真実の愛ですか。では違約金をお支払いください
「シャーロット・アライ! 私は今日をもって、君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業記念舞踏会、その最中だった。楽団はとっくに演奏を止めている。卒業生と上級生たちは壁際へ退き、広間の中央にはルシアン王太子と、その腕に寄り添うエミリア、そして名指しされたシャーロットだけが残されていた。
来賓席には学院長と教師たち、それに国王の名代として出席している王国宰相もいる。誰も口を挟まない中、シャーロットは手にしていた扇を閉じた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
「まだ分からないのか? 君がエミリアにしてきたことだ。彼女の教本を隠し、茶会から締め出し、階段から突き落とそうとまでした。私はすべて聞いている!」
ルシアンの隣で、エミリアが唇を噛んだ。
「ルシアン様、もういいんです。私はシャーロット様を責めていただきたいわけではありません。ただ、あなたと一緒にいられれば……」
「だからこそ、もう黙っている必要はない。君はずっと我慢してきたんだろう」
ルシアンはエミリアの肩を抱き、シャーロットを睨んだ。
「私は王族として生まれてから、何一つ自分で選べなかった。学ぶものも、住む場所も、付き合う相手も決められ、十五歳になれば妻まで決められた。だが、エミリアだけは私が選んだ。家同士が決めた婚約に従うつもりはない。私は彼女を愛している」
ざわめきが広がった。ルシアンの言葉に頷く学生もいる。反対に、シャーロットの様子を窺って声を潜める者もいた。
シャーロットは反論しなかった。教本には触れていないし、茶会はそもそも自分の主催ではない。階段の件に至っては、エミリアが転びかけたと後から聞いただけだ。
今さら一つずつ否定したところで、ルシアンは聞かないだろう。彼は真相を確かめるために彼女を呼び出したのではない。大勢の前で婚約を破棄し、エミリアを選ぶためにここへ立っている。
「何も言えないのか、シャーロット」
「いえ」
シャーロットは広間の大時計を見た。約束の時刻は十二分も過ぎている。
あの男。金貨五百枚も取っておいて、逃げたのではないでしょうね。
「申し訳ございません、殿下。少々お待ちいただけますか」
「今さら何を待つ?」
「弁護人を呼んでおりますので」
広間が静まり返った。
「……弁護人?」
そのとき、入口の方から男の怒鳴り声が聞こえた。
「だから! シャーロット・アライ公爵令嬢に呼ばれていると言ってるでしょう! 招待状がない? 当たり前です! 私は卒業生じゃないんだから!」
続いて衛兵の制止する声が聞こえたが、男はまるで気にしていない。
「門で止められ、玄関で止められ、廊下で止められ、ようやく着いたら今度は扉の前! 王立学院というのは弁護士一人入れるのに何人の許可が必要なんですか!」
「待て! 学院長の許可が出ていない!」
「規則は大好きですよ! ただし依頼人を十二分待たせる規則なら、あとで責任者のお名前を教えてください!」
大扉が開いた。
黒い法衣を着た男が、衛兵二人を引き連れるようにして入ってくる。三十歳前後だろうか。整った顔立ちではあるが、口元には初対面の相手を苛立たせるのに十分な笑みが浮かんでいる。右手には革鞄、左手には食べかけの焼き菓子まで持っていた。
「いやあ、申し訳ない。王立学院というのは広いですねえ。権力者というのはどうしてこう、無駄に人を歩かせたがるんでしょう。廊下を半分にして、その分学費を返したらいかがです?」
衛兵が「貴様!」と剣に手をかけたが、男は振り返りもしなかった。
「はいはい、職務熱心で結構。後ほど苦情を申し立てますので、お名前だけ頂けます?」
