8 やっておしまいなさい(3)
「えっ……?」
シャンパンを片手に令嬢の輪の中で歓談していたミリエッタの顔が歪んだ。
「あれは……ディードリヒ様!?」
「あら、副団長様だわ」
取り巻きの令嬢たちも気が付いて、扇子で口元を押さえた。
全員、顔の向きはそのままだが興味津々に目だけをキョロッと動かしている。
「ダンスの相手!? あんな平民の小娘にどうして!?」
「ノア王子の差し金だわ」
「じゃあ、王子の護衛は? いつもディードリヒ様がなさっているでしょう?」
「ほら、ご覧になって。騎士団長が直々に護衛なさっているわ」
ノア王子の元には、御年五十にはなるのではないかという騎士団長、ゼファルディンが暇そうに髭をいじりながら立っていた。
飄々としたいわゆる『おじさん』なのだが、いつもは外交上の警備に出向いているからか、こうした国内のきらびやかなガーデンパーティーでは居心地が悪そうだ。
ディードリヒが任務ではなく、私的な用事でここにいることが分かる。
あのゼファルディン団長がただのパーティーに出て、ディードリヒに代わってノア王子の護衛をするなんてことはこれまで一度も無かった。
ただならないことが起きている。
クラリッサが驚いて、扇をパチンと開いた。
「まあ、本当に踊るのね。初めてじゃないかしら、ディードリヒ様が誘われるの」
ミリエッタはぎりぎりと指を握りしめた。
表情に苛立ちが隠しきれず、ヘレナの背後の壁ぎわで腰掛け、優雅にフレーズを食べているエリザベートを忌々しげににらみつける。
「あの悪女ッ……!」
取り巻きの一人、クラリッサがオロオロしながらミリエッタの機嫌をとろうとする。
「ミリエッタ様、あんな平民の小娘、どうもできませんわ」
男爵家の双子のレナとミナもぶんぶんと首を上下に動かした。
「ええ、ええ。あんな地味な庶民じみた女に、ダンスを申し込むだなんて、恥をかかせるだけですよう」
「はい、はい。そうです、きっと罰ゲームみたいなものですよう。ごらんください、ディードリヒ様ものすごく嫌そうなお顔をされています。きっと本意ではないのですわ」
「あら! そうですわ、眉間に皺を寄せておられます。ディードリヒ様も本意ではないのですわ。ええ、きっとすぐにミリエッタ様のところへいらっしゃいます」
「そうかしら?」
「もちろんですわ。あの庶民の野生児と、淑女のミリエッタ様。どちらがディードリヒ様にふさわしいかは一目瞭然です」
クラリッサもほっとした顔で同意する。
何しろミリエッタはといえば、表だっては静かにしているくせに、機嫌が悪いときは取り巻きを使って嫌がらせをさせるのだ。
廊下でディードリヒがヘレナを抱き起こしただけでも、教科書を燃やせだの何だのと命令をしてきたのだ。
今度、ディードリヒのことで機嫌を損ねたら、ヘレナを殺してこいとでも言われそうだ。
そんな令嬢たちの攻防はつゆ知らず、副団長ディードリヒは苦虫をかみつぶしたような顔で、ヘレナにダンスを申し込んでいた。
話は十日前に遡る。
王城で登団したところ、にんまりと笑んだ上司――一応王族が彼の直属の上司にはなる――第二王子ノアが待ち構えていた。剣の相手でもさせられるのかと思ったら、王子は信じられないことに、ディードリヒに舞踏をやれと命令したのだ。
剣舞ならばまだしも、ペア・ダンスなど、無謀だ。
大柄なディードリヒは、上背もあり筋肉もあり、つまりは非常に大きい。
壊れそうなレディたちの身体に触れるのも怖いというのに、ましてやパーティーでのダンスなどふざけている。
冗談ですよね、と言ったディードリヒに、ノア王子は
「『冗談』になる『命令』は無いんだよ、ディードリヒ」
と、子どもに言い聞かせるように微笑んだのだった。
彼の知る限り、第二王子ノアはこのエルムランド中で敵に回してはいけない男ナンバーワンだ。苛烈で過激な本性を、狡猾といってさえいいようなよく冴えた頭脳と、甘い美青年のマスクに隠している権力者。
そういうわけで、ディードリヒはわけもわからず、ヘレナという女性にダンスを申し込むはめになってしまったのだった。
(か、帰りたい……!)
周囲の貴族にじろじろと注目されることさえ好きではないのに、なぜ自分はよく知りもしない初対面の男爵令嬢にダンスを申し込んでいるのだろうか。
ディードリヒは一筋の希望をもって、ヘレナを熱っぽく見つめた。
(可憐なご令嬢……どうか断ってくれ)
しかし、ヘレナ・ホフマン男爵令嬢は、何かを決意したらしいキリリとした眼差しで、ディードリヒの手に手を重ねた。
「はい、よろこんで!」
ディードリヒの頭の中で、『希望』という小さなレンガの家がガラガラと音をたてて壊れていった。




