【閑話】成功報酬で何を買おう?
ミダス・リーガロウは朝から機嫌がよかった。
法律事務所の机には、革袋が三つ並んでいる。先日の婚約破棄騒動で手に入れた成功報酬で、そのうち一袋は口が開いたままになっていた。
ミダスはそこから金貨を取り出し、机の上に積んでいく。十枚積んでは横から眺め、もう十枚積んでは指先で弾いて音を聞く。数える必要などない。昨夜すでに三回数えている。
「さて……何を買いましょうかねえ!」
椅子の背もたれへ体重を預け、ミダスは満足そうに金貨を眺めた。金が入ったら使う。働いた人間に許された、実に健全な楽しみである。
最初に頭へ浮かんだのは馬車だった。
「今の馬車は駄目です! 揺れる、狭い、見栄えがしない! せっかくなら六頭立てにしましょう。車体は黒、縁取りは金! 扉には《ミダス・リーガロウ法律事務所》の紋章を大きく入れてですねえ!」
「六頭立てでは、この事務所の前を曲がれません」
背後から声がした。
振り返ると、白髪交じりの男が紅茶を運んできたところだった。名をロイドという。住み込みでミダスの身の回りを取り仕切り、料理、掃除、買い出し、帳簿の整理まで何でもこなす男である。
ミダスは立てていた六本の指を見た。
「では四頭! 馬は白で揃えましょうか。いや、黒い車体なら黒馬の方が威厳がある。ロイド、どちらが高いです?」
「毛色では決まりません。血統と調教次第でございます」
「なるほど。では高い方を四頭!」
ロイドは「承知いたしました」と答え、ミダスの前へ紅茶を置いた。まだ買うと決まったわけでもないのだが、そこを指摘することはなかった。
ミダスは紅茶を一口飲み、今度は事務所の中を見回した。壁には法律書を詰め込んだ本棚、窓際には書類棚、中央には依頼人用の長椅子が置かれている。仕事をするだけなら何の問題もないが、金貨八百七十枚を手にした今のミダスには、何もかもが妙に安っぽく見えた。
「ここも改装しましょう!」
勢いよく立ち上がり、まず依頼人用の椅子を指差す。
「これを替えます! 依頼人が座った瞬間に『この弁護士なら勝てる』と思える椅子にする!」
「どのような椅子でしょう」
「金貨五十枚くらいする椅子です!」
「座り心地ではなく、値段でございますか?」
「五十枚もする椅子の座り心地が悪いわけないでしょう!」
言い切ったところで、ミダスの視線が自分の椅子へ移った。依頼人が金貨五十枚の椅子に座っているのに、弁護士がそれ以下というわけにはいかない。
「私の椅子は百枚にしましょう」
「倍でございますか」
「私が座るんですよ? 依頼人より安い椅子に座っていたら示しがつかないでしょう!」
何の示しなのかは分からなかったが、ロイドは頷いた。
ミダスはもう次を探している。視線が自分の袖に止まると、黒い法衣をつまみ、少し離して眺めた。
「法衣も買いましょう。十着! 最高級の生地で仕立ててもらいます!」
「十着も必要でしょうか」
「必要ですとも! 毎日同じ法衣で法廷へ出ていたら、貧乏だと思われるでしょう。月曜用、火曜用、水曜用、木曜用、金曜用、土曜用、日曜用!」
ミダスは指を折って数えた。七着しかない。
「残り三着は?」
「勝負用です!」
「どの日が勝負になるのでしょう」
「裁判なんて毎日勝負でしょうが!」
だったら七着でいいのではないか、とロイドは思ったが口にはしなかった。
一度始まった買い物の妄想は止まらなかった。ミダスは部屋の中を歩き回りながら、目につくものを次々と買い替えていく。
「酒も買いましょう! 北方産の百年物、あれを一本!」
「先生は酒に弱いですが」
「高い酒なら酔い方も上品でしょう!」
「酔い方は変わらないかと」
「では一本だけにします!」
次は床だった。