そのままシャーロットの前まで来ると、男は声を落とした。
「残金は?」
「先生、今ですか?」
「今だから聞いているんです。王太子殿下を敵に回したあとで『やっぱり払えません』などと言われたら、私がかわいそうでしょう!」
「用意しております」
「素晴らしい!」
男は焼き菓子の残りを口へ放り込み、満面の笑みでルシアンへ向き直った。
「お待たせいたしました。ミダス・リーガロウ。契約紛争を専門にしております」
「誰が貴様をここへ入れた」
「こちらのご令嬢です」
「これは私とシャーロットの婚姻問題だ。金で雇われた部外者は出ていけ!」
「金で雇われた部外者!」
ミダスは胸を押さえて二歩よろめくと、学生たちへ両腕を広げた。
「皆さん、お聞きになりましたか!? 初対面で私という人間をここまで正確に言い当てた! さすが王太子殿下、人を見る目がおありだ!」
学生たちから笑いが漏れた。ルシアンが睨むと、何人かが慌てて口元を隠す。
ミダスは革鞄から一枚の紙を取り出し、わざわざルシアンから見えるように広げた。
「本日午前、シャーロット・アライ公爵令嬢より着手金として金貨五百枚を頂戴しました。成功報酬は回収額の一割。したがって私は現在、この会場にいる誰よりも熱心に彼女の味方をする理由を持っております」
「……金か」
「他に何が?」
あまりに即答だった。シャーロットが小声で「先生。少しは取り繕ってくださいませ」と注意すると、ミダスは「料金外です」とだけ返した。
ルシアンの顔が赤くなる。
「ふざけるな! 私は婚約を破棄すると言っているんだ!」
「聞いておりましたよ。扉の外まで響いていましたから。それで、理由は?」
「シャーロットはエミリアを傷つけた。そして私はエミリアを愛している。この婚約は家同士が決めたものだ。私には自分が愛する女性を選ぶ権利がある!」
「なるほど!」
突然、ミダスが拍手した。ルシアンが言葉を止める。
「素晴らしい! いや実に素晴らしい! 王族として生まれ、何もかも他人に決められてきた。しかし愛する女性だけは自分で選ぶ! 身分を超えた愛! 古臭い因習への抵抗! 若者が自分の人生を自分で決める! 結構じゃありませんか!」
シャーロットが怪訝そうに「先生?」と呼んだが、ミダスは止まらない。
エミリアが恐る恐る口を開いた。
「では……分かってくださるんですか?」
「もちろんですとも!」
ミダスは今度はエミリアへ両手を広げた。
「人の心を契約書で縛る? できるわけがない! 昨日好きだった女を今日嫌いになろうが、今日好きだった女を明日嫌いになろうが、そんなものは本人の勝手です。殿下があなたを愛している? 大いに結構! 愛しなさい! 抱き合いなさい! 詩でも宝石でも好きなだけ贈り合えばいい! 私は一切邪魔しません!」
ルシアンの表情に余裕が戻った。
「ならば話は早い。婚約破棄を認めるのだな」
「ええ。解除しましょう」
ミダスがにっこり笑った。
「違約金を払って」
ルシアンの笑みが消えた。
「……何?」
「違約金です」
ミダスは鞄から神殿の紋章が押された冊子を取り出した。
「王家とアライ公爵家が締結した神聖婚約契約。解除できますよ。誰も殿下をシャーロット嬢と無理やり結婚させたりしない。ただし、一方的にぶち壊すなら金貨八千七百枚。婚姻準備費、政治的損失、神殿供託金、共同事業の清算まで入れてこの金額です」
「そんなものは父上たちが決めたことだ!」
「ほう? では、この署名は?」
「署名はした! だが当時の私は十五歳だ!」
「神聖契約への署名可能年齢は?」
ルシアンが黙った。ミダスは待たなかった。
「十五歳ですねえ! 実に残念! あと一歳若ければ『子供でした』で逃げられたかもしれない! ところが王族の皆様は一般貴族より早く契約能力を認められる! なぜなら国政に携わるから! 便利な特権ですねえ! 今まさにその特権があなたの首を絞めています!」
