 皆さんはさらに簡単です! 納品停止、契約解除、共同事業からの排除。噂を聞いただけなら噂話ですが、皆さんは実際に契約を動かした!」
商人たちの表情が一斉に固まった。
「ま、待ってくれ。我々は学院で皆がそう言っていると聞いて……」
「また『皆』ですか! 今、その『皆』を一人ずつ並べて正体を確認したでしょうが!」
ミダスは黒板を叩き、そのまま商人たちを順番に指していく。
「しかもアライ公爵家へ事実確認した商会は?」
誰も手を挙げなかった。
「ゼロ! 素晴らしい! 噂だけで契約を止めた! それで損失が出た! こっちは名誉だ悪意だなんて難しい話をする必要すらありません。帳簿がありますからね!」
ミダスは嬉々として新しい紙を黒板へ貼った。そこには、納品停止による損失、共同事業の遅延費用、代替取引先の確保にかかった費用が並んでいる。
一人の商人が慌てて立ち上がった。
「契約を戻す! 今すぐ元に戻せばいいだろう!」
「戻したい?」
「もちろんだ!」
ミダスはシャーロットを振り返る。
「アライ嬢。どうします?」
「一度、噂だけで取引を止めた相手です。以前と同じ条件では難しいかと」
「だそうです! 再契約をご希望なら、新しい条件について後日お話ししましょう。再契約なさらない場合は、発生した損害について請求を続けます。お好きな方をどうぞ!」
商人たちが黙り込む中、学院長が席を立った。
「学院からも伝えておくことがある。今回の調査で、根拠を確認せず噂を広めた生徒については、それぞれ指導記録を残す。悪質と判断された者については、追加の処分を検討する」
学院長はそこでニコラスへ視線を移した。
「ニコラス・ヘルム。君については、王太子付きという立場を利用して複数の生徒へ意図的に情報を流した疑いが強い。調査終了まで、王太子付き従者としての学院内活動を停止する」
「待ってください! 私は殿下のためにやったんです! 殿下が自由にエミリア嬢を選べるように!」
ニコラスの顔から血の気が引く。学院長は「その殿下の婚約破棄の根拠に、事実ではない噂が使われた。だから調べている」とだけ答え、再び席へ戻った。
ミダスはニコラスを眺め、感心したように頷いた。
「殿下のために動いて、殿下付きの立場を止められる。人生というものは、なかなか上手くできていますねえ」
「貴様……!」
「おっと、私に怒っても四百八十枚は減りませんよ!」
ミダスは最後に、黒板の空いている場所へ大きく数字を書いた。
《現時点 請求見込総額 金貨一千八百二十枚》
部屋が静まり返る中、シャーロットもその数字を見上げ、しばらくしてから隣のミダスを見る。
「先生」
「なんです?」
「二割でしたね」
ミダスの動きが止まり、もう一度黒板を見た。金貨一千八百二十枚。その二割を頭の中で計算したらしい。
数秒後、ミダスは勢いよく両腕を広げた。
「皆さん! 本日は実に有意義な会でした!」
「急に機嫌が良くなりましたね」
「何をおっしゃる! 私は最初から真剣ですよ!」
ニコラスが机を叩いた。
「こんなもの、払えるわけがない!」
ミダスは笑顔のまま振り返る。
「大丈夫です」
ニコラスが一瞬だけ言葉を止めた。
「分割払いも承っております」
「大丈夫じゃない!」
◇
事務所へ戻る馬車の中でも、ミダスは請求見込額を書いた紙を眺めていた。向かいに座るシャーロットは、呆れたようにその姿を見ている。
「先生。あの場にいた全員から、お金を取るわけではないのですね」
「当たり前でしょう。聞いただけの人間まで片っ端から請求していたら、私がただの嫌な奴みたいじゃないですか」
「その自覚はあるのですね」
「失礼な!」
ミダスは紙を鞄へしまい、今度は別の資料を取り出した。
「ニコラスが四百八十。商会四社については実損の精査。訂正と謝罪で済ませる人間を外して……よし、今夜中に全部仕分けます!」
「本当に全部やるのですか?」
「アライ嬢。二割ですよ?」
シャーロットが「聞いた私が馬鹿でした」と息を吐く横で、ミダスはもう次の資料へ赤い印をつけていた。
少しして、シャーロットが窓の外を見たまま尋ねる。
「先生は、噂を信じたことがないのですか?」
「ありますよ。いくらでも。私だって、聞いた話を本当だと思うことくらいあります」
ミダスは資料を揃えながら、一度だけ手を止めた。
「だから、誰かを殴る材料に使う前に確かめるんでしょう」
シャーロットは何も言わなかった。ミダスもそれ以上は語らず、すぐに資料へ目を戻した。
事務所へ到着するなり、ミダスは馬車から飛び降りた。
「ロイド! 計算機! 帳簿! あと酒!」
玄関から白髪の男が顔を出す。
「計算機と帳簿は先生の机に。酒は請求額が確定してからでよろしいかと」
「なぜです!?」
「先生は飲むと計算を間違えますので」
「では酒だけ後です! 素晴らしい判断!」
ミダスが事務所へ駆け込んでいく。シャーロットはその背中を見送ってから、手元の調査記録へ視線を落とした。そこには、以前まで何度も書かれていた言葉がある。
《皆がそう言っていた》
だが今は、その「皆」に一人ずつ名前がついていた。誰が何を聞き、何を足し、誰に話し、何をしたのか。そして、それぞれが自分のした分だけ責任を取る。
シャーロットが記録を閉じると、事務所の奥からミダスの声が響いた。
「ロイド! 商会二社、思ったより金持ってますよ!」
今日もミダス・リーガロウ法律事務所は、金の話で忙しかった。