「絨毯も! 先月、東方商会にあったでしょう。赤地に金色の模様が入った大きいやつ!」
「金貨三十二枚でございます」
「値段まで覚えてるんですか。素晴らしい! 買います!」
壁を見れば、今度は何かが足りない。
「そうだ、蓄音魔道具! 最新型を置きましょう!」
「音楽をお聴きになるので?」
「買ったら聴きます!」
買い物というより、もはや事務所を別の建物へ変えようとしていた。
やがてミダスは窓辺まで歩き、王都の街並みを眺めた。通りには朝から馬車が行き交い、その向こうには貴族街の屋根、さらに遠くには王宮の尖塔が見えている。
「ああ……別邸もいいですねえ」
金貨八百七十枚は、考えれば考えるほど可能性に満ちていた。
「中央区に一軒買いましょう。どうせなら王宮が見えるところがいい! 最上階に大きな窓を作って、さっきの百年物の酒を飲みながら王宮を眺めるんです」
ミダスは窓辺に肘をつき、まだ存在しない別邸で酒杯を傾ける仕草をした。
「そして思い出すんですよ。『あそこから金を取ったんだなあ』って!」
「趣味が悪うございますね」
「最高でしょう!」
満面の笑みだった。
別邸を持つなら、人も増やしたくなる。ミダスは指を折りながら、今度は使用人の配置まで考え始めた。
「料理人を一人、御者を二人、それから掃除係も二人くらい雇いましょうか」
「料理は私がしております。馬車も私がお出ししておりますし、掃除も私が」
「……そうでしたね」
ミダスは指を三本引っ込めた。
ロイドは何事もなかったように机を整えながら、「帳簿、依頼人の受付、裁判記録の整理、買い出しも私がしております」と付け加えた。
ミダスはしばらくロイドを見た。
「あなた、何人分働いてるんです?」
「給金分でございます」
「……給金、上げましょうか」
「ありがとうございます」
ロイドは軽く頭を下げた。ミダスも満足そうに頷き、その件はそれで終わった。
馬車、椅子、法衣、酒、絨毯、蓄音魔道具、別邸。頭の中ではすでにかなりの買い物をしたはずなのに、ミダスはまだ金貨の山を眺めている。
何か足りない。
せっかく大金を稼いだのだから、もっと大きなものが欲しかった。
「……そうだ」
ミダスがゆっくり顔を上げた。
「いっそ、この建物を買い取りましょうか」
「現在は借家ですので、交渉は可能かと」
「いやいや、ロイド。この建物だけ買ってどうするんです」
椅子から立ち上がり、ミダスは窓の外を指差した。
「隣も買う! その隣も買う! 三軒まとめて壁をぶち抜いて、一つの巨大な法律事務所にするんです!」
頭の中に建物が出来上がっていく。
ミダスは部屋の中央まで歩くと、両腕をいっぱいに広げた。
「一階は全部受付! 依頼人が百人来ても大丈夫! 二階は執務室、三階は資料庫! 応接室にはさっきの金貨五十枚の椅子をずらっと並べましょう。正面玄関には大理石の柱を四本!」
ミダスは今度は壁を指差し、そこに存在しない看板を描いた。
「その上に金文字で《ミダス・リーガロウ法律事務所》! 王都の中央通りからでも読める大きさにします。これなら依頼人も迷わない!」
「迷わないためだけでしたら、普通の看板で十分かと」
「夢がないですねえ!」
さらに上を見る。
まだ使っていない場所があった。
「屋上!」
ミダスの声が一段高くなった。
「私の像を置きましょう! 契約書を掲げた私の像です。右手に契約書、左手に金貨! 高さは……十メートル!」
自ら右手を高く掲げ、左手で金貨を握る格好をする。ロイドは紅茶を注ぎ足しながら、その姿を静かに見ていた。
「夜は魔導灯で照らしましょう。王都のどこからでも見える! 子供たちがあれを見て、『お母さん、あれ何?』『あれはミダス先生よ。約束を破った人からお金を取る偉い先生よ』とですねえ!」