「無礼だぞ!」
「契約の話をしています」
ルシアンが一歩出ようとすると、エミリアが腕を掴んだ。
「待ってください。お金を払えばいいのでしょう? それなら私も働きます。私たちは、本当に愛し合っているんです」
ミダスの目がエミリアへ向いた。
「本当に?」
「はい」
「いつから?」
エミリアが答えかけたところで、ルシアンが遮った。
「彼女を尋問するな!」
「尋問? まさか! お二人の素晴らしい恋物語に興味が湧いただけですよ。殿下はいつから彼女を?」
「関係ない」
「あれほど真実の愛と仰っていたのに?」
ミダスは首を傾げ、今度は周囲の学生たちを見回した。
「おかしいなあ。つい先ほどまで大広間中に聞かせていた話なのに、私が来た途端に秘密になってしまった!」
小さな笑いが起きる。
ルシアンが声を荒らげた。
「違う! 私は半年前からエミリアを愛している! その頃から何度も二人で話し、贈り物もした。彼女が私にとって特別な女性であることは、ずっと前から分かっていた!」
「ルシアン様……!」
エミリアが止めたときには遅かった。ミダスの口角が上がった。
「半年前?」
「そうだ! それがどうした!」
「学院長先生!」
突然呼ばれた学院長が、自分の後ろを確認した。
「……私ですか?」
「ほかに学院長がいるんですか! 今の聞いておられました?」
「殿下が半年前からエミリア嬢を愛しており、二人で会い、贈り物もしていたと仰ったことなら……」
「ありがとうございます! 証人一名!」
「待ちなさい。私は証人になるとは」
「いやあ、学院長先生ほど信用できる方がいて助かりました!」
「今日初めて会ったでしょう」
「だからこそ! 嫌いになる時間がまだなかった!」
学院長は何か言いかけて、やめた。
その瞬間、ルシアンの足元で金色の光が弾けた。床を走った線が巨大な円を描き、その中央に文字が浮かび上がる。
《神聖婚約契約 第七条照合》
《婚約期間中の婚姻意思を伴う交際》
《継続期間 六か月》
《私的贈答 複数回》
《契約違反認定》
「な、何だ!?」
ルシアンが足元を見る。ミダスだけは笑っていた。
「いやあ、助かります。ご本人がここまで丁寧に説明してくださると手続きが早い」
ルシアンの顔色が変わった。
「待て! 私はエミリアとの関係を不貞などと認めていない! 遊びで会っていたのではない!」
「ほう。では何です?」
「真実の愛だ!」
ミダスはルシアンの顔をまじまじと見た。次の瞬間、その鼻先へ指を突きつける。
「愛? 婚約契約中の不貞を、ずいぶん可愛らしい名前で呼ぶんですねえ!」
「貴様!」
「遊びじゃない、本気だった! 半年間ずっと本気だった! だから何だっていうんです! 本気なら契約を破っても無料なんですか!? だったら世の中の債務者は全員本気ですよ!」
ミダスは契約書を振り上げ、学生たちへ向き直った。
「皆さんも覚えておいてください! 借金を返せと言われたら『真実の借金です』! 納期を破ったら『真実の遅刻です』! 契約を破ったら『真実の愛です』! これで全部許されるそうですよ! いやあ、明日から裁判所が暇になる!」
広間のあちこちから笑いが漏れた。
「私の愛を愚弄するな!」
「してませんよ! 好きなら好きで勝手にすればいい! 結婚したければすればいい! ただシャーロット嬢との婚約を片づけてからやりなさいよ! なんで半年も二人同時に抱えてるんです!」
「私はシャーロットを愛していない!」
「だから解除すればよかったでしょう!」
ミダスは両腕を大きく広げた。
「愛も欲しい! 王太子の椅子も欲しい! 公爵家との同盟も欲しい! でも請求書だけはいらない!? 殿下、福袋じゃないんですよ! 欲しいものだけ持って帰らないでください!」