「その説明になる可能性は低いかと」
「では、どう説明されるんです?」
「存じません」
ミダスは一瞬だけ考えたが、像そのものをやめる気にはならなかった。
「地下には巨大な金庫を作りましょう。壁一面に金貨を並べるんです! 成功報酬が入るたびに、どんどん埋まっていく。いやあ、これはいい!」
自分で言いながら嬉しくなり、ミダスは両手を擦り合わせた。地下金庫へ大量の金貨を運び込む光景まで想像したところで、また新しい問題に気づく。
「一階から地下まで金貨を運ぶの、大変ですね」
「左様でございますね」
「専用の昇降機をつけましょう!」
「承知いたしました」
ロイドは止めない。
止めないので、どんどん増える。
馬車は四頭立て。椅子は金貨五十枚、自分用は百枚。法衣は十着。酒、絨毯、蓄音魔道具、中央区の別邸。三軒分を使った巨大法律事務所、大理石の柱、十メートルのミダス像、地下金庫、金貨専用昇降機。
ミダスは自分で考えた完璧な未来を想像し、満足そうに腕を組んだ。
「……いい」
しみじみと呟いた。
「実にいいですよ、ロイド。働くというのは素晴らしいですねえ!」
「先生」
「何です?」
「予算はいかほどをお考えでしょうか」
ミダスの動きが止まった。
ゆっくり机を見る。
革袋が三つ。その中に入っている成功報酬は、金貨八百七十枚である。
「……八百七十枚です」
「足りませんね」
「どれくらい足りません?」
ロイドは少し考えた。ミダスが先ほどから口にしたものを、頭の中で一つずつ計算しているらしい。
「別邸と周辺建物の買収価格次第ですが、少なくとも金貨一万枚はご用意いただいた方がよろしいかと」
「一万!?」
ミダスは勢いよく机へ両手をつき、目の前の金貨を見た。八百七十枚。つい先ほどまであれほど立派に見えていた金貨の山が、急に小さく見えてくる。
「……全然足りないじゃないですか」
「左様でございますね」
馬車も欲しい。法衣も、絨毯も、別邸も欲しい。何より、さっき思いついたばかりの巨大な法律事務所が、もう諦められなくなっていた。
特に屋上の像が欲しい。
十分前まで存在すらしていなかったのに、今ではあれがない自分の人生など少し寂しい気さえする。
ミダスは腕を組んで金貨を睨んでいたが、やがて眉が上がった。
「ロイド。今日の依頼は?」
「午前十一時から、共同事業を一方的に除名された商人がお見えになります。出資金も返還されていないとのことです」
「相手に資産は?」
「王都に倉庫を三棟、店舗を二軒。郊外にも土地を所有しております」
ミダスの背筋が伸びた。
さっきまで小さく見えていた金貨八百七十枚を革袋へ戻すと、法衣を掴んで勢いよく羽織る。
「よし、稼ぎましょう! 一万枚! いや、二万枚あれば屋上庭園も作れますね。噴水も置きましょう!」
「必要額が増えておりますが」
「欲しいものが増えたんだから当然でしょう!」
ミダスは革鞄を掴み、上機嫌で執務室へ向かった。ところが扉へ手をかけたところで足を止め、何か重大な問題に気づいたような顔で振り返る。
「ロイド」
「はい」
「私の像、金色にした方が格好よくないですか?」
ロイドは少しだけ考えた。
「鳥の糞が目立つかと」
「……それは困りますねえ」
ミダスは真剣な顔で考え込み、そのままぶつぶつ言いながら執務室へ消えていった。
ロイドは机に残された紅茶を片づける。ほどなくして、奥から大きな声が飛んできた。
「ロイド! 商業ギルドの資産台帳はどこです!?」
「先生の机、左から二番目の引き出しでございます」
「あった! さすがです!」
ロイドは空になった茶器を盆へ載せ、何事もなかったように厨房へ戻っていく。
今日もミダス・リーガロウ法律事務所は、朝から騒がしかった。