学生たちがとうとう声を上げて笑った。ルシアンの足元で、魔法陣がさらに強く輝く。
《担保執行》
腰に佩いていた第一王剣へ赤い札が貼りついた。ルシアンが反射的に柄を握ったが、剣は鞘から一寸も動かない。
ミダスがすぐに近寄った。
「ほう! これが第一王剣ですか。保存状態もいい!」
「触るな!」
「査定しているんです」
「王家の宝だぞ!」
「なお結構! 価値のない物を差し押さえてどうするんです!」
次の赤い紋章がルシアンの胸元へ浮かび、王紋魔石に貼りついた。続いて成年記念の指輪、加護魔具にも赤い札が現れる。
ミダスはルシアンの周囲を歩きながら、頭から足元まで眺めた。
「第一王剣、王紋魔石、指輪、加護魔具……殿下、その上着も高そうですねえ」
「服まで取るつもりか!」
「値段を見てるだけでしょう! 何を警戒してるんですか!」
「先生」
シャーロットが呼んだ。
「今度は何です?」
「殿下の衣服は結構です。売却額より、脱がせた後の騒ぎの方が高くつきます」
ミダスはルシアンの上着を見て、シャーロットを見る。
「あなた、いい依頼人ですね」
「ありがとうございます」
「褒めてませんよ!」
赤い札が一斉に光った。
《担保評価額 金貨七百六十枚》
《未履行額 金貨七千九百四十枚》
「全っ然足りない!」
ミダスが叫ぶと、ルシアンも負けじと声を上げた。
「第一王剣まで奪っておいて、なぜそれだけなのだ!」
「王家の所有物だからですよ! 殿下に認められている使用権しか担保にできない! 王家の宝を丸ごと売ったら私が泥棒でしょうが!」
「止めろ!」
広間の奥から低い声が飛んだ。王国宰相だった。
それまで事態を見守っていた老臣が来賓席から立ち、広間の中央へ出る。
「リーガロウ。これ以上、王太子殿下を辱めることは許さん。これは王家の問題だ」
ミダスの動きが止まった。シャーロットが初めて表情を変える。
「先生」
ところが、ミダスは笑った。先ほどまでとは違う。心底嬉しそうだった。
「王家の問題?」
宰相の眉が動く。
「そう言った」
「学院長先生!」
学院長が顔をしかめた。
「……何でしょう」
「今の聞きました!?」
「聞いておりますが、私はもう」
「結構! 聞いていれば十分です!」
ミダスは法衣を翻して宰相へ向き直った。
「確認します。今のは王国宰相としてのお言葉ですか?」
「無論だ」
「つまり王家は、ルシアン殿下による一方的な婚約破棄を王家の意思として追認なさる?」
「そういう意味ではない」
「では殿下個人の問題ですね。お下がりください」
「貴様!」
ミダスは一歩、宰相へ近づいた。
「どちらです? 殿下個人の暴走なら、私は殿下個人へ請求する。ところが今、宰相閣下は『王家の問題だ』とおっしゃった! いやあ、私としては大歓迎ですよ!」
両手を広げる。
「王家とアライ公爵家との政治同盟を、王家が一方的に破棄した! そういうお話でしたら請求先を変えましょう! 王室財産、直轄領収益、王家保有魔石、その他もろもろ! 殿下一人よりよほど取りやすい!」
「待て!」
今度は宰相が止めた。ミダスがぴたりと黙る。
宰相はルシアンを一度見たあと、低い声で言った。
「……殿下個人の問題だ」
「でしょうねえ!」
ミダスは即座にルシアンへ戻った。
「いやあ残念! もう少しで大口案件になるところだったのに!」
シャーロットが額に指を当てる。
「先生。王家を相手に商売を始めないでくださいませ」
「あなたの回収額も増えるんですよ?」
「そういうことを申し上げているのではございません」
「私は金の話をしてるんですよ!」
ルシアンの顔は怒りで歪んでいた。
「ふざけるな……私が誰を愛するかまで金に換えるのか。私はエミリアを選んだ。それの何が悪い! 愛する者を自分で選ぶことが、そんなに悪いのか!」
「悪くありませんよ」
ミダスはあっさり答えた。ルシアンが詰まる。
「好きになさい。エミリア嬢を愛したなら愛せばいい。シャーロット嬢と結婚したくないならやめればいい。王太子を辞めて駆け落ちしたって私は止めませんよ」
ミダスは赤い札だらけになったルシアンを指差した。
「ただねえ、自分で選びたい、自分で決めたいとあれだけ格好よく啖呵を切っておいて、請求書が来た途端に『父上たちが決めた契約です』はないでしょう! 自分で選んだんでしょう? だったら最後まで自分でやりなさいよ!」
ルシアンの口が閉じる。ミダスは契約書を開き、未履行額を指先で叩いた。
「というわけで、残り金貨七千九百四十枚!」
「そんな額、私個人で払えるわけがない!」
「でしょうね。ですから次へ行きます」
なぜか嬉しそうなミダスに、ルシアンが眉をひそめた。
「次?」
「ええ。次の担保です」
ミダスの指が契約書の一行をなぞった。
「第十九条」
それまで黙っていた宰相の顔色が変わった。
「待て、リーガロウ! 第十九条は」
もう遅かった。
ルシアンの足元から金色の光が立ち上がり、礼装の胸に刺繍された獅子へ絡みついた。先ほどまでとは違う光に、ルシアンもさすがに後ずさる。
《神聖婚約契約 第十九条》
《通常担保による履行不能を確認》
《王家の祝福 担保執行》
「何だ、これは! 何をするつもりだ!」
宰相がルシアンの前まで駆け寄った。
「殿下、今すぐ契約履行を宣言してください。残額を支払うと仰るのです!」
「待て。なぜ私が」
「いいから早く!」
普段なら王太子を怒鳴ることなどない男だった。その剣幕にエミリアまでルシアンの腕を掴む。
「ルシアン様、払ってください。お金なら私も働きますから!」
「私がここで払えば、私がエミリアを選んだことまで間違いだったと認めることになる」
「そんなこと誰も言っていません! 私はただ、こんなことであなたが何かを失うくらいなら」
「こんなこと?」
エミリアが言葉を詰まらせた。
「違います、そういう意味では……!」
ミダスが口を開きかけると、シャーロットが法衣の袖を掴んだ。
「先生、今は黙っていてくださいませ」
「いや、しかし今のは」
「黙って」
「……はい」
ルシアンはエミリアの手を見たあと、ゆっくり自分の腕から外した。
「払わない。私は今日、自分の人生を自分で決めるためにここへ立ったんだ。ここで金を払って頭を下げたら、結局また王家と公爵家の決めたとおりに戻るだけだ」
「殿下、それと契約履行は話が」
宰相が言い終える前に、ルシアンは首を振った。
「払わない」
今度は誰もすぐには言葉を返さなかった。
ミダスはシャーロットを見る。彼女の手が袖から離れたのを確認してから、ルシアンへ向き直った。
「承りました」
金色の光が一気に収束した。王太子の礼装に刺繍されていた獅子が胸元から浮き上がり、ルシアンが掴もうとするより早く空中で砕け散る。
《王家の祝福 停止》
《王位継承資格 停止》
ざわめきすら起こらなかった。
ルシアンは何度も自分の胸元を撫でた。刺繍そのものは残っているのに、そこに宿っていた金色の輝きだけが消えている。
「……何だ。これは何だ、宰相」
老臣はすぐには答えなかった。
代わりにミダスが契約書を開く。
「神聖婚約契約第十九条。王家と公爵家の政治同盟を一方的に毀損し、通常財産による賠償能力を欠く王族については、王家を代表する資格を担保として停止する。今のところは停止です。きちんと払って手続きを踏めば、戻せる余地はありますよ」
「なら戻せ! 父上に金を用意させる!」
ルシアンが宰相へ詰め寄ったが、老臣の顔は険しいままだった。
「陛下がお支払いになるなら、まず王家が殿下の債務を引き受ける手続きが必要になります。先ほど王家としての関与を否定したばかりです。私の一存では覆せません」
「私は王太子だぞ!」
「その王太子としての資格が、今止まったんですよ」
ミダスが口を挟むと、ルシアンが振り返った。
「黙れ!」
「嫌です。そこを黙ったら何のために金貨五百枚も頂いたのか分からないでしょう!」
その日のうちに王家の緊急会議が招集された。王位継承資格を停止されたルシアンを、そのまま王太子として公務に就けることはできない。王太子としての職務も停止され、アライ公爵家との婚約は神聖契約に従って正式な解除手続きへ移ることになった。
卒業を祝うための舞踏会は、とっくに終わっていた。学生たちは帰ることも忘れ、誰もいなくなった中央でルシアンとエミリアだけが立ち尽くしている。
「では、私はこれで。残りの手続きは明日、請求書と一緒にお送りします」
ミダスが革鞄を持ち上げたところで、エミリアが呼び止めた。
「お待ちください! シャーロット様のことはどうなるんですか。私が教本を隠されたことも、茶会から締め出されたことも、階段で突き落とされそうになったことも、何も終わっていません!」
ミダスは帰りかけた足を止め、面倒そうに振り返った。
「では一つずつやりましょう。教本をシャーロット嬢が隠すところを見た方は?」
「それは……見ていません。でも、私の机からなくなって」
「茶会は?」
「招待されませんでした」
「それは聞きました。シャーロット嬢があなたを呼ぶなと命じたところを聞いた方は?」
「いません。でも、あの茶会にはシャーロット様のお友達が何人も」
「階段は誰に押されたんです?」
「後ろからだったので、顔は……」
ミダスはそこでエミリアから離れ、広間に残っている学生たちへ向き直った。
「では皆さんに聞きましょう! 教本でも茶会でも階段でもいい! シャーロット・アライ本人がやったところを見た方、どうぞ手を挙げてください!」
何人かが隣の顔を窺ったが、手は上がらなかった。
ミダスはしばらく待ってから、エミリアへ戻った。
「教本が消えた。茶会に呼ばれなかった。階段で誰かに押された。そこまではあなたの話として聞きましょう。で、どうして犯人がシャーロット嬢になるんです?」
「皆が……そう言っていたからです」
「皆!」
ミダスは待ってましたとばかりに振り返った。
「いましたよ、犯人! 『皆』さんです! いやあ、ぜひお会いしたい! これだけ大勢いるのに姿を見せず、教本を盗み、茶会の名簿を操り、階段で人まで押す! 大変な悪党だ!」
笑いかけた学生たちも、自分たちがその「皆」に含まれていると気づいて口を閉じた。
エミリアの顔が赤くなる。
「私は嘘なんてついていません! 本当に嫌なことをされて、みんなもシャーロット様だって」
「あなたが嫌な目に遭ったことまで嘘だとは言ってませんよ。ただね、人を犯人扱いするなら『みんなが言ってた』よりもう少しましなものを持ってきてください。目撃者でも手紙でも本人の発言でもいい。でなければ、今夜あなた方がやったことは、大勢の前で一人の令嬢を証拠もなく犯罪者扱いしただけです」
シャーロットがそこで初めて割って入った。
「先生。もう結構です」
「結構ではありません。あなたが結構でも私が困るんですよ」
「なぜ先生が?」
「ここを詰めないと成功報酬が減るでしょう!」
シャーロットは一度だけ目を閉じた。
「……やはり、そちらですか」
「最初からそちらですよ!」
ミダスは鞄を持ち直したところで、何か思い出したようにエミリアを見る。
「そうでした。あなたの方も残っています」
「私……?」
「殿下がシャーロット嬢と婚約中だと知っていましたね?」
「知っていました。でも、私たちは本当に」
「ええええ、愛の話はもう十分聞きました! 半年間、将来の結婚を考えて交際し、贈り物も受け取った。契約侵害への加担として請求対象になり得ます」
エミリアは両手を胸元で握った。
「そんな……私、お金なんてありません」
「資産は?」
「ありません」
「土地、魔石、宝石は?」
「ありません! 私は平民です!」
ミダスの勢いが目に見えて落ちた。
「相続予定は?」
「ありません」
「本当に?」
「ありません!」
数秒前まであれほど饒舌だった男が黙り込む。シャーロットが横から助け船を出した。
「先生。おそらく調べても出てきませんよ」
「…………月賦ですね」
「そこまでして取るのですか?」
「当たり前でしょう!」
ミダスは心底理解できないという顔で振り返った。
「お金がないから無料? そんな制度を作ったら私が廃業するでしょう!」
「結局、ご自分なのですね」
「当然です。私は弁護士ですよ!」
◇
三日後。
ミダス・リーガロウ法律事務所の机には、神聖契約によって回収された成功報酬の金貨が積まれていた。ミダスは一枚を指で弾き、落ちてきた金貨を受け止めると、何度見ても飽きないらしく明かりに透かした。
「いやあ、王族というのは素晴らしい! 剣はある、魔石はある、収益権はある。債務者として非常に優秀です!」
向かいに座るシャーロットは、紅茶を一口飲んでから答えた。
「三日前は最低の相手だと仰っていましたが」
「撤回します。払える人間はいい人間です。払えない人間は、これから払ってもらう人間です」
「先生は人間をお金でしか見ていないのですか?」
「失礼な! 人柄も見ていますよ。支払いのいい人はだいたい好きです!」
シャーロットは返事をせず、足元の鞄から厚い紙束を取り出して机へ置いた。金貨の山より厚いそれを見た瞬間、ミダスの笑顔が消える。
「……何です、これは」
「次のお仕事です。あの夜、私を犯罪者と呼んだ方々を整理してまいりました。虚偽の証言をした者、噂を広めた者、その噂を理由に父との取引を打ち切った商会まで、一応すべて」
「一応でこの厚さ!?」
ミダスは嫌そうに一枚目をめくった。二枚、三枚、十枚と進めても、まだ紙束の上半分にすら届かない。
「まさか、これ全員やれと?」
「無理でしたら結構です」
「無理とは言ってません! 嫌だと言ってるんです! 何人いると思ってるんですか。私は慈善事業家じゃないんですよ!」
「存じております」
シャーロットはそう言って、別の紙を一枚だけ机へ置いた。
「着手金、金貨三百枚。成功報酬は二割で」
ミダスの指が止まった。
「……二割?」
「はい」
ミダスは紙束を見た。先ほどまであれほど嫌そうにめくっていた紙束を両手で持ち上げ、今度は一枚目から真剣に読み始める。
「やりましょう!」
「先ほど嫌だと仰っていませんでしたか?」
「誰がそんなことを!」
「先生です」
「気が変わりました!」
ミダスは立ち上がると、紙束を机へ叩きつけた。
「いいですか、アライ嬢! 人の名誉を傷つけ、根拠のない噂を広め、あまつさえそれを理由に取引まで打ち切る! こんな横暴を見過ごして、いったい何のための法律ですか! 私は今、猛烈に腹が立っている!」
「二割だからでは?」
「それとこれとは話が……いや、二割も大事です! 非常に大事です! しかし今は正義の話をしている!」
ミダスは紙束から数枚を抜き出し、ものすごい勢いで仕分け始めた。
「まず虚偽の証言をした連中! 次に噂を広めた連中! 商会は最後です。金を持っていますからね、じっくりやりましょう! ああ、取引停止による損失額も出してください。精神的損害? もちろん請求します! 謝罪文? 要りません、金にならない!」
「先生」
「何です!」
「楽しそうですね」
ミダスは羽根ペンを取った。
「最高です!」
契約書の一番下へ署名する。
「一人残らず、きっちり払っていただきましょう!」




